波の模様-9

望む将来

 今日も渚からはメッセも何も来なかった。俺の教室に来ることもなかった。まさか学校来てないとか、とまで考えても、俺から渚のクラスを訪ねるわけにもいかない。渚がそこにいたら、無理に顔を合わせることになってしまう。
 クラスメイトの友達の前では、元気なふりをしていた。けれど、カレンダーが二月にも入ってしまうと、急速に不安がふくらみはじめた。
 鮎見先輩とも顔を合わせていない。まだ連絡先を交換するまで至っていなかったのが、さいわいだった。別に鮎見先輩を怨むような気持ちはないし、かあさんに教わったこととか伝えたりもしたかったけれど、先輩のほうが俺に会いたくないかなとも思った。やはり、振ったわけだし。
「渚に嫌われたかもしんない」と家ではぶつくさするから、事情は響くんにも授くんにも知られた。「渚くんなら奏がしたかったこと分かってくれるよ」と響くんは励ましてくれる。「最近の中学生はませてますなあ」と授くんは笑い飛ばしてしまう。
「ほんとに、俺から渚に話しかけちゃダメなのかなあ」なんてゆらゆらする気持ちで司くんや南くんに訊いてみると、「渚くんは繊細だから、そう急かすなよ」と司くんは言って、「焦ってもいいことないよ」と南くんも言った。だけど、渚から話しかけづらいと思っているなら、俺から切っかけを作ったほうが、とか勝手に考えてしまう。
「ただいまー」
 その日も渚と接点はなくて、胸のもやもやを抱えたまま、司くんと南くんの家に帰宅した。ため息をついてスニーカーを脱ぐ足元を見て、ん、と一瞬動きを止める。
 見憶えはあるけれど、いつもは見かけないスニーカーがある。誰か来てる、と家に上がると、そろっとリビングを覗いた。そして、カウチにあった背中に声を上げる。
「築くんじゃんっ」
 そこには、俺たち兄弟の長男で、現在専門学校に通うためにひとり暮らしをしている築くんがいた。
 築くんは俺の声に「あー?」とかったるそうに振り返り、ブレザーすがたの俺をじろじろとすると、ふんと鼻で笑う。相変わらずのバカにした感じに、「何だよっ」と俺は床に荷物を投げて歩み寄る。
 築くん以外、一階に誰かいる気配はない。「ネクタイとか、どうせ響にやってもらってんだろ」とあくびを噛む築くんの足元には、どうやら帰省したらしい荷物がある。
「ちゃんと自分でやってるし。築くんはどうしたの? 何でいるの? 何かあったの?」
「質問多い。何かあったって、春休みだよ」
「二月始まったとこだよ」
「うちの学校は一月末に後期の試験があって、合格したら四月まで春休みなんだよ」
「何それ、嘘だあ」
「確かに中坊には信じられないだろうな」
「中坊ってやめてよ。ほんとに? 夏休みもあったよね?」
「休み多いんだよ」
「いいなあ。それなら俺も早く進学したいー」
 築くんは、司くんによく似た涼しい切れ長の目で俺を見ると、「お前、なりたいもんとかあるのかよ」と胡散臭そうに訊いてくる。
「んー、なりたいものというか、外国で働きたい」
「初めて聞いたぜ」
「そう? 通訳とか楽しそうだよね」
「英語できるのか」
「文法とかは抑えてるけど、まあ学校の勉強で日本語英語になるより、留学して覚えればいいかなって」
「……わりとまじめに考えてるとこがムカつく」
 むすっとつぶやいた築くんに、「まじめいいじゃん」と俺はにやにやしてしまう。
「司と南は知ってるのか?」
「え、どうだったかな。小学校の卒業文集読まれたなら、外国に行きたいのは知ってるかも」
「留学考えてるなら、ちゃんと話しとけよ。いろいろはらうの、あのふたりと巴さんだろ」
「いや、自分でバイトしてから行くよ。そこまではらってもらうってちょっと」
「何かマジでムカつく……」
 すりつぶすような声の築くんに、「えー」と俺は首をかしげる。
「築くんも、家賃ぐらいバイトしてるんでしょ?」
「家賃ナメんなよ。毎月ごっそり貯金から引かれるの、かなり痛いからな」
「もしかして、司くんと南くんにはらってもらってるの?」
「っせえな。どうせお前も何だかんだではらってもらうことになるからな、絶対」
「それだけ勉強してるなら分かるけどお」
「勉強してるだろうが」と築くんは舌打ちする。
「試験合格してない奴は、まだ春休みにもなってねえし」
「そうなの? 合格したらすぐ春休みなの?」
「合理的だろ」
「俺も思った。ふうん。俺も早く大学生になりたいなあ」
「俺は大学じゃなくて専門だけどな」
「友達たくさんできた?」
「小学一年生じゃねえんだよ。ある程度いるけど」
「そっか」
「お前は、親友と同じ中学行きたくて私立だったか。ほんと仲良しこよしだな」
 そう言った築くんに、悪気はなかったのだろうけど。渚のことを思い出し、俺は一気にしゅんとして口ごもってしまう。またあくびをもらした築くんは、俺の様子に眉を寄せる。
「何だよ。喧嘩でもしたか」
「……うん」
 素直にうなずくと、「マジかよ」と訊いておきながら、築くんは面倒そうに言う。
「もう許してやれよ」
「何で俺が怒ってる前提なの。渚が怒ってんだもん」
「あの親友が? お前、何やったんだよ」
「ちょっと……渚の好きな人と、何というか……」
「女取り合ってんのか」
「いや、俺はその人に興味ない。だけど、その人は俺のこと好きになっちゃったというか、……うん」
 築くんは目を細めて俺を観察したあと、「悩みが生意気すぎるだろ」と述べた。俺はうめいて、カウチの背凭れに顔を伏せる。
「俺が謝らなきゃいけないのは、司くんにも南くんにも言われたからっ」
「お前が謝るのかよ。何で?」
「え、だって俺、その人にいろいろ期待させたし」
「期待」
「『かわいい』って言ったりした」
「お前、女にそんな台詞言うのか」
「築くん言わないの?」
「言わねえよ」
「たらしなのに」
「もうたらしてねえよ。てか、それならお前が謝る案件だな。親友に謝れよな。女はただ振っとけ」
「振ったけど。振ったこと謝らなくていいのかな」
「んなのしなくていい。親友になぐさめさせればいいだろうが。そしたら、女なんてそっちになびくし」
 俺は築くんを見つめて、さすが女たらし、と思った。いや、元女たらしか。築くんはまたあくびをする。
「築くん、昨日寝てないの? あくびばっかだよ」
「夜行バスだったから、熟睡はしてない」
「そうなんだ。じゃあ寝たら」
「そうしようとしてたら、お前が帰ってきた」
「あー、ごめん。今、家のいるの二階の南くんだけかな。顔出した?」
「出してない。作業中だろうしな」
「帰ってくることは言ってたの?」
「春休みに帰るとは言っておいたけど、今日帰ることにしたのは言ってない」
「もっと、連絡ちゃんとしようよ」
「別にいいだろ。ここも俺の家だし」
 そう言うと築くんは背伸びをして、背凭れに深く沈むと「ほんと寝る」と言ったあと、目を閉じた。
 俺は、築くんの艶々の黒髪を引っ張ってみた。薄目でじろりと睨まれる。俺は半笑いすると、「おやすみ」とおとなしく引き下がって、荷物を連れて二階の部屋に行った。
 制服を着替えて、築くんとの会話を思い返しつつ、やっぱ渚に謝ることができないと始まらないよなあ、と思った。明日、せめて学校に来ているかどうかだけ見に行ってしまおうか。教室を覗いて、渚のすがたを確認したら、気づかれる前に退散すればいいのだ。何だかもう、じっと待っているだけがつらい。
 築くんが寝てるリビングでゲーム始めたら可哀想だな、と思って、どうせなので宿題を片づけることにした。
 塾のなかった響くんが帰宅した頃、俺も宿題が終わった。帰ってきたばかりの制服すがたの響くんに、「答え合ってるか見てー」と甘えると、響くんは苦笑しながら俺のノートに目を通してくれた。「こことここ」と指摘してもらい、俺がノートと教科書の設問を見較べて唸ると、響くんは覗きこんでアドバイスをくれる。
 英語の宿題も響くんはすらすら読み取って、「そうだ」と俺はふと顔を上げる。
「響くんは、俺が将来は外国に行きたいの知ってる?」
「ああ、司と南が話してるの聞いたことあるよ」
「あ、やっぱあのふたり知ってるんだ」
「話したんじゃないの」
「まだ卒業文集に書いただけ。それ読んでくれたんだね」
「そっか。すごいね、外国」
「この国にじっとしてるのはやだなーと思って。できればいろんな国行って、いろんな言葉しゃべりたい。まずは英語なんだけど」
 俺は英語の教科書をたたいて、「留学したいって言ったら、築くんがおもしろくなさそうだった」と言うと、「にいさんとそんな話するんだ」と響くんはまばたく。
「いや、築くん、春休みになって帰ってきてたじゃん」
「あ、寝てたから僕は話してなくて」
「まだ寝てんの。何かね、大学は休みが多いから俺も早く大学生なりたいなーって言ったら、なりたいものなんてあるのかとか言われてさ。ちょっと話しただけ。普段はメッセもしないからね」
「そうなんだ。留学」
「現地で覚えたほうが、ちゃんとした英語になりそうじゃん。ネイティヴというか」
「そうだね。日本の学校で習った英語はおかしいって言われるらしいし」
「響くんは英語くらいしゃべれそうだよね」
「そんなことないよ。文法とかだけだから、実際の会話になると変かもしれない」
「えー、英語の原作とか読んでるじゃん」
「あれはしゃべるんじゃなくて読んでるだけだから」
 それもすごいけどなあ、と首を捻る俺に微笑み、「奏の夢、応援してるよ」と響くんは制服を着替えはじめた。
 応援してる。渚もそう言ってくれた。渚には俺のそういう将来の夢は話している。「奏なら叶えられるよ」と渚は言った。
「奏にはそういう行動力があるもん。応援してる」
 行動力かあ、とあのときの言葉を思い返し、やはり明日は渚のクラスを見に行こうと思った。顔を合わせて話すまではしなくても、渚が学校に来ているかだけ確かめるのだ。
 着替え終わった響くんが「奏、まだ勉強する?」と声をかけてきて、俺ははたとして首を横に振ると、立ち上がる。響くんには、話そうかな。ほんのちょっと、意見ももらっておこうかな。そう思ったけど、結局何も言わずに一緒に一階に降りた。

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