約束の記憶
「今、僕は幸せだけど、前はときどき哀しくなってたんだ」
俺の口内に勃起をおさめる彼が言った。腰を顫動させ、快感を調節している。息は緩く震えている程度だ。俺の舌は静止していた。
「僕は毎日、君を想ってた。眠っても君の夢を見てた。僕は君でできてるぐらい、君を想ってたんだ。なのに、君は僕を忘れてしまっていた」
何の話か、分からなかった。彼の性器が大きくなり、俺は口を大きく開けなくてはならなくなった。顎骨が痛い。外れそうだ。性器を深く押しこまれ、呼吸が詰まる。
「思い出して。僕と初めて逢ったときを。僕はあの頃から、君を愛してた。夢中だった。君は七歳にもなってなかったけど、すでに完璧だった。桜が咲いてたよ。春だったんだ。君は一年生だった」
……桜。春。一年生。
「分からない? よく思い出して。一年生だよ。新入生だ。学年行事で歓迎会があった。そこで新一年生は上級生と遊んだ」
新入生。歓迎会。上級生。
「僕は君が一年生のとき、六年生だった。六年生は、ひとりずつ一年生を受け持った。六年生は、その子に校内や学校について教えた」
俺は眉を寄せた。脳裏に、その光景がぼんやりと浮かんできた。
──桜。咲いていた。満開だった。
春。暖かかった。天気もよかった。
一年生。不格好なランドセルを背負いはじめた。疎外の視線が痛かった。
新入生。ひとりぼっちだった。
歓迎会。嫌だと思った。
上級生。きっと、その人にも怖い目をされる──
「思い出して」
六年生のおにいさんだった。俺は怖くてうつむいていた。その人の目を見たくなかった。
手を取られた。俺の小さな手は、おにいさんの手にすっぽりくるまれた。白い手だった。
おにいさんは、俺に柔らかに声をかけた。
「怖いの? 大丈夫だよ。もし寂しかったら、いつでも僕が遊んであげる」
俺は顔を上げた。凪いだ瞳があった。おにいさんの微笑みと、彼の微笑みが重なった。俺は目を開き、ついで押しこめていた記憶が急激によみがえってきた。
そう、一年生の頃だ。俺は教室にぽつんといた。おにいさんは、そんな俺に根気よく会いにきてくれた。俺はおにいさんに心を開こうかと迷った。おにいさんだけは、明らかにみんなと違ったから。そうこうしているうちに、俺は二年生に進級した。その途端、おにいさんは会いにきてくれなくなった。
幼かった俺は、ひどく傷ついた。生まれて七年半で、一番傷ついた。だからその記憶を埋葬した。憶えていたくなかった。憶えていたらダメになりそうだった。
俺と彼は、見つめあった。彼は微笑んだ。
「思い出したね」
俺はぎこちなくうなずいた。記憶の疼きに、泣き出しそうになっていた。
今なら、会いにこなくなったのは卒業したせいだったと分かる。だが、俺の記憶はそれを裏切りだと刻みつけている。しくしくと傷口が口を開け、俺は睫毛を伏せた。
「僕はあの頃から君を愛してた。憶えてる? 最後に会った日、僕は君に訊いた」
憶えている。三月の初めだ。寒さは残っていても、ぽかぽかした日だった。チャイムが鳴って、帰ろうとしたおにいさんは、ふと足を止めて俺に訊いた。
僕のこと、好き?
「君は好きだって答えてくれた」
彼の声はうわずっていた。俺の胸は痛んだ。そう、俺は好きだと答えた。
「嬉しかったよ」
そう答えたとき、俺はおにいさんに心を開いたのだ。
「その言葉をもらえたから、僕はおとなしく卒業できたんだ」
次からはちゃんと話そうと、俺はおにいさんを待ち、次はいつ来てくれるんだろうと思うようになった。
しかし、おにいさんはもう来なかった。俺が心を開いた途端、来なくなった。それに俺はとまどった。明日は来てくれると思った。それでも来なかった。
きっと二度と来てくれない。ついに悟って、淡い望みは砕けた。帰り道で泣いた。家に着いても止まらず、門扉の手前で苦労して涙を止めた。
そして、俺は自分を守り、一年生の記憶をすっかり埋没させた。
彼の腰の動きが早くなる。俺は息苦しさを思い出した。性器が腫れあがって、唇の端を引き裂きそうに口をこじあけてくる。すごく熱い。血脈のうごめきが目立ちはじめ、大音響で俺の脳みそを引っかきまわす。
「もう一度、言ってほしいんだ」
彼は喘ぎながら言った。
「君は僕を好きだと言ってくれた。お願いだから、もう一度、僕を好きだって言って。愛してるって言って」
性器は血管を浮かせて、ぎりぎりになっていく。さらに深く入れられた。もう入りきらなかった。喉を塞がれて息ができない。吐けない息に内臓が破裂しそうで、吸えない息に脳が酸欠して、吐き気が巻き起こった。
「言ってごらん」
脳みそをどくんどくんと揺すぶられる。
「愛してるって」
苦い。
「言って。僕を──
あい、して……
口の中で白濁が決壊した。俺は咳きこんだ。どろどろのものが、喉にあふれた。部屋じゅうにあの臭いが満ちた。喉を絞る強烈な臭いだ。俺の嗅覚は、痛みを越えて麻痺を起こした。
愛してる。声にはなっていなかった。彼は俺がそう発音しようとした舌で爆ぜたのだ。
彼は性器を抜き取り、俺を抱きしめた。頬擦りをし、自分の頬に自分の精液を塗りたくる。俺の息遣いは痙攣していた。
「君を愛してる。ずっと見てた。君だけを愛してる」
俺は彼の白濁の臭いにつらぬかれていた。代わりに骨髄を押し出され、機能不全になっていた。自失した状態で目を開けていた。彼が何を言っているのか、自分が何にまみれているのか、もう分からなかった。
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