白濁の血-7

白く濁ったもの

 排水溝を閉じると、手の力を抜いた。カミソリが陶器に落ちる。かしゃんと音がして、刃がまとう鮮紅が陶器に描がかれた。
 俺の白く長い指は、水のコックに絡みつく。軽く捻ると、透明な液体が細々と出てきた。水は白い陶器を透かせて溜まっていく。
 真っ赤になった左腕は垂らして放置した。右手だけでシャツを脱ぐ。
 白無地のTシャツは俺には大きめで、喉仏や首から肩にかけてのなめらかな線、くっきり浮いた鎖骨を覗かせている。薄手でよく伸びるシャツだ。裾をつかみ、腹と胸を剥き出しにした。
 俺の腹は、白くのっぺりとしている。平たい胸の上にある乳首は、黒ずむことなく桃色だ。白皙の肌に乗るその粒の色調は、眼球の奥を蕩かしそうに絶妙だった。
 脱ぐときに左腕の傷口に触れた白無地は、さっと深紅を飲みこんだ。広い傷口は赤いものを生みだしつづけている。傷口から出ているので、赤いものはたぶん血なのだろう。
 明かりで俺の上半身が浮かび上がる。綺麗な骨格だ。ごつごつすることなく、すらりとつながっている。腰の細さは女の弾力のあるくびれとは違って儚げだ。細身であっても、痩躯ではない。
 軆の随所に変色した俺の命がある。俺の命は裂けては血をこぼす。完璧な肉体を冒す、人工的な傷痕。
 水音が抑えられていた。目を落とすと、水が浅く溜まっている。俺はコックを捻って水を止めた。水面に指先を浸した。生温い。
 カミソリが底に沈んで揺らめいている。水中に赤い煙を立てている。
 俺はカミソリをすくいだした。こびりついた血は、水に中和されて茜色になっていた。したたった水滴が、水面にいくつもの波紋を作る。それはほのかに赤い。
 鏡を見た。俺の軆にはケロイドが這っている。ケロイドは俺の美しさに負けている。
 傷痕は俺の醜い人間味だ。美しさは俺の彫刻としての完成度だ。俺は美しい。醜くない。白光にきらめいている。陶磁器のような肌にケロイドは霞んでいる。美しい。俺には欠落を飲みこむ鮮烈な美がある。
 人間には程遠い。神に近い。天使だ。彫刻だ。作り物だ。俺は人間の腹の産物ではない。神がその手で造りあげ、魔法で侍童としようとした彫刻だ。俺はいつか神にさらわれるのかもしれない。
 それとも、彼が神だったのだろうか。
 手の中を濡らしたカミソリを握り直した。浮いた鎖骨に目を走らせる。左の鎖骨、喉元の近くに刃を乗せた。
 動かし、刃を肌に食いこませる。肌が裂ける。いや、陶磁器は裂けるだろうか? 裂けはしなくても、ヒビ割れる。俺の肌はヒビ割れる。じゅうぶんヒビに刃をさしこむと、俺は鎖骨に沿って肩へと刃をすべらせた。
 青白い肌は深く切り開かれ、断絶された血脈が洪水を起こす。血の顆粒がじわじわと盛りあがる。熟した血の粒が肌をしたたる。
 刃はすっと肩へと抜けた。
 血がぼろぼろと生み落とされる。青白い肌を競争のごとく紅の真珠がすべっていく。
 鏡を見つめた。赤い雫が肌をすべっていく。胸、胃、へそ、腹──
 赤い、と想った。血だ。本当に? 赤いものが血とは限らない。傷口が噴き出している。傷口が噴き出すものは血だ。これは血だ。傷口が生んでいる。肌を流れている。ジーンズの生地に染みこんでいく。
 誰の血だ? 俺は彫刻だ。血は流れない。これは俺の血なのか? 俺は人間だ。血が流れている。青白くなめらかな肌。いや、ただの赤い液体ではないのか。俺の肌は陶磁器だ。俺は赤いものが流れた彫刻なのか。
 カミソリを持ち上げた。赤く彩られた刃を傷口に押しこんだ。押しつけて奥を探らせた。
 これは傷口か。赤いヒビか。
 俺は青白い。俺の軆に、赤いものは秘められていない。
 俺は白い。精液だ。俺には精液が流れている。
 傷口が赤い。俺の傷じゃない。俺の傷口は白濁だ。そうだ、これは俺の命ではない。
 俺の傷口は、もっと深い。
 傷口をすりつぶした。傷口の傷口をえぐりだそうとした。青白い精液に傷口を掘る。精液に掘られた傷口の深奥を探す。
 赤いものが流れる。赤く見える。俺の血は白い。この血は俺の血じゃない。俺の血管には、俺の血じゃない血がかよっている。俺の傷口から、誰かの血が止まらない。
 俺の全身に張りめぐる管に流れる液体は白濁だ。だから俺は青白い。
 左胸は真っ赤に染まっていた。右胸は真っ白に染まっていた。俺の傷口はどちらか。
 いや、俺に傷口などない。俺にあるのは、他人の傷だ。俺は真っ赤なカミソリで誰かの傷口をつぶす。他人の傷口を肌に造っている。誰かの傷口から誰かの血を流している。
 俺の血がない。人間なら生臭い命がある。俺の血は俺の地下にある。
 だから俺は探る。深く。ずっと深く。そこに俺の血があるはずだ。俺は白濁した俺の血を探し続ける。

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