白濁の血-2

儀式の時間

 ずっと孤独だった。出逢う人間の瞳には、必ず嫉妬や憎悪を見た。同級生、教師、親戚、親にさえ。
 嫉妬や憎悪は、殺意に結ばれる。それを抑えられない子供の同級生に、俺は容赦なく疎外された。
 俺はけして咲わなかった。美しかったが、かわいくなかった。
 地味でいたかった。なのに、誰もが俺を見る。そして勝手に嫉妬して、憎悪をたぎらせる。
 誰も俺を肉体的には迫害しない。ひたすら存在を否定する。
 家では腫れ物だった。両親の態度は、平凡な自分たちのどこを受け継いだのかと、俺への猜疑をまとっていた。ふたりの優しさは、他人の子供に接する手厚さだった。
 人間じゃないみたい。そう言われたこともある。確かに自分は異星人ではないかと考え、俺は怪我をすると傷口をじいっと覗いた。そのたび、赤い鮮血が滲んでいて、ひどく安堵した。
 冷たい膜の中でうつむき、俺は誰も信用できずにいた。
 あの日、俺は十歳だった。寒い日だった。十一月に突入し、暖かい日は減りつつあった。空は灰色で、子供は日向を追いかけるようにして歩く。下校する俺はコートを着こみ、フードをかぶり、とぼとぼと日陰を歩いていた。
 手ぶくろをしていても指先は麻痺して、頬や耳は硬くなる。アスファルトを踏む、自分のスニーカーの爪先を見ていた。おととい、運動場で雨にぬかるんだ場所を踏んだ痕が残っていた。
 俺は心が冷めていたわけではない。休み時間、みんなにドッジボールの声をかけるクラスのボスに、いつも無視されて教室に取り残されるのもつらかった。
 頭を撫でてほしくて百点を取っても、親はぎこちなく咲って、小遣いをくれるだけだ。貯金箱に虚しく百円玉が降り積もっていく。
 部屋でうずくまるときが一番落ち着く。それがいたたまれなかった。ひとりぼっちだった。だから彼が話しかけてきたとき、俺は不信や恐怖を抱けなかった。
 彼は俺の目の高さにしゃがんだ。俺は協力のかたちで、ちょっと顔を上げた。
 彼の眼つきは、きつねを彷彿とさせた。肌は生白く、黒い髪は耳にかけられる程度に伸びている。中学生ぐらいなのだろうが、たくましさはなく、なよやかだった。笑みを浮かべる唇は湿って赤く、ねっとりした印象を与えた。
「ひとりなの?」
 そう訊いてきた口元に、白い息がこぼれる。俺は素直にこくんとした。
「友達は?」
 今度はかぶりを振った。
 彼は俺を見つめて離さない。まばたきも惜しんで見つめる。
 そして、自然に俺の手に手を伸ばしてきた。指がもつれた。絡み、握り、つながる。俺の手ぶくろの両手は、彼の素手の両手にくるまれた。手ぶくろ越しにも、彼の体温が俺の手を溶かしていく。
 彼は立ち上がった。俺は彼を仰ぐ。応えるように彼は微笑み、俺の手を引いた。そして言った。
「僕と遊ぼう」
 彼は俺を公園に連れていった。狭くて寂れた公園だった。誰もいない。不安を覚えて彼を見上げると、人がいるところがいいかと尋ねられた。俺は考え、首を横に振った。
 そのとき、彼が俺に憎悪も嫉妬も向けず、凪いだ瞳を保っていることに気づいた。急に彼が貴重に思えて、俺は彼と公園に入った。
 雑草が茂って、草が膝にまといついた。ブランコがあり、彼は俺をそこに座らせた。彼は隣のブランコに座らず、俺の正面にひざまずき、俺の両手を取った。
 俺を見つめる彼の瞳には、今まで向けられてきた色はなく、今まで向けられたことのない色があった。
 彼は俺の手ぶくろを外していいか問うてきた。俺はまた考え、こっくりとした。
 彼は俺の左手を取ると、うやうやしく手ぶくろを脱がした。毛糸がゆっくり肌を這い、青白い肌がさらされる。儀式のようにおごそかで、彼の息は小刻みだった。手ぶくろが外れると、冷たい空気が手の細胞を絞る。握りしめようとした手を、彼の手が包んだ。
 彼の手はなめらかだった。俺の手に手を重ね、愛撫を行なう。俺の手が彼の熱に温まっていく。
 汗ばむほどになると、彼は俺の手を持ち上げ、自分の頬にぴったりとつけた。その冷たさに俺の指はぴくんと動いたが、しばらくすると、熱が同化して彼の頬もなめらかな肌へとほぐれていく。
 彼は顔を動かし、俺の手に頬擦りをする。俺の手の甲と彼の頬がこすれる。彼の吐息は喘ぐように震えて、潤んだ瞳は伏せた睫毛に隠された。俺は彼のされるがままになった。
 空が薄暗くなり、かたわらにあった街燈に明かりがついた。俺と彼の奇妙な交わりが照らし出される。
 彼は電燈に目を細めた。そして立ち上がると、俺のこともブランコから立たせた。
「送ってあげるよ」
 俺はうなずいた。俺と彼は、手をつないで公園をあとにした。
 彼の指は俺の指に絡みついている。一年生のときに夏休みの宿題で育てた、朝顔のつるを思い出した。
 俺の家の前では、母親がおろおろと立っていた。そのため、彼とは陰になっている角で別れた。彼は俺に手ぶくろを返し、丁重にはめなおした。そして、フードの上から俺の頭を撫でる。
「僕はいつでも君といられるよ」
 そう微笑んで去っていった彼の背中を、俺は見ていた。見えなくなっても、突っ立っていた。まばたきをした気もしなかった。
 母親に名前を呼ばれて、我に返った。白い吐息が、暗闇にはっきり浮かび上がっていた。
 下校途中、ときおり彼に遭遇するようになった。彼は俺をあの公園に連れていき、例の儀式めいた行為をした。俺の手の甲に頬をすりよせ、息が詰まったような切なげな声を出し、うっとりと息をつく。瞳は濡れていて、俺は彼が泣き出すのではないかと思うときもあった。
 十一月は終わりに近づいた下校中、俺は顔を隠すためと寒さのため、相変わらずフードをかぶっていた。手ぶくろの手は、ダッフルコートのポケットに突っ込んでいる。食い縛らないと歯が震える、寒さが軆の芯に突き抜ける日だった。俺は彼に逢った。
 彼はやはり、俺の目の高さに腰を落とした。俺は鏡より彼の瞳で自分の顔を見るほうが多くなっていた。
 彼は俺にひとりかを問う。俺はそれにうなずく。
「じゃあ、僕といられるね」
 うなずくと彼は微笑し、ポケットの中にある俺の手を取り出して握った。彼の手は、いつも素手なのに温かい。
 彼と並んで歩いた。彼の指は、俺の指に芋虫のごとく絡みつく。俺はその様子を凝視した。彼の指先は幼い白蛇のようだ。
 ふと、公園への道からそれていることに気づき、俺は彼を見上げた。
「今日は寒いからね」
 彼は俺を見る。
「僕の部屋に行こう。あったかいよ」
 ──そして着いた彼の家は、わりと俺の自宅に近い一軒家だった。
「誰もいないよ。親は仕事で、妹は友達の家じゃないかな」
 そう言われて連れこまれた家の中は、確かに静かだった。知らない家の匂いがしていた。彼は俺が脱いだスニーカーを手に取る。
「僕の部屋に持っていっておくね」
 何で、とは思ったものの、深く考えずにうなずいた。
 彼は俺の手を引いて、階段をのぼっていった。ひかえめにきしむフローリングの廊下に、靴下がすれる。彼の部屋は、廊下を左に行った突き当たりだった。
 部屋は暗かった。明かりがつくと、雨戸とカーテンで閉めきられていることが分かった。
 正面につくえがある。整然としたつくえで、勉強はほとんどしていないようだ。
 左にはクローゼット、右にはベッド。ふとんと毛布がぐちゃぐちゃで、シーツもよれている。壁は無装飾で、フローリングには絨毯が敷いてあった。
 白い明かりに、彼の肌がひときわ生白く映る。
 彼は俺の靴をつくえに置いた。寒い室内に暖房が入る。俺の黒いランドセルをおろさせ、同じくつくえに置いた。缶の筆箱がかたかた音を立てた。
 手ぶくろも取る。俺の肌も明かりを浴び、青白く輝いた。彼はそれに陶酔した瞳を向けたのち、俺のフリーツ生地の紺のコートも脱がせる。
「寒い?」
 俺がうなずくと、彼は俺の手首を取って、急に引き寄せてきた。俺の軆は彼を軽くはずみ、そのまま抱きすくめられる。驚いた俺は、非力ながらもがいた。だが彼は俺を離さなくて、むしろ、ふたつの軆をなじませるようにきつく擁してきた。
 彼の体温を感じた。服越しにも、彼の熱が、肌が、その感触が染みこんでくる。俺は無意味な抵抗はやめた。
 俺の頭は彼の胸にあった。彼の鼓動の暴状が聞こえた。彼は匂いが希薄だった。俺を抱きしめて、顫動した息をもらしている。俺は彼の意外な力に、身動ぎもできなかった。
 彼は首を垂れ、俺の髪を嗅ぐ。熱い息がこめかみから耳にすべりおちる。その息には、不明瞭なうめきが混じっていた。
 俺の柔らかな腹は、押しつけられた彼の性器のかたちにへこんでいた。それが性器だとは、そのときは分からなかった。俺は大人の男性器を知らなかった。
 父親は俺になるべく触らない。だから、当然風呂も一緒に入ったことがなかったのだ。
 ぴったりしたジーンズで、彼の性器は否応なしに盛りあがった。それが自分の股にぶらさがるものと同じものだとは、そのときの俺は思いもしなかった。
 俺の軆と部屋が温まると、彼は軆を離した。そして、俺をベッドサイドに腰かけさせた。尻のふくらみに、よじれて段になったシーツが当たり、座り心地が悪い。
「力を入れすぎたね、痛かった?」
 彼は俺の肩に触れ、俺は「少し」と答えた。彼は俺の瞳を見つめて謝り、肩を慰撫した。肩の丸みに合わせて動く手は、服を脱がせたいような手つきだったが、彼はそうしなかった。
 彼は俺の足元にひざまずいた。俺の腿に手を這わせ、ジーンズ越しに肌を愛撫しはじめる。
 俺は無言で見ていた。彼の手はじわじわ俺の股間に近づき、近づくごとに瞳が潤んだ。摩擦を行なう親指が、脚のあいだにもぐりこもうとした。俺は思わず腰をよじった。
 彼ははっと俺を見あげた。したたりおち、つらぬいていくような、狂おしい欲望が渦巻いていた。
 俺はとまどって、うつむいた。謝った彼の声はかすれていた。
 不意に、ずいぶん昔の奇妙な夜が脳裏によみがえった。父親と母親が、ベッドで服も着ずに重なりあっていた。俺はドアの隙間でそれを見ていた。ベッドスタンドの蛍光燈が、情景を鮮明に照らし出していた。彼のかすれた声は、そのとき父親と母親がもらしていたかたちをなさない声に似ていた。
 彼は俺の膝に顔を伏せた。顔を横たえて、頬を俺の膝にくっつける。湿った瞳は、まぶたをかぶる。
 彼のなよやかな右手はシーツを這い、俺の左手を握った。指がもつれて、俺と彼の手は結びつく。
 彼は蕩けるような呼吸をし、俺の膝に頬をすりよせた。その睫毛は、かぼそく震えていた。
 今何時だろうと思ったのは、座り心地の悪かったベッドに、尻がなじんで違和感がなくなった頃だった。俺が時計を探してきょろきょろすると、彼は顔を上げた。
「どうかした?」
 俺は今何時かをぼそぼそと尋ねた。彼は微笑み、「そんなこと関係ないよ」と言った。
「君はずっとここにいるんだから」
 首をかしげる俺の細い腰を、彼は抱き寄せた。俺は彼をまたぐように座った。足の裏が絨毯をすべる。彼は俺の耳元でささやく。
「君は永遠に、僕とこの部屋で過ごすんだ。帰っちゃダメだよ」
 彼の腕は俺の腰にまわり、俺の動きを制御する。
「君は僕のそばにいる。ずっと。僕が君といなくちゃいけないから」
 俺は顔を動かし、彼を瞳孔に捕らえた。彼は俺をきつく抱いた。俺の股間に彼の股間がこすれる。俺の腹をへこませたものは、さっきより大きく硬くなった感じがした。
 彼はささやく。この日以降、何度も俺に捧げる言葉──
「君を愛してる」
 彼は腰を動かした。硬くなったものが、故意に俺の内腿にこすりつけられた。俺は腰を引こうとしたけれど、彼の腕に固定されて動けない。
「愛してるよ」
 彼の股間が大きくなって、俺は狼狽する。なぜ大きくなるのか。人間の一部にそんなものはないはずだ。彼の股間には何かいるのか。
 彼はそれを俺にこすりつけ、肌にすりこませる。ふくれ、硬く、熱くなっていく。
 ここには、何か別の生き物がいるのか。彼は脚のあいだに自分じゃないものを飼っている。そうだ。そしてそれが成長している。俺の感触を餌にしてふくらんでいる。彼の息がぶれて、かすれた声が混じった。腰の動きが早くなっていく。
 俺はふくらむ生き物を見た。生き物はジーンズの下で苦しげだった。ファスナーをおろしてやらないと死にそうだ。
 彼は、俺に生き物をこすりつけるのに夢中になっている。額に汗をうかべ、眉間に皺を寄せている。
 生き物を助けてやらなければ。俺はおそるおそる、彼のファスナーに触れた。
 そのときだ。彼がびくんと痙攣して、俺は驚いて顔を上げた。彼は荒い息をして、目をぐらつかせていた。腰の動きも止まった。内腿になまぬるい湿り気を感じた。見下ろして、目を剥いた。彼の股間、生き物がいたはずの膨脹がなくなっていた。
 何で、と思った。すぐに思い当たった。おそらく、死んだのだ。
 死んだ。あの生き物は死んでしまった。
 俺の心が空っぽになった。生まれて初めて直面する、ささやかな死だった。
 彼は不思議そうに俺を覗きこんでくる。
「どうしたの?」
 俺はうつむく。
「死んだよ」
「死んだって」
「ここにいたの」
 俺に股間をしめされると、彼は咲った。
「大丈夫だよ」
 俺は彼に顔を向ける。
「ここは生き返るんだ」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「爆発しちゃったのに」
「じゃあ……心配だったら、生き返るのを確かめるまでここにいて?」
 俺は彼を見つめた。ふくれあがった、苦しげな生き物が思い返った。
「ここにいて」と彼はくりかえす。
「僕は君のそばが落ち着く。君が必要なんだよ。君と離れたら僕は死んでしまう。だから、一緒にいてくれるよね」
 彼は俺を抱き寄せた。
「愛してる」
 俺の頭を手のひらでおおって撫で、優しくささやく。
「僕が一番、君を愛してる」

第三章へ

error: