波の模様-5

笑顔の行方

 俺の正面の席に移った鮎見先輩は、カフェオレしか飲んでいなかった。「何か食べるならおごりますよ」と言うと、鮎見先輩は無言で首を横に振る。
 女の子はそんなものなのかも、と思った俺は、女の子、と反芻して鮎見先輩を見つめた。相変わらず綺麗な顔をしていて、それに柔らかな化粧を施している。服装もかわいい感じだし、美少年ではなくて、本当に美少女だ。
「えっ、と……」
 女の子とふたりで向かい合ったことなんてない。そんな俺は、何だか言葉を見つけられずに意味のない声をもらしたものの、「かわいい、ですね」と素直に言った。
 ばつが悪そうに頬を染めてうつむいていた鮎見先輩は、俺を見てまばたく。
「ほ、ほんと……?」
「はい。普通に……って言い方もあれだけど、女子だし」
「そう、かな」
「じゃなきゃ、ナンパもされませんよ」
「……うん」
「普段は、その服なんですか?」
「普段は……というか、服を買いにきたから。女の子に見えないと、試着とかするの変でしょ」
「あ、そっか。あれ、でも通販とか」
「前は使ってたけど、最近、試着しておかないと入らない服とかあって」
 なるほどとうなずいて、俺はコーラをすする。鮎見先輩は大きな瞳で俺をじっと見つめて、「気持ち悪いよね」と声を落とした。「えっ」と俺は慌てて顔を上げる。
「こんな格好、笑っちゃうでしょ」
「そんなことは」
「いいよ、変態だって思っても」
「思ってないですよ」
「だけど」
「その──いや、分かんなくて」
「分からない」
「俺、女の子とふたりきりとか初めてで。それで混乱はしてます。すみません」
 鮎見先輩は長い睫毛をぱちぱちとさせて、「あ、」と急にまた頬を紅をさしてうつむいた。俺も深呼吸して、食べかけのチーズバーガーを黙って口に押しこむ。
「久賀くんは」
 チーズバーガーでもぐもぐしていた俺は、視線だけ鮎見先輩に向ける。
「女の子に、人気ありそうだけど」
 俺はごくんと飲みこんでから、「告られたこともないですよ」とコーラのストローを吸う。炭酸がはじけながら喉をすべっていく。
「ほんとに?」
「はい。兄貴には、身長が足りないとか言われます」
「おにいさんがいるの?」
「三人います。俺、末っ子」
「そうなんだ。久賀くんみたいな弟、いいな」
「先輩は兄弟いないんですか?」
「妹がいるよ。今、小学六年生」
「先輩の妹かあ。すごい美少女そう」
「かわいいよ。ただ、性格は少しきついかもしれない」
「あー、性格。俺は、きついより先輩みたいな感じのほうがいいなあ」
「女々しいよ」
「女の子だから、そりゃ女々しいでしょ」
「……そっか。うん」
 納得したふうの先輩に、俺はやっと咲えた。先輩もカフェオレをこくんと飲む。その指先は、綺麗なミルキーピンクに彩られている。
「髪はウィッグですか?」
「うん。変かな」
「似合ってます。ウィッグって、手入れ大変ですよね」
「え、久賀くんもウィッグとか持ってるの」
「いや、俺は持ってないけど、母親が仕事であつかってるんで」
「仕事」
「スタイリストなんです。芸能界じゃ有名らしいですよ。松原恵那とか桃瀬りなことか、仲いいみたい」
「えっ、りなこちゃんのファッションすごく好き。それも久賀くんのおかあさんがやってるの?」
「やってるときもあります」
「すごい。いいなあ……スタイリストかあ」
 うっとり憧れるようにつぶやく鮎見先輩を眺めて、かあさんに服見てもらいますか、と言いそうになった。
 でも、やめておく。かあさんにはそれは仕事だし、先輩は今のセンスでじゅうぶんかわいいし、俺と先輩が親密になってもしょうがないし──それどころか、渚に悪い。
 そう、本当に渚に悪いことになってきた。勝手に会いにいったどころか、休日に鉢合わせて一緒に食事をしている。しかも、先輩は女の子にしか見えない完全プライベートモードだ。これは非常にまずい。
 こんなときに限って知り合いに見られたりするんだよなあ、と俺がきょろきょろすると、先輩が不思議そうに俺の名前を呼んだ。俺は急いで向き直り、あやふやに咲ってから「先輩、いつからそういう格好してるんですか?」と訊いてみる。
「え、……と。化粧をしたのは中学一年生の今頃かな。お年玉でメイクセット買って」
「服は──あ、通販って言いましたね」
「うん。PCなくても、スマホで買えちゃうから助かってた」
「先輩細いから、女の子の服、ぜんぜん入りそうですけど」
「そんなことないよ。やっぱり、肩幅とか違う」
「じゃあ、早く手術とかもしなきゃですね」
「えっ」と先輩は目を見開いた。その反応が思いがけなくて、俺も「えっ」としばたく。
「あ……っと、しないんですか? すみません、俺、よく分かってなくて」
「う、ううん。……そうだよね。早くしないと」
「したくないんだったら」
「そんなことないよ。したい。早く、ちゃんとした女の子になりたい。だけど……」
 先輩は顔を伏せ、苦しそうに目を閉じる。俺はそれを窺って、まずいこと言っちゃったかな、と心配になる。
「今、知ってくれてるのは、久賀くんだけだから」
「え」
「親も妹も、こんな格好知らない。心は女の子だなんて話したこともない。学校のみんなは『オカマ』って言うけど、本当に心と軆の性別が違ってるなんて、きっと思ってない」
「………、」
「昔から、ずっとつらかった。女の子の服を着たかった。口紅塗って遊びたかった。男の子の中にいると違和感あって、トイレとか体育とか、全部苦しくて。恥ずかしくて。男らしくって言葉がすごく嫌いだった。男の人を好きになったとき、やっと自分は女なんだって分かった。その人のね、赤ちゃんが欲しいと思ったんだ。どんなにやっても無理なのにね。それでも、生みたいと思った」
 先輩は軽く目をぬぐった。赤ちゃんが欲しい。確かに、男の俺なら、一生思うことのない感情だ。思ったとしても、それは相手に生んでほしいという方向になる。
「手術とか、戸籍の性別とか、きちんとしたい。でも、どうやったらいいのか、ぜんぜん分からない。まずどこに相談すればいいのかな。家族に分かってもらわないとできないのかな。成人したら自由なのかもしれないけど、その頃には軆がもっと男になっちゃってるよね。それが怖くて、毎日眠れない。そもそもこの国で全部できるのか、お金ってどのぐらいかかるか、将来、仕事は水商売しかないのかなとか……」
 言いながら、指先にあまった雫がほろほろと先輩の頬に伝う。俺は何も言えなくて、黙りこんでしまう。
 そういう知識は、当然ながら、俺にはない。今ここでケータイで検索したら、ざっくりしたことは分かるかもしれないけれど、複雑な話はやはり専門のところに行ったほうがいい。とはいえ、専門ってどこになるのだろう。
「ごめんね」
 俺は、はっと先輩を見る。先輩はバッグからハンカチを取り出して、涙を拭いていた。
「誰にも言えなかったから、勝手にどんどん吐き出しちゃって」
「いえ、ぜんぜん。俺も何も言えなくて」
「聞いてくれただけで嬉しいよ。こんな話、迷惑だったかもしれないけど」
「そんなことはないです。不安、ですよね」
「……うん。こんなに苦しいのに、男のまま死ぬかもしれないって……それが一番怖い。いつも、自分のしたいこと言えないから。今こうして女装する程度で終わって、ほんとの女の子になんてなれないのかも」
「それは、何か、違うと思う」
「違う……?」
「先輩は、最初から女の子なんだし。なるもんじゃないし」
「………、」
「どうしたらいいのかとか、それは俺には分からなくても、先輩には軆も女の子になってほしい」
「久賀くん……」
「それで、女の子として男と恋愛してほしい、です」
 先輩は濡れた瞳で俺を見つめたのち、「うん」と声を涙に震わせると、また泣き出してしまった。
 ひどいことをして泣かせているわけではないのに、妙な罪悪感で周りを気にしてしまう。かといって、きっと誰の前でも涙をほどけなかった先輩に、泣くのはやめてくれと言うのも冷たい。ちらちらきている視線が痛いけど、気にしていないふりでコーラの紙コップを空にした。
 やがて鼻をすすった先輩は、喉をひくつかせながらも顔を上げ、「ありがとう」と言った。
「えっ」
「話、聞いてくれて。ほんとに嬉しい」
「いえっ。俺、何にも言えてないし」
「そんなこと。……あの、ね」
「はい?」
「久賀くんがよかったら、友達になってほしいな」
「え……」
「ほんとのこと知ってるの、久賀くんだけだから。ちゃんと友達になっておきたい」
「あ、まあ……そうですね。はい」
「嫌かな」
「ぜんぜん。ただ、俺、そんな役に立ちませんよ?」
「でも、すごく優しい」
 俺は先輩を見て、先輩は柔和に微笑んだ。
 うん。これは、なかなかに良くない。
 何で俺が鮎見先輩と仲良くなって、顔見知りから友達にランクアップしているのか。これは本来、渚が通るべき道なのに。先輩の友達になるのは嫌だとかいう感情はなくても、渚をさしおいているのは否めないので、すごく申し訳ない。
 しかし、同時に先輩の力になりたいという気持ちもあった。俺には何とか悩みを打ち明けられたのだから、味方になってあげたい。男から女へ。手術。戸籍。そのへんのことを訊ける知り合いなんて、いるだろうか。
 司くんと南くんは、男と女じゃなくて男と男だし、今回は参考にならない。先輩がカフェオレを飲むあいだ、俺は考えこんでいた。そして、ふっと気づいた。
 さっき先輩にも話した通り、かあさんは芸能人と仕事をする。芸能界にはニューハーフのタレントもかなりいる。だから、かあさんは多少事情を知っているのではないだろうか。それを思いつくと、ひと筋の活路が見つかった気がして、とりあえず訊いてみよう、と心に決めた。
 先輩がカフェオレを飲み終わって、簡単に化粧を直すと、俺たちは一緒に店を出た。
 こつ、こつ、と先輩のブーツはヒールを響かせる。夕食時で、駅近の飲食店街は混んでいた。すれちがうとき、先輩を一瞥していく男がいて、かわいいもんなあ、と改めて思う。
 このすがたを、渚にも見てほしい。でも今、写メを頼んで仮にOKされて、渚に転送してもどこで入手したという話になってくる。むずかしいなあ、と悩みながらエスカレーターで地上に上がり、中央改札まで先輩と並んで歩いた。
「ありがとう、久賀くん」
 先輩は天使みたいな笑顔を見せてから、改札を抜けて、一度俺を振り返った。手を振ると、先輩はまた咲って手を振って、目的のホームの階段のほうへと人波に消えていった。それを見送った俺は、かあさんには電車の中でメッセするか、とひとまず今夜は司くんと南くんの家に向かうことにした。

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