心に宿る彼-4

切っかけ

 僕の毎日は、家庭と高校、そして週三回の塾でだいたいできあがっている。ひたすら勉強に打ちこんでいる。けれど、ときどき苦しいのが、イジメられていたときのフラッシュバックだった。
 普段からよく起きるわけではなく、やはり、教室で咲坂さんが嫌がらせをされているのを見て、つい思い出すことが多い。志井さんにはああ言ったものの、僕はまだ咲坂さんに話しかけられずにいた。それどころか、昔を思い出してめまいがしているなんて、弱いな、と自己嫌悪になる。
 強くなりたい。ならなきゃいけない。そして、強くなるということは、咲坂さんをこのまま平然と無視することではないはずだ。なのに、僕は近づくどころか席を立ってみることもできなくて、何だかちょっと勉強に逃げこんでいるふしもある。
 中間考査が過ぎ去って十一月に入ると、いよいよ寒くなってジャケットでは足りなくて、コートを羽織って通学するようになった。黒か紺と色が決まっているので、僕は高校一年生の初秋に黒のコートを買ってもらった。
 進学校なのですでに進路の話も出ていて、僕は中学生のときから目指している、法学の権威の大学を目指すのを担任の先生に伝えていた。「お前なら滑り止めを受けておく心配もいらないなあ」と言われたものの、僕は念を入れる勉強を欠かさず、ちょっとでも引っかかったらなめらかに理解できるまで、同じ問題を見直す。
 その日も高校の帰りに塾があり、電車を途中下車してにぎやかな街に出た。ハロウィンが終わって、すぐに街はクリスマスに染まっている。
 風が吹くとコートの中に身をすくめてしまうけれど、開講まで少し時間があった。しかし、温かいお茶を飲んでいるほどの余裕もないので、塾の近くのビルに入っている大きな本屋で時間をつぶすことにした。
 この本屋は英文のペーパーバックがたくさん置いてあるので、たまに来ることがある。図書館で借りて好きになった作家の未翻訳の本があったりして、僕は楽しいのだけど、授あたりには「何で趣味が日本語じゃないんすか」と言われる。原文で読んだほうが納得するからと言っても、震えあがるように首を横に振られる。
 でも、そんな授は陸上で本当に有名な選手で、僕の高校でも知っている人がいる。名字が別なので、特に僕に何か訊かれることはなく、本当にクラスで「あの高校の水瀬授がまた記録出したらしいぞ」とかうわさになったりしている。
 すごいよなあ、なんて思いつつ、店内を横切って奥のほうの海外文学コーナーに行こうと、画集や写真集が並ぶ売り場を通りかかったときだった。
 はたと足を止める。目に留まったすがたがあったのだ。ツインテールの紺のコートを着た女の子が、一冊の本を手にしている。あれは、と思って窺ってみると、見憶えのある眼鏡をかけていて、やっぱり咲坂さんだった。
 何やらその本を眺め、レジに持っていこうとして、悩んで、立ち止まったりしている。ああいう本は高いから、迷っているのかもしれない。何の本だろう、と何気なく思ってその本に目を凝らしてみると、何だかその青い本は見たことがある気がした。
 でも、僕は画集や写真集はそんなに──画集?
 あ、と思った。まさかと思ってケータイを取り出し、『美由南 表紙』で画像検索してみると、咲坂さんが抱えている本と近い画集の表紙が出てきた。
 あれは南の画集だ。南は絵を描く仕事をしている。有名な作家の挿絵も担当したりしていて、中にはアニメになったりゲームになったりしているものもある。だから、ヲタクらしき咲坂さんが南を知っていて、さらにファンであっても、そんなに不思議はなかった。
 教室での毅然とした様子もなく、うろうろ躊躇う咲坂さんを眺めていると、彼女はついに思い切って、レジのほうに歩いて行ってしまった。
 買うんだ、とその思い切りに失礼ながら驚いていると、「すみません」と突っ立つ僕に困ったように声をかけてきた、中学生くらいの女の子がいた。はっとして、「ごめんなさい」と謝って身を引く。
 僕は本屋の入口に戻って、レジから嬉しそうにふくろを提げて出ていってしまう咲坂さんを見守った。肩にかけるかばんは、缶バッジやストラップで飾られている。どうやら全部同じキャラのようだったけど、何の作品のキャラまでかは、一瞬だったし僕には分からなかった。
 話しかけたかったのに、何かストーカーみたいかも、なんて思ってしまって、例によって声はかけられなかった。
 結局、自分の見たかった本は見ないまま、僕は塾の時間が迫っているのに気づいてビルを移った。当の南に『今日は塾なので、夕ごはんは先に食べてください。』と一応メッセしておくのはいつものことだけど、今日は変な感じがした。
 さっきのケータイで検索した情報によると、咲坂さんが買っていったのは『デッドエア』というSF小説シリーズの画集みたいだった。『デッドエア』は読んだことがないけれど、確か佐々木ささきしょう先生が作者だった気がする。
 その人の本は何冊か読んだことがあって、特に小学生の仲良しグループが幽霊退治をする、ホラーコメディがおもしろかった。南は佐々木先生と対談もやったりしているはずだ。
 いつも読んでるのも佐々木先生の作品なのかな、と思った僕は、塾の授業中はさすがに切り替えて勉強したものの、帰りには地元の駅前にある小さい本屋で、『デッドエア』の無印らしき一冊を買ってみた。
 確かに南の絵だなあ、と街燈で表紙を眺めたりしつつ帰宅すると、ただいま、という前に「おかえりー」と声をかけられた。
 顔を上げると、お風呂上がりなのか髪が少し湿っている奏がいた。「ただいま」と答えた僕は、奏が外の寒風で風邪をひいたらいけないのですぐドアを閉める。風がないだけで、ずいぶん暖かいことに気づいた。
「塾だったんだよね。お疲れ」
「うん。ありがとう」
「響くんなら、塾なんか行かなくても受験も大丈夫なのになあ」
「模試とかで傾向を知れるのは助かるから」
「そうなの? てか、また何か本読んでるし」
「あ、これ──は、うん。ちょっと気になって」
 そう言って僕が本をかばんにしまおうとすると、「あ、待って」と奏がその手元を覗きこんでくる。
「『デッドエア』じゃん。南くんが挿絵やってる奴でしょ」
「あ、うん。奏は読んだことあるの?」
「原作は読んだことないけど、コミカライズは読んだことあるよ」
「こみ……?」
「漫画化された奴」
「え、南って漫画描いたっけ」
「いや、漫画は別の人が描いてるよ」
「そうなんだ。アニメ化されたのは知ってるけど」
「最近、それでグッズ展開がすごいよね。南くん、たまにフィギュアとかのチェックとかしてるし」
「何か……すごいよね。南って」
「そうだねえ。司くんといちゃついてるだけじゃないんだねー」
 奏がからから笑うと、「半分聞こえてるんだけど……」と南が恥ずかしそうにしながら顔を出した。そして、そんな南を「おかえり、響」と司が後ろから抱きしめながら僕に言う。
「もう、言われてるそばから」と言いつつ、南は司は腕を振りほどいたりはせず、同じく僕に「おかえり」と言った。「ただいま」と僕は噴き出しながら答えて、「ねえねえ、響くんが南くんの奴読んでるよー」と奏がさっそく報告してしまう。
「あ、何か『デッドエア』とか聞こえてた」
「彰先生の奴だよな? あの人も、奥さんとけっこうこんな感じだぞ」
「常にいちゃついてるの?」
「奏、何かその言い方……」
「俺と南は、これでも日中は別々に生活しててつらいんですけど」
「その程度をつらいって言っちゃうことがいちゃついてるよね」
「何だよそれ。奏もいい加減、好きな子ぐらい作って恋愛を知れ」
「そんなん、作ろうと思ってできないでしょ。だいたい──」
 そこまで言いかけて、奏はくしゃみをした。「髪、ちゃんと乾いてないよ」と南に言われると、「あとは暖房で乾くからー」と言い返して、奏はひらひらとリビングに入っていってしまう。
「風邪ひくよ」と言う南を解放した司は、「響の飯、残ってるぞ」と僕に声をかけた。僕はうなずいて家に上がると、ふたりに続いてリビングに踏みこんだ。
「おう、響おかえりー」
 リビングでゲームをしていた授もそう言ってくれて、「ただいま」と僕は返すと、荷物はいったんカウチにおろした。
「響」
「うん?」
「エビとイカと鶏肉がないなって感じても、気のせいだからな」
「は?」
「あー、今夜の天ぷらを授くんが食い荒らしたってことだよね」
「通訳いらん」
 授は隣で攻略本を読みはじめる奏を睨み、僕は苦笑すると「ほかが残ってるならそれでいいよ」と言った。「えー、響くん優しいよー」と奏は声を上げ、「残ってるからそれでいいんだよ」と授は僕の言葉を繰り返してうなずく。
 ふたりの言い合いに僕は笑いを噛み、いったん洗面所で手を洗ってきて、それからダイニングのテーブルに着いた。「ちゃんと出さなかったぶんあるから」と微笑んだ南が、僕の前に天ぷらだけでなく、副菜の高野豆腐のたまご綴じや、ささみときゅうりのサラダを並べてくれる。
「これうまかった」とテーブルで飲みかけのお茶をすすった司が高野豆腐を指さし、「天ぷらに合うってネットで見たんだ」と南も僕の食事を用意し終えると、司の隣の椅子に腰を下ろした。
「いただきます」と言った僕は箸を手に取って、お腹が空いていたことに気づきながら、しばらく黙々と食べる。
「響帰ってきたし、南は作業入るか」
「そうだね。司は疲れてない? 休んでもいいよ」
「そばにいるよ。南いないのに、ベッド行っても寂しいし」
「ごめんね、昼に全部あげられたらいいんだけど」
「それはいいんだけど、ほんと、出版社は絵描きをこき使うよなー」
「まあ、今はちゃんと仕事があるだけありがたいよ」
 司と南のそんな会話を聴きながら、もし咲坂さんが南のファンならサインってもらえるものなのかな、と思った。かなりずるいけれど、それは咲坂さんに話しかける切っかけにはなる気がする。
 でもまだ南のファンなのか、『デッドエア』自体が好きな佐々木先生のファンなのか、よく分からない。とりあえず僕も今夜少しあの本を読んでみよう、と決めると、僕は司と南が一緒に眠るのを約束する様子を見て、やっぱりこのふたりが好きだなと思った。

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