かけ違う想い
かあさんは、俺と一時間だけ話すと現場に戻っていった。
俺はお湯を張った湯船でぷかぷかしたり、この家にしかないゲームを部屋で久々にやりこんだりしたあと、零時前にベッドにもぐりこんだ。明かりを消すと、外の街燈の光がカーテンレールから忍びこんで天井に映る。
明日、渚と鮎見先輩のところに行こう。そんな計画を心で固めつつあった。これ以上、先輩とふたりで会うのは良くない。これ以上って、よく考えたら二回しか会っていないけど。
俺が踏みこんだせいで、ずいぶん仲良くなってしまった。友達になりたい──俺は言われていいのはそこまでだ。先輩を理解して支えるのは、渚でなければならない。
そもそも、先輩のことに感づいたのは渚なのだ。だから、渚なら先輩を受け止められる。よし、と俺はふとんを頭までかぶると、うまくいかせるぞ、と目を閉じた。
翌朝の電車で渚にメッセを飛ばし、今日は昼食を一緒に食べようと誘っておいた。今日の俺は南くんの弁当がないので、学食だ。昨日の弁当は俺とかあさんですっかり食べてしまい、弁当箱も綺麗に洗ってしまっていた。
『分かった。四時間目終わったら奏の教室行くね。』
渚のそんな返事も来て、ふたりで早めに昼飯食ったあと、鮎見先輩の教室行くか、と着々と決める。そわそわと四時間目まで過ごし、「今日は渚と学食だから」と友達には断って教室を出た。すでに授業を解放された生徒が行き交う中、「奏」と呼ばれてそちらを見ると、六組の教室の前の横切りながら渚が駆け寄ってきていた。
俺も渚に近づき、「友達と約束とかしてなかった?」と心配する。「僕が奏の親友なのは、分かってくれてるから」と渚はにっこりして、「そっか」と俺も微笑むと、ふたりで学食のある一階へと階段を降りはじめた。
「南さん、いそがしかったの?」
「え」
「お弁当ないってことは」
「ああ、昨日はかあさんに会ってたから、もうひとつの家から来たんだ」
「そうなんだ。おかあさん、元気だった?」
「いそがしそうだったけどね。ま、好きなことやってんだし」
「そっか。あんまり会ったことないけど、優しいおかあさんだよね」
「言うことは容赦なく言うけどね」
笑いながら学食に到着すると、寒さで中庭や屋上庭園に生徒がはけないぶん、混雑していた。
注文を我先に聞いてもらおうと騒いでいるということはない。プリペイドカードで食券を買って、その食券に書かれた番号を呼ばれて料理と交換するという方式だからだ。
つまり、食券機の前には行列ができている。人気のメニューはすぐ売り切れになってしまい、俺も牛丼が食べたかったけど、あえなく売り切れだったので天丼にした。
引き取り口で、食堂のおばちゃんにトレイに乗った天丼を渡されると、渚が確保してくれていた席に向かう。教室で食べている生徒もいるのに、席はほとんど埋まりつつある。
俺は個人的にメインであるエビ天を一番最初にさくっと頬張り、エビの歯ごたえを味わった。学食がまずい学校もあると聞くけれど、ここの学食は普通においしい。
渚も弁当箱を開き、ひじきの煮つけとごはんを口に入れた。
「ねえ、渚」
「うん?」
口の中のものを飲みこんで、渚は俺に首をかしげる。
「渚って、昼休みに用事ある?」
「昼休み? 何もないよ」
「よかった。あのさ、昼飯のあともつきあってほしいことがあるんだ」
「え、いいけど……何?」
「えー、と。まあ、それは行ってみたら分かる。ちょっと急いで弁当食べてくれるかな」
「ん、分かった」
鮎見先輩のところに行こうって言ってもいいかな、と思ったけれども、言ってしまうと渚は尻込みしまうかもしれない。
俺は衣が香ばしいカボチャやハスの天ぷらを、汁が染みたごはんと共に口に押しこんでいく。渚もなるべく早めに弁当を片づけてくれて、周りはまだのんびり食っている中で、俺と渚は立ち上がった。
食器を返却すると、「じゃあ行こう」と俺は渚を連れ添って三階に向かった。
渡り廊下にさしかかったところで、「この先って三年生の教室じゃなかった?」と渚が怪訝を浮かべる。「渚は三年に会いたい人いるでしょ」と俺がようやく行き先のヒントを出すと、「えっ」と渚は目を開き、「待って」と立ち止まった。
「え、え、まさか」
「まさか」
「鮎見先輩……」
「うん、当たり」
「なっ、何で。無理だよ。先輩は僕のことなんか忘れてるよ」
「そんなこと──」
ない、と言いかけて、断定したら怪しいので、「分からないよ」とぼかした。
「ちゃんと話さないと。何にもしないと、先輩、三月には卒業しちゃうんだよ」
俺が腕を引いても、渚は首を横に振って「気持ち知られたら恥ずかしいよ」とうつむく。「知ってもらっていいと思うよ」と俺は渚を覗きこみ、「それに、渚にも、ちゃんと知ってもらいたいことがあるんだ」と言葉を継いだ。
渚が弱気な目を向けてくる。「大丈夫」と俺がはっきり言うと、渚は小さく息を吐いて、「いきなり、ふたりきりにしたりしないでよ?」と声を震わせた。「分かってる」と俺が約束すると、渚は緊張を見せながらも俺の隣に並ぶ。そうして、俺たちは三年三組の教室に到着した。
鮎見先輩は、このあいだと同じように窓際でひとりで弁当を食べていた。今日はもちろん、男子制服を着て男の格好をしている。渚は先輩をじっと見つめて、ばつが悪いみたいに顔を伏せた。
俺は「先輩呼んでくるね」と教室に入ろうとして、「いきなり押しかけたのに来てくれるかな」と渚は不安そうに俺の腕をつかむ。「来てくれるよ」と俺は笑顔を作ると、渚の手を丁重にほどいて教室に踏みこんだ。
「鮎見先輩」
俺が声をかけると、うつむきがちだった鮎見先輩は、はたと俺を見た。「久賀くん」と笑みを見せて、「こんにちは」と俺は先輩の正面で立ち止まる。
「ひとりですか」
「ん、まあ。いつもそうだよ」
「高校生になったら、ちゃんと友達作らなきゃダメですよ」
「できるかなあ……」
先輩はあやふやに咲ったあと、「こないだはありがとう」と食べかけのサンドイッチを弁当箱の中におろした。
「いえ。帰り道では大丈夫でした?」
「駅のトイレで着替えて帰るしね」
「そっか」
「あの、久賀くんなら大丈夫と思うけど……誰にも言ってない、よね」
「言ってないですよっ」と勢いよく言ったあと、「あ、いや……」と俺は口ごもる。
「ちょっと、かあさんに話したかも」
「スタイリストの?」
「そう。かあさんなら、いろんなタレントにも会ったことあるだろうから、何か分かるかなって」
「何か……」
「その、手術とか戸籍とか」
「訊いてくれたの?」
「はい。今ここで話すのはあれなんで、また話せるときに」
「そうなんだ。ありがとう」
先輩は柔らかく咲って、やっぱり天使みたいに咲うなあと思った。「それで」と俺は咳払いして、今日の本題に入る。
「今日、先輩に会ってほしくて、連れてきた奴がいるんです」
「えっ」
「渚なんですけど」
「渚……って、永田くん?」
「はい。渚には、先輩のこと知っててほしいなあと思ったから」
鮎見先輩はまばたきをしたあと、少し困ったような笑みを浮かべて首をかたむけた。
「久賀くんが知っててくれれば、それでいいかな」
「渚は分かってくれるから」
「うん……。でも、別にいいよ」
「………、そこに連れてきちゃってるんですけど」
先輩は廊下に目をやった。けれど、渚はドアの影にいるのかここからは見えない。先輩はあんまり嬉しくなさそうに顔を伏せて、味方が増えると単純に喜ぶわけじゃないらしいことに、俺も困ってしまう。
俺なんかより、渚のほうが先輩を想っているのに。とりあえずそのことを伝えるしかない、と俺は口を開いた。
「先輩」
「う、ん」
「俺が先輩に会いにきた理由も、渚なんです」
「えっ」
「渚が先輩のこと気になるって打ち明けてきて」
「………、」
「だから俺は、渚のために先輩と話そうって思ったんです」
先輩は俺を見つめた。しばらく止まっていたその瞳から、不意にぽろっと雫が落ちて俺はぎょっとする。「あ、」と先輩は涙を取り繕おうとしたけど、水分はぽろぽろとあふれてくる。
「先輩──」
「……永田くん、男の子のほうが」
「男じゃないです。先輩のこと、もしかして女かもって思って、そしたら惹かれてたって」
「でも……」
「渚は、先輩の中の女の子に気づいてるから」
それでも、鮎見先輩の涙は止まらない。さすがにちらちらと教室内から視線が来て、それでも先輩は頬を濡らす。「先輩」と俺が先輩の肩に手を置くと、先輩は俺を見上げた。長い睫毛がびっしょり濡れている。
「好き、だから」
「えっ」
「久賀くんが、好きだから」
「はっ?」
「初めて、話聞いてくれて、ほんとのすがたも見てくれて」
「え、……えっ、いや、」
「ごめんなさい。迷惑って分かってるけど」
「迷惑というか」
渚の好きな人だし。俺はそんなつもりないし。やばい、これは最悪の事態──
「永田くんより、久賀くんがそばにいてくれたほうが嬉しい」
「……えと」
「永田くんもいい子だって知ってるけど、久賀くんみたいには思えない」
「渚は──」
「久賀くんがこんな気持ち持たれてそばにいたくないなら、それでいい。でも、代わりに永田くんを置いていくようなことはしないで。それは永田くんにも失礼だから」
渚にも失礼、と言われても。もともと、先輩に想われるはずだったのは渚だ。俺がずうずうしく踏みこんだばかりに、何だこれは。
先輩は涙をぬぐって、お弁当の残りを食べはじめる。
ごめんなさい、俺は先輩の気持ちには応えられない、って、言っていいのかな。渚のことがなくても、俺には先輩は味方をしたいとは思う「友人」で。
そんな関係になるのは考えてない、考えられない。でも──期待させたかな、と反省してしまうところはある。
「先輩」
鮎見先輩は、ロールサンドイッチを飲みこんで顔を上げる。
「俺は、渚のことが、すごく大事で」
「……うん」
「渚のためになれるなら、って思って……」
「………、」
「それだけ……だったから」
先輩の瞳がまた揺らめく。それでも、俺は言ってしまう。
「俺は、先輩とこれ以上は仲良くなれません」
先輩は俺を見つめて、「そっか」と哀しそうに微笑んだ。「ごめんなさい」と俺がぼそっとつけたすと、先輩は首を横に振った。「久賀くんには、もっと普通の女の子がいるよね」と先輩はつぶやいて、俺は先輩を見ると、「先輩も普通の女の子ですよ」と言った。
「それは絶対、嘘じゃなくて、思ってます」
「ありがとう。そう言ってもらえただけでも嬉しい」
「もし、つらいときがあったら──」
渚がいるから。
そう言いたかったのに、チャイムが重なってしまった。先輩は弁当場にふたをして、「教室に戻らないといけないよ」と俺に言った。俺はぎこちなくうなずき、きちんと言い直すべきか迷ったものの、本当に時間がなかったので「すみません」とだけ言い置いて、三年三組の教室を出た。
「渚っ──」
廊下に出てそう呼びかけて、俺はぽかんと突っ立った。そこには、渚のすがたはなくなってしまっていた。「そこにいた子なら」とこないだ鮎見先輩が教室にいるか尋ねた、廊下側の席の女の先輩が声をかけてくる。
「鮎見くんが泣き出したあたりから、どっか行っちゃったよ?」
緩くめまいがした。
見られた。見られたのだ。俺が鮎見先輩を泣かせるところを。
これは厄介なことになってきた。会話は聞こえなかったと思うけど、それでも、泣かせただけでじゅうぶん俺はひどい奴だ。
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