波の模様-8

こじれていく

 教室に帰ると、授業がすぐ始まって、でも俺は教科書に隠れて渚にメッセを送った。とりあえず謝罪。そして、全部話したいから放課後は一緒に帰りたいと。既読はつかない。授業中だから、と気休めを思っていたけど、放課後になってもメッセは未読のままだった。
 帰りのホームルームが終わって解散になり、七組の教室に行ったら渚は帰ってしまっていた。メッセを追撃しても、反応は返ってこない。
 まずい。これは、本気で渚を怒らせた。
 俺は電車でずっと渚のトークルームを睨んでいたけど、渚からメッセが届くことはなかったし、既読もつけてもらえなかった。いっそ、メッセで全部事情を話そうかと思っても、長文なんて迷惑かもしれないし、メッセで伝えるのも失礼かもしれないし。俺からも何かを送りづらい、膠着状態になってしまった。
 渚と喧嘩なんて、これまでしたことなかったけど。無言になっちゃうのかよお、とぐったり窓にもたれて、流れる景色を泣きそうな目で見つめた。
 その日は、司くんと南くんの家に帰った。家には誰もいなかった。月曜日だから、響くんは塾だ。授くんも部活だろう。司くんはもちろん仕事。南くんの靴もなくて、買い物かなあ、と家に上がってリビングに入る。
 暖房がついていない。「寒い」とひとりごとをつぶやいて、でも暖房をつけるのもかったるく、コートを着たままカウチに倒れこんだ。心の穴にカマイタチが走る。
 バカだったんだけど。俺がバカだったんだけど。それでも、何でこうなっちゃうんだろう、と思うと何だか泣けてきて、腕をまぶたにかぶせて涙を抑えた。
 何も考えたくないと思っていると、そのまま意識が宙にふわふわ浮いて、ぼおっと微睡んでいた。南くんが帰ってきて夕食のいい匂いをただよわせたり、授くんも響くんも帰ってきたのが聞こえたけど、俺は動けなかった。「コートも着たまま何やってんだ、奏は」と司くんの声もして、俺はようやく腕をおろして、腫れぼったい目で起き上がった。
「お、奏覚醒」
 テレビの前でゲームをしていた授くんがそう言って、カウチのそばにいたスーツを着た司くんとエプロンをまとった南くんも、こちらを見る。響くんは、キッチンで南くんに頼まれたらしい手伝いをしている。
 俺はむすっとした目でそんな周りを見まわし、大きくため息をついた。
「何か、ケータイとか鳴ってた?」
 俺がそう言うと、「誰の」と司くんがネクタイを緩める。「俺の」と答えると、「何も聞こえてないよ」と南くんが言った。俺は唸って、上体を前かがみに折る。
「何だよ。巴と喧嘩にでもなったか」
「かあさんは言ってくれてたんだよー。でも、俺がちゃんとできなかった」
「話が見えない」
「俺にその気はないし、だいたい渚の好きな人だし、なのに俺が優しくしちゃったからー」
 司くんと南くんは、顔を合わせる。「奏にも恋愛沙汰かあ」と授くんが言って、「俺に好きな人できたわけじゃないもん!」と俺は授くんの背中にまくらにしていたクッションを投げる。「やつあたりやめなさい」と授くんはクッションを投げ返し、俺の肩に当たったそれはころんと床に転がる。
 それを南くんが拾って、「ちゃんと聞くから」と元のまくらの位置にクッションを置く。
「とりあえず、制服を着替えてきなさい」
「うー。話したら、絶対に俺のこと責めるもん」
「責めたりしないよ」
「溜めこんでも仕方ないだろ。渚くんとこじれたことは分かった」
「夕食食べたら、話してごらん。僕と司の意見は言うから」
 俺は司くんと南くんを見つめて、何だかまたじわっと視界が濡れたので目をこすって、こくんとうなずいた。司くんが、俺の頭をぽんぽんとしてくれる。
「ところで腹減ったなあ」と授くんが言って、「すぐ用意する」と南くんはキッチンに行き、響くんにお礼を言いながら支度を再開する。司くんもスーツを着替えるのかリビングを出ていき、俺は放っていた荷物をつかんで二階で制服を着替えた。
 ケータイを確かめると、やっと既読だけはついていても、渚から返事は来ていなかった。
 今日の夕食の献立は、鰤の塩焼きとふろふき大根、きゅうりとわかめとツナの酢の物だった。それと、白いごはんと豆腐の味噌汁。「鰤って、つい照り焼きにしちゃうから」と南くんは言って、確かに塩焼きの鰤はあんまり出てこないかもと口に入れると、身がふわっと蕩けて塩味が広がっておいしかった。響くんはふろふき大根をひと口大に割って口に運び、授くんは「骨少なくていいなー」と解体もせず鰤に咬みついている。
 食事のあいだは、司くんも南くんも俺をそっとしておいてくれた。俺はめずらしく無口に夕飯を食べながら、ふたりにどう話そうか考えていた。
「渚にね、好きな人がいるって言われたんだ」
 夕食のあと、俺は南くんが淹れてくれた温かい玄米茶を飲みながら、ダイニングのテーブルに残った。授くんはリビングでゲームを始めて、響くんは勉強をするために二階に行った。俺と同じくお茶を手元に置く司くんが、「で、渚くんとどうしたんだ」と尋ねてくる。食器をひとまずシンクに移すと、南くんもその隣に座った。
 時系列に説明することにした俺は、まずそこから話しはじめた。
「で、その人が……何というか、軆は男で、心は女って人だったんだけど」
「性同一性障害?」
 南くんの問いかけに、「あ、それ」と俺はうなずく。
「でも、渚はそのことをはっきり知らないんだ。だから、男好きになったのか、女好きになったのか分かんないって言ってて。確かめようと思って、俺ひとりで本人に会いに行ったんだ。三年の先輩だから、ぼんやりしてたら卒業しちゃうし。ほんとに、ただ渚の力になりたかったんだ」
「お前、ほんと渚くん好きだな」
「かあさんにもそれ言われたけど、友情だから。で、先輩はほんとに心は女の人だった。それをね、早く渚に伝えて、それだけにしとけばよかったのかもしれない。けど、勝手に渚の好きな人に会いに行ったの、まずかったかなあとか考えちゃって。今度は渚と先輩のところに行って、改めて話をしようとしてたんだ。そしたら、そうする前に偶然先輩と校外で逢っちゃって。女装しててさ、ナンパされて困ってるところを、俺が助けた……というか」
「あー、惚れられた?」
 司くんに言い当てられ、「う」と俺は身を縮めてしまう。
「結果的には、そうなった。ただ、そういう予感してたんで。早く先輩に渚のこと知ってもらわなきゃって、今日、渚と先輩に会いにいったんだ。そしたら、まあ……先輩に告られまして」
「ほう」
「渚は先輩の告白は聞いてないけど、俺のせいで先輩が泣き出すとこは見てた。それでたぶん怒った……か、俺と先輩の仲を勘違いしたか、とにかくそのあとからメッセしても返事が来ない。さっき、やっと既読だけついてた」
「奏が女泣かせるようになったかあ」
 しみじみと司くんが言い、「まじめに相談してるんだよ」と俺はふくれる。「分かってるよ」と司くんはお茶をすすり、「どう思う?」と南くんを見た。南くんは首を捻って考えたあと、「ちなみに、先輩の気持ちには何か返事したの?」と問うてくる。
「これ以上仲良くなれないって言った」
「そ、そうなんだ」
「えらくシビアに答えたな」
「だって、ほんとだもん。先輩はあくまで渚の好きな人だし。ぶっちゃけ渚のことがなきゃ他人だったし。女装のときかわいいなあとは思ったけど、それは……別に好きとかいう感情からじゃなくてさ。かわいいもんはかわいいじゃん」
「まあ、芸能人とか恋愛感情なくても綺麗だなとか思うよね」
「そんな感じ。つっても、俺、女装のときに『かわいい』とか思ったまま言っちゃったんだよね」
「言ったのかよ。先輩期待するだろ」
「させたよね……。けどさ、思ったら言っちゃうじゃん」
「思っても言うべきじゃなかったな」
「うー。女の子ってそんな、さくっと男のこと好きになるの? ちょっとナンパから助けて、『かわいい』って言って、心と軆が違うってことを分かってあげただけだよ?」
「だけ、ってことはないだろ」
「先輩がひとりで悩んできたなら、奏みたいに言ってくれる男の子は心強かったんじゃない?」
「そうなのかなあ。えー。渚も分かってるくれる男なのに、どうして渚はダメで俺なの? 何で脈のないほう好きになるの?」
「じゃあ、奏は、俺は南より女を選べばよかったと思うか? そっちのが普通だし、周りに理解もされるけど」
 俺は司くんと南くんを見つめた。そうは思わなかった。司くんと南くんは、お互いを選んでくれてよかったと思う。
 俺はため息をついて、「俺にも好きな女の子がいたら、先輩の気持ちも渚の気持ちも分かったのかなあ」とつぶやく。
「奏は、まだ好きな人ができたことがないのが、ちょっと裏目に出ちゃったね」
「渚くんのためになりたかったのは分かるよ。先輩が奏を好きになったのも、奏のせいじゃない。ただ、渚くんの応援なのに、渚くんの気持ちを置いてきぼりにしたよな」
「……うん」
「だから、謝るのは奏のほうだと俺は思う。奏は渚くんの恋が実ってほしくて行動したんだよな。分かる。でも、行動しなきゃいけなかったのは、奏じゃなくて渚くん本人なんだから」
「奏は間違ってたわけじゃないよ。だけど、少し渚くんに優しすぎたね」
 俺はうつむいて、そうだな、と思った。渚自身が頑張らなきゃいけないのに、俺が頑張っても仕方ない。
 渚の恋がうまくいくようにしたかった。しかし、そういう努力をするのは外野でなく渚自身で、そういうすがたを見て、先輩の心も渚にかたむくはずだった。
 俺が根まわしを頑張ったって、先輩の視界にちらちら映るのは俺だ。そりゃ俺が気になってくるか、とぐったり首を垂れてしまう。
「渚くんが奏を嫌いになることはないだろうから、落ち着いた頃、話し合って謝ってみてごらん」
 南くんの言葉に俺は上目をし、「嫌われてないかなあ」と消え入りそうに言う。
「それは大丈夫だと思うよ。今は渚くんも混乱してるだろうけど」
「先輩とは距離置けよな。せめて、渚くんと話し合えるまではふたりで会わない」
「……ん」
「渚くんから、きっと連絡は来るよ。それまで、奏はつらいだろうけど待ってあげなさい」
「俺がほっといたら、渚は離れちゃうとかない?」
「そこは渚くんを信じろ」
「そう。親友なんでしょ?」
 俺は司くんと南くんを見て、確かめるようにこくんとした。
 そうだ。渚は親友だ。喧嘩になってしまったけど、仲直りできる。すぐには無理でも、元通りになれる。俺はそれを信じて、渚の心が落ち着くのを待つしかない。
「ありがと。ちょっとすっきりした」
 お茶を飲み干してそう言うと、司くんも南くんも微笑んでくれた。このふたりがいてよかった、と思った。どうしたらいいのか分からなくなったとき、いつも助けてくれる。
 渚のときもそうだった。渚が家のことでつらい想いをしていて、でも俺は子供だから何もできなくて、そうしたら司くんと南くんが渚を助けてくれた。
 あのときのことを渚はいつも「ほんとに救われた」と感謝してくれる。そういう絆が俺と渚にはある。だから、大丈夫だ。
 渚が俺と話をしようと思ってくれるまで待とう。渚なら、心が落ち着けば必ず俺に連絡をくれる。
 そのとき、俺はしっかり謝るのだ。渚のためと思ったけど、ぜんぜん渚のためになってなかったこと。俺と渚なら、もう一度分かり合える。

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