滴る苦み
彼の部屋で、俺は外部と断ち切られていた。俺はもともと誰の顔も思い出せなかったけれど、もう彼以外の顔は想像もできなくなっていた。幽閉されていたわけだが、奇妙にも恐怖はなかった。
彼は俺に良くした。彼が俺を愛しているのはよく分かっていた。
ただ、自分がよく分からなくなっていた。誰の顔も思い出せない。自分の顔も思い出せない。自分で考えられなかったし、自分で動けなかった。考える前に彼の言いなりだったし、動く前に彼がした。俺は俺について空っぽになった。俺の意思は彼の意思に擦りかえられ、彼は俺の人間味を吸い取った。俺は無機質な美しい彫刻に変貌していった。
彼は俺にささやいた。
「綺麗だよ。最高だ。誰も君に追いつけない。君は天使だ。人間じゃないんだよ。君は僕だけの彫刻だ」
彼は不気味に肥大した性器を取り出し、右手でしごいている。黒く奇怪なものだった生き物は、俺のすぐ目の前で剛毛を飛び出てぐんぐん育っていく。彼は無意味な声を混ぜた息を吐き、左手で俺の肌をさすっていた。
「触って」
だしぬけの彼の言葉に、俺ははっとした。
「僕に触って」
“僕”が性器だと理解するのに、何秒かかった。分かっても躊躇していると、「違う」と彼はうめいた。
「ダメだよ。違うんだ。じっとしてて。僕を見て。君の中に僕を焼きつけて。僕を感じて」
彼の手が、俺のうなじにまわった。頭を引き寄せられる。俺は軆を硬くさせた。彼の性器は俺の頬にぴったりとあてがわれた。
彼は俺の頬に性器をこすりつけはじめた。柔らかい頬に、熱と硬さがざらつき、どくんどくんと血管が伝わった。脈動は頭にぐるぐると響き渡った。彼は俺の頭を抑えつけ、腫れあがった性器をこすりつけた。先端を歯の噛み合わせにはめこむと、さらに激しく腰を揺すった。
不意にあの忌まわしい香りを嗅いだ。瞬間、彼の性器は爆ぜた。俺はすさまじい勢いで発射された白濁を、顔面に浴びた。
ついに俺は泣き出した。我に返った彼は、慌てて毛布で俺の顔をぬぐった。抱き寄せてあやした。彼は焦っていて、白濁のぬぐい方も雑だった。俺は噎せ返りそうな白濁の匂いを嗅いでいた。鼻にまといついて離れない、ゆがんだ、つんとした匂い。
彼は何度も謝った。頭を撫でては、「ごめん」と「愛してる」を繰り返した。
だが、彼は懲りずに俺にあふれる欲望をしめした。潤んだ瞳で、ほてった指で、濡れた舌で、そそりたつ性器で。俺はそのとめどない欲望を受けることしかできなかった。俺の頭は、青臭い白濁に麻痺してくらくらしていた。
彼は俺の腿に頬擦りをする。音もなく、感触だけが芽生える弱々しい頬擦りだ。彼の息はひそやかに引き攣り、言葉をなさない陶酔した声がこぼれる。そして顔を俺の股間に埋め、俺の性器を口に誘いこんだ。
俺の垂れたそれに舌を絡みつけ、飲みこんでしまいそうに吸う。舌先で先端をつつかれ、俺はびくんと身をすくませた。すると、彼は愉しげに笑った。「もう少しだね」と彼は言った。
「もうじきここが、君の一番いいものになる」
彼は俺の性器を吸った。俺は赤ん坊と接した経験はなかったけれど、その様子はおしゃぶりみたいだと思った。
彼が息を吸ったり喉の奥がもらしたような声を出すとき、彼の口の中で、俺の桃色はぬらぬらしていた。頬が熱くなって、目をそらした。彼はその様子に気づくと笑った。
「ほら」
彼は俺のすねに股間をすりつけた。熱かった。
「君にそうやって恥ずかしがられると、僕はこうなるんだよ。恥ずかしいって思うことは、清らかってことなんだ。君は心の中も綺麗なんだね。愛してるよ。僕の中は君でいっぱいだ」
彼は俺の性器をふくむまま、手探りでファスナーをおろした。性器を解放すると、彼は吐息をついた。俺の性器をしゃぶりながら、自分の性器をこする。彼は激しく俺を吸い、欲望を俺の性器に響かせた。彼の息は乱れて、喉がうやむやな声を垂らす。
彼は俺の性器をくわえる口を外すと、唇を噛みしめたのち、俺にささやいた。
「お願い。君の口をつけて」
俺は目を剥いた。彼は俺の肌をさすっていて、俺は見ていない。彼は立ち上がって、俺の後頭部を手でおおった。猛った赤黒いものが目の前に突きつけられた。先端に液をにじませている。変な臭いもした。
俺は抵抗しようとした。
「お願い。君にしてほしいんだ。ずっと我慢してたんだよ。もうダメなんだ」
彼は陰茎をしごく手を離した。彼の白蛇の指が、俺の唇に触れて口をこじあける。歯を食い縛ろうとしたが、間に合わなかった。彼の巨大化した性器は、俺の小さい口に突っ込まれた。
彼の長くなった性器に、俺の喉は簡単に塞がれた。呼吸が苦しくなって喘いだ。彼を押しのけようとしても、頭を抑えつけられてどうにもできない。
口の中に硬さと熱が広がる。頭蓋骨にどくどくと脈打ちが耳鳴る。鼻の頭には、黒い毛がまとわりつく。視界が滲んだ。喉を詰められたように、息ができない。
俺が目を白黒させていると、彼は少し腰を引いた。やや呼吸は楽になっても、俺は泣きたかった。やめて、と言おうとしたが、こもって異様なうめきにしかならなかった。
「大丈夫だよ。落ち着いて。そんなに悪いものじゃないんだよ。これは僕の君への愛なんだ」
俺はかぶりを振った。頬に涙が伝うと、彼はまた腰を引いた。息がずいぶん楽になった。
先端は口内にある。元気をなくしていない。熱と涙にめまいがした。硬さと大きさに、あごが痛くなってきた。俺は顔を背け、口を外そうとした。彼は許さなかった。
「僕は君を愛してるんだ。こうしてほしいんだ。君にしかしてほしくない。お願いだよ」
彼の声は哀願だった。俺も泣いていた。かぶりを振り続けた。彼は俺の髪を撫で、「今入れてるところだけでいいから舐めて」と言った。
「これ以上はしない。先っぽだけ。ちょっと舐めて。そして、僕の味を教えて」
恐ろしさに泣きながらも打算した。このままあらがっていても無駄だろう。彼は痺れを切らし、無理に詰めこんでくるかもしれない。俺はあの呼吸困難を思い返しておののいた。先端を舐めれば、解放されるのだ。
こわごわと舌を動かした。躊躇いがちに舌を這わせた。途端、彼の息が腫れぼったく震えた。
「もっと」
俺は舌を動かす。頭のなかがぐちゃぐちゃで、どうすればいいのか分からなくなった。浮いた血管をなぞると、彼の腰は痙攣した。
「いいよ。そのまま、もっと。飴を舐めたことはあるよね。アイスでもいいよ。僕を食べ物だと思って。そう。もっと」
よく分からずに彼を舐めた。食べ物とはとうてい思えなかった。それは飴やアイスのように甘くはなかった。
彼は俺の頭を撫でさすり、腰を揺する。
「僕の味、ある?」
俺はかろうじてうなずいた。
「どんな味? 教えて。僕の味は?」
「にが……い……」
彼は俺を愛撫した。俺の上顎に先端をこすりつけ、浮わついた声で喘いだ。
俺は睫毛を伏せた。眼前の黒い毛を見ていたくなかった。舌先だけを憶病に彼に這わせた。顎が痛くて外れそうだ。変な臭いが喉から鼻をつんざく。彼は俺の歯や舌に性器をつけ、すりつけて不明瞭な言葉を降らせた。
「もっと。いいよ。君を愛してる。もっとして。気持ちいいよ。最高だ。君にしてもらえてるなんて夢みたいだ。いい。もっと。うまいよ。そう。ねえ、愛してるよ。愛してる。君だけだよ。君以外いらない。ずっと。君だけ愛してる。君が最高だ。いいよ。もっと。もっと。もっと──」
瞬間、大量に白濁があふれた。顎から喉へと垂れ流れた。喉の奥へとすべったのは少量で、ほとんどが胸に伝って腿に落ち、俺の性器に絡みついた。
俺はなかば失神していた。口中で彼がしなびていった。頭がぐらぐらする。まだ耳鳴りがしている。舌に残る苦味は鮮やかだ。顎は痛みを越え、無感覚になっている。こすりつけられた上顎には、硬く熱い感触がこびりついていた。
彼は放心する俺を片づけた。俺は脳みそが泳ぐ錯覚におちいっていた。俺を綺麗にすると、彼は自分の後始末をして俺を胸に抱いた。
俺の喪心状態は、長らく解けなかった。ぴくりとも動けなかった。何とか軆に魂を取り戻すと、彼は安堵して俺の頭を丁寧に撫でた。俺は自分が脱力しているのに気づいた。どうしようもなくて、彼にもたれた。
彼は俺を抱きしめた。そして、そっと俺の耳元にささやいた──ひどく、ぞくりとさせる言葉を。
「すごくよかったよ」
彼は性器についてよく語った。「これは将来、君の人生を良くするよ」と。子供の俺には、秩序の立たない話だった。
「ちょっと大人になれば分かるからね」
理解していない俺に、彼はそう微笑んだ。
性器を使って良くなる。性器を硬く熱くするとき、彼がかなり気持ちいいのは分かっていた。その気持ちよさが、俺の知らない快感であるのも分かっていた。
彼は息苦しそうにうめく。どう見ても苦悶の顔だ。なのに、強烈な快感をみなぎらせて、打ち震えている。白濁を吐く瞬間、それは絶頂となる。死と引き換えにのぼりつめる。終わると、彼の性器は萎えて毛に縮んだ。
俺は欲望の象徴である赤黒い棒を想う。快楽の切り札らしい白濁を想う。鼻腔に張りつく臭いを想う。
目を閉じた。
そんなのだったら、気持ちよくならなくていい。それが人生を良くするものであったとしても。俺はもう、人生に期待なんかしないほうがいいのは知っている。
「君が大人になったとき、君は僕を想ってこれを使ってくれるかな」
彼は俺の膝に頭を乗せていた。
「してくれると嬉しいよ。ねえ、使ってくれる?」
彼は顔を上げた。彼の瞳に俺が映った。どう答えればいいのか分からなかった。彼を想う以前に、それ自体を使いたくなかった。無言でいると、彼は微笑して俺の内腿に口づけた。
「僕を憶えていたら、君は僕を想うよ。憶えててね。君に忘れられたら、僕は死んでしまう」
俺は彼を見つめた。彼はまた俺の膝に顔を埋める。本当に死んでしまいそうな気がして、俺はかすかにうなずいた。
彼に対して、自分が怯えているのか嫌悪しているのか、自覚できなかった。眼球を突き刺すもの、耳にこびりつくもの、鼻を突き抜けるもの、肌を這いまわるもの、舌を痺れさせるもの。それらは捕らえても、その感覚に沿う感情はなかった。怖いとか嫌だとかは思えなかった。
無感情になっていたわけではない。感情の麻痺だった。
【第九章へ】
