初めての恋心
「久賀ー。ゲーセン寄っていかね?」
友達が誘ってくれたけど、「また今度ねー」とさらっとかわして、一年七組の教室の前に向かう。渚のクラスだ。ドアも窓も閉まっていて、まだホームルームでも続いているのだろうか。
グラウンドが見渡せる廊下の窓に背中を預け、冷えこむ廊下にコートのポケットに手を突っこむ。雪降らないよなあ、と窓の向こうのぶあつい雲を眺めていると、がたがたっ、と一年七組の教室の中から席を立つ音がした。そちらに向き直ったのと同時に、ドアが開いて生徒があふれだしてくる。
窓を開けた女子生徒に歩み寄って、「永田いる?」と俺は訊いてみた。渚は昔は「笹村」だったけど、里親に引き取られて今は「永田」だ。彼女は教室を振り向き、「丸崎くんと話してるみたいだけど」とそちらをしめした。
けれど、それが聞こえたのか、友達と話していた渚は俺に気づいて、「奏」と笑顔になった。少し友達とやりとりをしてから、渚はコートを羽織ってかばんを連れて、廊下に出てきた。俺はそこに駆け寄る。
「友達と約束してた?」
「ううん。来週の実力テストの勉強会に来るか誘われてただけ」
「え、テストあったっけ」
「あるよ。冬休みの宿題から出るみたい」
「じゃあ、響くんに見てもらった奴だから大丈夫か。え、渚、勉強会よかった?」
「僕も大丈夫だと思う。それに、冬休みは帰省してて奏に会えなかったし」
「だよね。お昼一緒に食べて帰らない?」
「僕はいいけど、奏は南さんが用意してない?」
「メッセしとけば、もし俺のぶん作ってても、授くんが食べると思う」
「そっか。じゃあ、ファミレスでも行こうか」
「うん」と俺はざわめいている廊下を歩き出し、渚は隣に並ぶ。
昔は渚のほうが背が低かったけれど、今は同じぐらいだ。背が急に伸びたのは、ちゃんとした食事を食べられるようになったからだと渚は言う。このまま抜かされるかなー、と思うと、俺も授くんみたいに牛乳を飲んだほうがいいのかなとやや焦る。
靴箱で上履きをスニーカーに履き替えて、ふたりで曇り空を見上げて、「このまま冷えたら、今夜くらい雪降るかな」とか話しながら、にぎやかな生徒の波を縫って校門を抜けていく。
駅までは、のんびり歩くと十五分くらいだ。ちょうど車が行き交う交差点に面した駅で、四方にファミレスだけでなくファーストフードやら牛丼屋やらいろいろある。それでも、ドリンクバーがあるファミレスが、このあたりの学校の学生には人気だ。
「席空いてるかなあ」と心配したけれど、さいわい荷物も置ける四人がけの席に案内してもらえた。俺たちはそれぞれ親に昼食を食べて帰るメッセを飛ばすと、俺はきのこのクリームパスタ、渚はシーフードドリア、そしてふたりともドリンクバーを注文した。
注文を確認したウェイトレスのおねえさんが去ると、とりあえず交代でドリンクを取ってくる。ひと息つくと、俺たちは顔を合わせて何となく咲った。
「冬休み、帰省して楽しかった?」
コーラを飲んで俺が尋ねると、りんごジュースの渚はこくんとした。
「ほんとの孫みたいにしてくれるから」
「そっか。じいちゃんとばあちゃんねー。俺は知らないからなー」
「おかあさんのほうもだっけ?」
「うん。あんたまで嫌味言われなくていいからって、かあさんが会わせてくれない感じ」
「そうなんだ。何でだろうね、奏のおかあさんはすごいと僕は思うんだけどな」
「俺もそう思う。ま、昔の人は分かんないんじゃない」
「……そっか。僕は司さんと南さんに助けてもらったし、奏の家、好きだよ」
「ありがと。分かってほしい人がそう言ってくれてるから、俺はそれでいいよ」
俺がにっこりすると、渚も微笑む。
小学五年生のとき、クラスメイトだった渚の家のことを聞いて、俺は渚を司くんと南くんの家に連れていった。渚の家では、精神安定剤に浸かった母親が、暴力を振るうときがあった。父親はほとんど帰ってこなくて、姉がひとりいたけど態度は冷たかった。
そんな家庭だったせいで、渚は俺の家庭を「温かい」と感じてくれた。男同士の親であることなんて関係ない、ここにはきちんと愛情があると。そんな渚に、司くんと南くんも自分たちが親に勘当されていること、居場所じゃないならたとえ家庭でも帰らなくていいことを言った。
渚は泣きながら、もう家に帰りたくないと訴え、その気持ちを汲み取った司くんと南くんが児童相談所に通報したり、役所に相談したりして、渚を冷え切った家から施設へと助けた。それから、わりあい早く恵まれた出逢いがあって、渚は不妊で悩んでいた夫婦に引き取られた。
その家に俺も行ったことがあるけど、念願の親になれたというふたりはすごく優しくて、渚を大切にしてくれているのが分かってほっとした。
「ねえ、奏」
「んー?」
「奏って、恋愛したいなーってやっぱり思う?」
「えっ、何で」
「司さんと南さん見てると」
「あー。まあ、いつかはしたいよねえ」
「今はいないの?」
「いないなー。初恋まだかよって言われるけど、まだなもんはまだだね」
「そっか……」
「渚は好きな人とかできた?」
「えっ、……と」
さくっと否定されると思ったら、何やら渚が口ごもったので、俺はその顔を見直した。俺に見つめられると、「う……」と渚は小さくなって頬を染めて、「えっ!」と俺はでかい声を出してしまう。
「渚、好きな人いるの?」
「えと……まあ、うん」
「えーっ、知らない! 俺、ぜんぜん知らないよ!? いつから?」
「一学期……くらい」
「すっげー前じゃん。何だよー。言ってよー」
「ご、ごめん。何か、どう言ったらいいのか分からなくて」
「むー。誰? クラスメイト? 俺知ってるかな?」
「し、知ってる……かも。分かんない」
「渚のクラスで知ってる女子というと、」
「あ、クラスの子じゃなくて……」
「ほかのクラス? 俺のクラス?」
「せ、先輩……だから。一学期、美化委員だったのが同じで」
「年上なの? 何か意外」
「そうかな……」と渚は首をかしげて、恥ずかしそうにうつむく。
「すごく、委員活動のときとか優しくしてくれて。でも、三年生だから」
「もうすぐ卒業じゃん!」
「うん……」
「告白しないの?」
「そんな、さらっとできないよ。ていうか、絶対断られるし」
「絶対ってことはないでしょ」
渚は優しいし、顔立ちだって悪くないし、これから背も伸びるし。なかなか見込みのある男だと、親友のひいき目を引いても思う。
それを言うと、渚はしばらく伏せていた睫毛を上げて、「変、なんだ」とぎこちない口調で言った。
「変」
「優しい先輩だし。見た目も、すごく綺麗で」
「ふむ」
「ほんとに……綺麗、で。……女の人みたいで」
俺はうなずきかけて、ん、と引っかかった。女の人“みたい”? みたい、って、それはつまり──
意味を察して声が出そうになったとき、「お待たせ致しました」と料理がやってきた。俺は出そうになった叫びは引っこめたものの、ほかほかいい匂いを立ちのぼらせる料理よりも、渚のほうに食らいついて訊いてしまう。
「男なの?」
渚は俺に上目遣いをしてこくんとした。マジか、と俺は天井を仰いでしまう。いや、偏見なんてあったら、築くんみたいに捻くれているから、偏見はないのだけど、さすがに思いがけなかったというか──
「でもね、」と渚は困ったような眉で言う。
「男が好きって感覚、あんまりないっていうか」
「感覚……」
「分からないんだ。好きな人って言っていいのか。それで、奏にもちゃんと報告できなかった。でも、十月に委員変わって、先輩は三年生だから委員とかはもうなくて、つながりなくなっちゃって。寂しいな、とは思って」
「好きじゃん」
「うん……。ただ、少し気になることはあるんだ」
「気になること」
「女の人みたい、って言ったでしょ」
「うん」
「先輩、ほんとにオカマとか言われて、バカにされてるみたいなんだよ」
「イジメられてんの」
「イジメ……なのか、本当なのか……」
「ほんとって、……何だろ、何て言えばいいのかな、心は女の子、みたいな?」
「どうなのかな。でも、もしそうだとしたら、それで男を好きになった感覚がないのかなって」
俺はパスタに手をつけるのも忘れて、腕組みをする。渚はスプーンを手に取り、ドリアを静かにかきまぜる。そうしながら、「変なこと言っちゃってごめん」とつぶやいたので、俺はそれには首を横に振った。
「むずかしいね」とは素直に言うと、「僕も自分が好きになったのが、男なのか女なのか分からない」と渚は視線を伏せた。本当に悩んでいる様子だ。
「ちなみに、その先輩、名前は?」
「鮎見時先輩」
「鮎見先輩。知らないなー」
「そっか。バカにしてるのは三年の男子だけみたいで。下級生には人気あるみたいだよ。女の子にだけど」
「三年何組?」
「三組だった気がする」
「そっかあ。ふうん」
そう言いながら、俺はやっとフォークをつかんで、とろりとしたクリームパスタにさしこんだ。
三年三組の鮎見時先輩。卒業してしまったら、元も子もない。でも、まだ悩んでいる渚をけしかけるのも、急かしているみたいで悪い。
じゃあ、渚が悩みを抜け出して、卒業までに動けるようにしてあげるのが親友ってもんでしょう、と俺はひとりでにやりとして、「奏?」と不思議そうに名前を呼ばれているのにもしばらく気づかなかった。
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