好きな人の話
折れたりしてないかな、と満員電車に乗ったときを思い出して心配になったけど、色紙に描いてもらったのがさいわいして無事だった。
僕は立ち上がり、「これ」と咲坂さんに色紙をさしだす。咲坂さんは僕の手元を見下ろし、「えっ!」とめずらしく大きな声を上げ、そこにいる“リュク”を見つめた。
「え、これ……すごい、君が描いたんですか」
「まさか。南に描いてもらったんだ。サインも入ってるでしょ」
「南……そう、君って南さんの親戚とかなんですか? 名字が」
「親戚、というか、あの人は僕の父で」
「はっ? ええ……だって、南さんは同性の恋人と暮らしてるって有名ですよ?」
「いろいろあって、子供はいるんだよね。僕の下に、ひとり弟もいるよ」
「うそ。えー、ぜんぜん知らなかった……。じゃあ、ほんとに? このイラスト、南さんが描いたんですか?」
「そうだよ」
「直筆ですか? ていうか、リュクじゃないですか」
「うん、咲坂さん、好きって言ってたから」
「わ、私のために描いてくれた……いや、何でもないです」
声をすぼめた咲坂さんに僕は咲って、「咲坂さんのために南が描いてくれたんだよ」としっかり伝えた。咲坂さんは目を大きく開き、そのままぎゅっと目をつむると、「やばい」とつぶやく。
「私、今、生きてないかもしれない。南さんが私だけのリュクを描いてくれたって、何だこの超展開」
祈るように胸の前で手を組む咲坂さんに、「ええと、もらってるくれるかな」と僕がおずおずと確認すると、「はいっ」と咲坂さんはまぶたを開く。
「いや、というか、もらっていいんですか」
「それはもちろん」
「あ、お金」
「いらないよ」
「でも」
「大丈夫。気にしないで」
咲坂さんはゆっくり手を持ち上げると、僕からうやうやしく色紙を受け取り、窓からの陽射しにかざしてイラストを見つめた。
瞳が見たこともないほどきらきらしていて、彼女もそんな明るい表情もするんだなと思った。というか、南の絵がそうさせているのか。やっぱり南はすごいな、と何だか僕まで誇らしくなってしまう。
咲坂さんは優しく色紙を抱きしめると、僕のほうをぱっと見た。
「家宝にします!」
家宝。僕は噴き出して、笑いながらうなずいた。「喜んでもらえてよかった」と言い添えると、「喜ぶに決まってますよ!」と咲坂さんも笑顔で言う。
「私、いろんなことを二次元に支えてもらってる人間なので」
「二次元に」
「歴代の好きな人は、みんな二次元です。今の推しはリュクだから、この学校での嫌なこと全部、リュクがいるからくじけてないんです。かばんとかに、いっぱいこうしてつけてるのは全部私にとってお守りです。だから、学校にいるときもかばんは持ち歩いてるんです」
「そうなんだ。確かに、何で持ってくるんだろうって思った」
「教室に置いてたら、悪戯されるかもしれないのもありますけどね。持ってこないと気持ちが不安定になるんです。リュクがいつも見えるとこにいるから、私は頑張れるんです」
「そっか。それが心の支えになってるなら、いいと思う」
咲坂さんは僕を見て、「ほんとに?」と確認する。僕はうなずき、「何が心のよりどころになるかは、みんな違うよ」と言った。
「人間だって人も、動物だって人も、ぬいぐるみだって人もいる。咲坂さんにはそれが二次元なんだよね」
「はい。……でも、二次元は触れられないから、理解しない人もいます。会えることはない相手を想ってバカじゃないかって」
「そんなことないよ。好きな人がいるっていうだけで、僕からしたらうらやましいな。僕はまだ、恋愛をしたことがないから」
「え、でも、他校の彼女は」
「確かにお茶をする女の子がいるけど、あの子は友達だよ」
「その子のことが好きってことは、ないんですか」
「うん。僕は今は勉強を頑張りたいから」
「あ、弁護士……ですよね」
「そういえば、それ、どこから聞いたの? 僕、人に言ったことあったかな」
「担任が自慢してたらしいですよ」
「……ああ。先生には言ったな。え、自慢」
「自分のクラスに、そんな立派な生徒がいたら嬉しいと思いますよ」
「そんなものなのかな」
何だか苦笑すると、そろそろ時間がないかもしれないと思ってかばんを持ち上げる。咲坂さんも大事そうに色紙をかばんにしまう。
「私、いつも好きになるのは二次元で、リアルの男の子って正直ちょっと怖くて」
「……うん」
「自分は男性はダメなのかな、とか考えた時期もあるんです。でも、女の子ってもっと考えられなくて。二次元でも好きになるのは男の子ですし。そしたら、ネットでノンセクっていうの見つけたんです」
「ノンセク……?」
「私と同じ女子高生のブログだったんですけど。その人もすっごいヲタで、漫画のキャラが本気で好きらしくて。だけど、リアルで女の子を好きになって、彼女に近づきたいのに触れ合ったりはしたくないっていうのをずっと書いてて。そういう、恋愛はするけど性的なことはなしっていう人、ノンセクシュアルっていうらしいんです」
「……アセクシュアルとは違うの?」
「あれは恋愛もなしです。ノンセクは、相手に恋はするけど、その軆は求めないんです。身近な人を好きになって触れ合わない人もいるんですけど、二次元とか芸能人とか、手の届かない相手を好きになっちゃうタイプのノンセクもあるらしくて。ブログの人も、彼女に失恋したってあとは、また漫画のキャラにそれを癒やしてもらって立ち直ってました。だから、私もそれなのかなって思うんです」
「そっか」
「……変だと、思いますか?」
僕はかぶりを振って、「咲坂さんが自分をそうだと思うなら、僕もそれでいいと思うよ」と微笑んだ。咲坂さんは僕の言葉にうなずき、「ノンセクって名前を知ったとき、自分が認められた気がしました」と言った。
それはとても大事なことだと思った。自分の性が見つからないのは、あるいは認められないのは、きっとすごくつらい。でも、“ノンセクシュアル”のカテゴリの中に、咲坂さんは自分の名前を見つけたのだ。
「何か、やっぱり君はすごいですね」
「え」
「さらっとアセクシュアルとか出てくるから。知識量が違います」
「はは。僕はセクシュアルマイノリティの知識は特につけておきたいと思ってるから」
「そうなんですか。南さんの影響ですか」
「うん。それに、もし弁護士になったら──」
そのときチャイムが鳴った。一度目だからまだ予鈴だけど、僕と咲坂さんは急いで階段を駆け下りる。あんなににぎやかだった廊下が、静かになりはじめている。
「もし」
「えっ」
「もし弁護士になったら、どうしたいんですか?」
走りながら訊いてきた咲坂さんに、僕は笑顔を作って答えた。
「好きになった相手と一緒にいたいって人たちを守りたいんだ」
咲坂さんは僕を見て、「じゃあ、二次元婚も認めてくださいっ」と咲った。僕も思わず咲うと、「頑張ってみる」と答えて、たどりついた教室のドアに手を伸ばした。
それから、僕と咲坂さんはたまに教室を出て話をするようになった。咲坂さんは好きな漫画やアニメの話をして、僕は南と司のことなんかを話す。
咲坂さんはすごく楽しそうで、僕はそれを見ているだけで安心した。僕でも、少しは咲坂さんの役に立てただろうかと。
教室では相変わらず咲坂さんに嫌がらせをする人がいる。でも、そんなのは平気だと咲坂さんははっきり言う。
「私の心には、いつも大好きなキャラクターがいるんです。そのキャラを想うだけで幸せだし、距離なんて感じないんです。彼は確かに私の心に宿ってくれていて、だから私は、どんなことにも心が折れたりしないんです」
昼休みの渡り廊下で、窓にもたれて僕はその話を聞いている。僕が心配するまでもなかったのかな、と思ったりもする。
でも、隣にいる咲坂さんは、「美由くんと仲良くなれてよかったです」と言ってくれる。やっと名前を呼んでくれるようになって、僕も咲坂さんの風という下の名前を最近知った。
「今までは、ネットで緩くつながってる人としか仲間意識も持てなくて。美由くんは友達だなって思えます」
「僕、リアルの男だけどいいのかな」
「美由くんは、紳士なのでセーフです」
「はは」
「私のリュクとの妄想も聞いてくれますし。貴重な存在だと思ってます」
「そっか。ありがとう」
「美由くんこそ、私と話しててつまらなくないですか」
「僕は好きな人の話をしてる人がけっこう好きだから」
「美由くんも、誰か好きにならないんですか?」
「うーん。いつか僕にも好きな人ができたら、その人の話を誰かに聞いてほしいなとは思う」
「私、聞きますよっ。聞きたいです」
僕は冷たい窓に背中を当て、冬陽のきらめきを眺める。
いったい僕は、どんな人を好きになるのだろう。司と南に憧れるし、志井さんを素敵だなと思うし、咲坂さんをかっこいいとも感じる。みんな、好きな人にとてもひたむきだ。
僕もそんなふうに恋をしたい、とは思う。
「咲坂さんみたいに想ってくれる人がいいかな」
「えっ?」
「僕のことを想って、その想いが自分の支えになるって言ってくれる人」
「み……美由くんも男の子だから、その人に触れたいとは思うでしょう?」
「どうだろう。自分で言うのも何だけど、性欲とかあんまり強くないからなあ」
咲坂さんは僕を見つめ、「私みたいな女なんてたくさんいますよ」とつぶやいた。僕は「どうだろうね」と苦笑いする。「美由くんなら、かなり理想高く持って大丈夫ですよ」と咲坂さんは言い、膝丈のスカートの上で手を組む。どこか物言いたげだったけれど、飲みこんでうつむく。
「どうかした?」と僕は首をかたむけ、すると咲坂さんはぶんぶんと首を振った。ツインテールの先が空中を遊ぶ。「何でもないですっ」と咲坂さんは笑みを作ると、また好きな作品やキャラの話を始めて、僕はそれを微笑しながら聞いていた。
【第九章へ】