落ち着かない気分
成瀬は、よく部活中の俺と桃を眺めていた。目が合うと会釈くらいはするけれど、歩み寄ってきて会話することはない。「こっちから話しかけたらいいのかなあ」と桃は気にかけていて、「何話したらいいか分からんぞ」と俺は練習前のストレッチで軆を温める。
九月の半ばを過ぎても残暑は厳しく、相変わらず熱気が軆の水分を奪っていく。さすがに蝉の声はなくなり、夜長は秋の虫の澄んだ響きになったけど。
俺にはスポーツと食欲の秋だ。南の料理や桃の弁当を食べて、めいっぱい軆を動かすのが気持ちいい。成瀬のことがなければ、大して悩みさえないのに。
桃を傷つけない、というより、むしろ桃が気にしているなら、俺も成瀬に文句は言えない。おとなしく彼女に観察される日々が続いた。
そんな毎日が、ちょっとストレスになっている感じもした。家での夕飯時、麻婆茄子を白飯にかけながらため息なんかついてしまうと、同じテーブルにいた家族がみんなぎょっと俺を見た。
「授くんがため息ついたよ!?」
真っ先に声を上げたのは奏で、「やってることはいつも通りだけど」と響は麻婆茄子丼を作る俺の手元を見る。
「まさか、授に悩みが」
「桃ちゃんと何かあったとか?」
正面の席にいる司と南を見た俺は、「そういやさ」と秋茄子をひと切れ頬張って、ぴりっとした辛さを噛みしめて飲みこむ。
「巴さんって、司と南を見守ってるのが幸せだって前に言ってたよな」
巴さんは響と奏の母親で、南の元奥さんだ。司とも幼なじみで、誰よりも司と南を応援してくれた人だと聞いている。
「巴はそう言ってくれるね」
「あいつも恋愛すればいいのにな」
「そういうふうに見守られてて、どう?」
「どうって何だよ」
怪訝そうな司に、俺はひとり唸って「違うなあ」とつぶやく。
「巴さんは、気になる感じしないよなあ。応援してくれてるんだもんなあ」
「何の話だよ」
里芋とイカの煮物の小鉢を手にした司に言われて、俺は家族を見まわす。それから、正直に成瀬のことをさくっと話してみた。
俺と桃を眺めてくること。友達になりたいと言われたこと。桃が成瀬を気にかけていること。
司と南、響と奏も俺の話に目を交わし、「それは巴とは違う感じだな」と司が切り出して、南もうなずく。
「巴は僕たちを見守ってくれたけど、何というか、物理的に見つめてくるってわけじゃなかったし」
「普通に授くんに気があるんじゃないの」
「本人は否定するんだよなー」
「肯定はしないでしょ、桃ちゃんの前で」
「桃はあいつのこと心配するしさ。桃に迷惑かけてないなら、俺は何も言えないじゃん」
麻婆茄子と白飯を、別々に口に含んでいた響が、「もしかして」とそれを飲みこんでから言った。
「授、時野さんがその子のこと気にするから、嫉妬してる?」
「はっ?」
「鋭いぞ、響。そんな感じするな」
「何だー、授くんもやきもち妬いたりするんだ」
「いや、やきもち──なのか? 桃……は、確かに、あいつのこと……」
俺はほかほかの麻婆茄子丼の香辛料の赤色を見つめ、嫉妬、と反芻した。確かに、成瀬がいるのに気づくと、桃が彼女のことを口にするのがちょっとおもしろくはない──
「うわっ」と俺は撃たれたように軆を反らせ、頭を抱える。
「俺のほうがダメージになってるのかっ」
「桃ちゃんも話したほうがって思ってるなら、その子ともう一度話してみたら?」
「言えるなら、正直に気に障るとも言えよ。確かに、俺も南といるのをそんなふうに見つめられたらちょっと怖い」
「司あ。やっぱそうだよな? 怖いよな?」
「怖い。何かあるなら言えよって思う」
「そうなんだよ! 言えよ! 語っていいよ! 俺と桃のどこに憧れてるとか、しゃべってくれたらこんなに気にならないんだ。見てるだけって何なんだよー。そんなの友達じゃないし」
「一気に本音だだ漏れ」
ポタージュスープを飲んで奏が言い、「こっちのほうが授らしいよ」と響が苦笑する。
「よし、明日成瀬に話しかけて、ちゃんと話つける。ありがとなっ。何かすっきりしたわ」
「授がため息はちょっとね」
「ため息は俺もつきますよ」
「すごく悩んだため息だったよねー」
「授があれはない」
「何だよ、俺がいつもは悩みないみたいに」
「じゃあ、普段からの悩みってあるの?」
首をかたむけた響に、「ないけどな」と答えて、俺は茶碗を持ち上げて麻婆茄子丼をがつがつ食らいはじめる。
家族はちょっと笑い出しながらも、「何かあれば僕たちいつでも聞いてあげるから」と南が言って、司もうなずいた。俺は口元に挽き肉をくっつけながら、「おうっ」と笑顔になって、すぐに茶碗を空っぽにしてしまった。
そんなわけで翌日、俺は桃に今日も成瀬が現れたら話しかけようと持ちかけた。ざわめく朝のホームで電車を待ちながら、「授くん、話したくなさそうだったのに」と桃はまばたく。俺は決まり悪く「桃が俺よりあいつのこと気にしてるのはやだから、すっきりすんの」と少し頬を染めた。桃は俺を見つめて、軽く噴き出すと「ありがとう」と俺の手をつかむ。俺はそれを握り返し、嫉妬してますって認めるのはけっこう恥ずかしいな、と思った。
二学期が始まったとき、抜き打ちテストで赤点を取って苦労したのも忘れて、その日も相変わらず、俺は授業中はあくびをしながら窓のほうを眺めていた。
今日はちょっと天気が悪くて、雨は降っていなくても灰色がかった曇り空だ。空気は夏の雨のときのようにむしむしせず、ひんやりしている。朝の天気予報では、降らないとは言っていたけど、大丈夫だろうか。
傘持ってきてないなあ、と目をこすって、頬杖をついて黒板に目を戻した。数学の授業だが、その問題で何がしたいのか、ぜんぜん分からない。数学は算数だった頃から相性が悪い。俺はつくえに突っ伏して、うつらうつらしながら一日の授業をやり過ごした。
放課後、案じていた通り、予報が外れて小雨が降り出した。グラウンドでの練習は中止で、体育館でのトレーニングになった。俺がひょいひょいと腹筋をこなし、桃がそれを数えていると、雨の匂いがただよう入口から、ふと女子生徒が体育館を覗きこんできたのが見えた。
長い黒髪にクールビューティー。成瀬だ。
「放課後、茶でもできるか訊いてきて」と俺が頼むと、桃はうなずいて成瀬のほうへ駆けていった。俺はそのあいだ、腹筋を休んでドリンクで軆を潤す。そして、上体を倒す柔軟でもやっていると、「授くん」と桃の声がした。
俺は軆を起こして振り返り、すると、桃のあとに成瀬がついてきていたので、まばたきをしてしまう。
「鼓ちゃん、帰るだけなんだって」
「え。あー、そうか。部活十七時半まであるもんな。今日はやめといて帰る?」
「いえ、ここで水瀬先輩と時野先輩を見てます」
「………、俺はストレッチしながらになるけど、今、話すか」
「話、ですか」
「話があるんですよ、君に」
床にあぐらをかいた俺に、「何でしょうか」と成瀬は首をかたむける。桃は成瀬をうながしてから、床に正座をした。成瀬もゆっくりその場に腰をおろす。
「俺たちって、友達になったじゃん」
「はい」
「でも、君って、俺らのこと見てるだけじゃん」
「はい」
「それは違うだろ」
「違う、というと」
「友達って、もっと関わってしゃべったりするだろ」
「ああ……そういうものなんでしょうか」
「そういうものでしょ。友達いないのですか」
柔軟をしながら露骨に言ってしまう俺を、「授くん」と桃がたしなめる。それでも俺は成瀬を見つめて、すると成瀬は「そうですね」と眉を寄せて考えながら言った。
「あんまりいないです」
「マジで」
「ぜんぜんいないってわけじゃないですよ」
「じゃあ、その友達と休み時間とか放課後にしゃべったりするだろ」
「あんまり、べたべたしないです」
「俺と桃は、べたべたするのっ。だから、今日の放課後は、俺と桃と茶でもして帰りなさい」
成瀬は睫毛をぱたぱたとさせて、「いいんですか」と首をかたむける。艶々の黒髪が所作に流れる。
「おう。ちゃんと話そう」
「時野先輩も──」
「うん。鼓ちゃんのこと聞いてみたい」
「私のこと……」
「部活終わるまで、ここで俺と桃を見てりゃいいから、放課後はちょっとつきあいなさい」
成瀬は一考したものの、「分かりました」と首肯した。
そのとき、「何を女子としゃべってんだー」とコーチの声がかかり、「あ、はいっ」と俺は立ち上がる。桃も立ち上がり、「ゆっくりしてて」と成瀬に微笑んだ。
そして俺はみんなに混ざって十七時半まで軆を作る筋トレ、桃はそのサポートに励んだ。
部活が終わると、部室のプレハブはグラウンドなので、男子はそのまま体育館で着替えた。桃は制服のままだから、着替えも何もない。
「お疲れっしたー」と挨拶すると、俺たちを眺めていた成瀬の元に行く。「駅前の茶店か何かに行くぞ」と俺が言うと、「はい」と成瀬は立ち上がって、桃が「雨、大丈夫かな」と首をかしげる。「そういや降ってたなあ」とか言いながら体育館を出ると、さいわい小雨は小休止していた。
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