中学生になる日
おろしたての学生服は、三年後まで着れるよう大きい寸法を取ったので、糊のにおいと同じく軆に馴染まなくて変な感じだ。不器用な手つきで金ボタンを留め終えると、詰め襟が堅くて息苦しい。中の服はまだ薄手でよかったかな、と思っても、時刻は七時四十分──着替えている時間はない。
窓に面したつくえに置いている、紺の通学かばんを手に取る。手軽な手提げもあるけれど、今日は教科書配布があるので、この大きいでないと詰めこみきれないらしい。風は強そうでも、よく晴れたレースカーテンの向こうでは、すずめが女子のおしゃべりみたいに鳴いている。
部屋を出て一階に降りると、キッチン兼ダイニングからバターの柔らかな匂いとフライパンをあつかう音がこぼれている。
「おはよー」
そう言いながら踏みこむと、整った身なりにエプロンをつけたかあさんが、焜炉の前から振り返ってくる。
「おはよう。遅いわよ」
「分かってるよ。だから早く飯」
「ごはんと言いなさい」
答えずに床にかばんを置く。とうさんのすがたはない。田舎ではないけど郊外のここから、とうさんは一時間半以上かけて通勤している。朝七時半にはいなくて、夜も遅くて、休日には寝てばっかりいる。朝食を食べたあとだけがあった。俺は手つかずの朝食が並ぶ席に腰かける。
「ねえちゃんは」
左の空席を一瞥し、銀のスプーンを手に取る。
「まだ来てないわ。音してなかった?」
「別に」
カスタードみたいにとろりとしたスクランブルエッグには、香ばしいウィンナーが添えられ、トーストはテーブルの真ん中で焼きあがろうとしている。スプーンでスクランブルエッグをすくい、縹色のスーツを着こむかあさんに目を上げる。
「車で行くの?」
「車の入場は禁止って、書いてあったでしょ」
「何でいちいち式するんだろ。入学しましたって、事実があればいいじゃん」
「いいじゃないの、午前中だけなんだから。早く食べなさい。今日は晴れてるけど風は冷たいわよ。きちんと中に服は着た?」
「着たよ。暑いぐらい」
「急いでね。おかあさんも何か食べないと」
俺はたまごをもぐもぐしながら頬杖をつき、冷蔵庫を開けるかあさんを眺める。とうさんがあまり子供に構えないぶん、かあさんは俺と姉貴に過保護なぐらい世話を焼く。とはいえ、とうさんも仕事人間というわけでなく、昔は外に連れていってくれたりした。当時は会社に近い団地に住んでいたのだ。俺が小学三年生のとき、この家を買って通勤時間は倍以上になった。まあ、俺も姉貴も、親に構われなくてちょうどいい歳になった。頬杖を見とがめたりするかあさんのほうが手に余る。
「おはよー……」
あくび混じりの声に首を捻じると、パジャマに橙々と白のボーダーのカーディガンを羽織った雪乃ねえちゃんがいた。前髪はスタイリングする前で額に落ち、ショートカットには寝癖が残っている。あさってには中学二年生になる、俺のひとつ上の姉だ。
女というのはそういうものなのかもしれないけど、この人は神経質でときどきあつかいにくい。気紛れ、とも言う。あさってに学校が始まる今は、機嫌はとげとげで芳しくない。
「おはよう」
昨日の夕食の残りを電子レンジで暖めるかあさんが、こちらを向く。
「あさってから、学校なのよ」
「分かってるわよ。だから昨日より三十分も早く起きたじゃない」
「すごい寝ぐせ」
バターを敷いたトーストを頬張りながら俺が言うと、雪乃ねえちゃんは、沈黙の魔法をかける魔女みたいにこちらをじろりとし、億劫そうな手つきで隣に腰かけた。
「口に何か入れたまま、物言わないでよね」
「今日、入学式なんだ」
「パンくずこぼしてるのが何の服か見れば、分かるわよ」
「え」と自分を見おろして胸のクズを床にはらうと、雪乃ねえちゃんの皿にスクランブルエッグを流しこんでいたかあさんに、またとがめられる。雪乃ねえちゃんは我関せずで、スプーンを手に取り、「あたしトーストいらないわ」と食パンをトースターにかけようとしたかあさんに言う。朝は食べるべきだ、と言うかあさんのお小言のあいだに俺は胃を満たし、歯磨きに行く。
あまり広くないクッションフロアの空間に、洗面台と洗濯機と浴室へのすりガラスの扉がある。口の中を歯磨き粉で泡立て、顔を洗い、鏡を覗きながら前髪は軽く左に梳いて、視界の邪魔にならないようにする。
俺はお世辞にも美形とは言えないけど、最低限に目鼻や輪郭の均衡はある。特徴は二重まぶたがくっきりしているのと、目が丸っこいのぐらいだ。軆つきも成長途中だし、声も変わっていない。まあ近寄りがたくなくていいけど、と手入れしていじるようには、まだなっていない。
「柊!」
開けっぱなしのドアに、静電気にいらつくセーターみたいなかあさんの声がし、「はいはい」とタオルを洗濯かごに放って洗面所を出る。玄関ではエプロンをはずし、束ねていた髪を背中に流すかあさんが待機している。
「かばん取ってくる」
低血圧ぶって、おいしくなさそうに朝食を食べる雪乃ねえちゃんの脇をすりぬけ、かばんを取ると玄関に出る。
「忘れ物はない?」
「ないよ、たぶん」
「──雪乃、じゃあ行ってくるわね。お皿は水に浸けておくのよ」
「さっきも聞いた」
癇の強い声に、俺はスニーカーを履きながら小さく肩をすくめる。あの姉貴は、反抗期なのだと思う。かあさんは不服そうにしても、お説教のあいだ、時間が止まってくれるわけでもない。ハイヒールに足をさしこむと、「行くわよ」と俺を外にうながした。
ドアを開けると、まばゆい朝陽に思わず目を細めた。空は洗いたてのジーンズより真っ青だけど、この強めの風にちぎれ雲がたなびいている。電線には、コンビニの前にたむろする不良みたいに鳥が溜まっている。鍵をかけたかあさんは、雨になるのは夜から明日にかけてという天気予報を信じ、傘は持たずに歩道への階段をおりる。
かあさんの言った通り、風は思ったより冷たくも、陽射しはぬくぬくとふとんの中みたいに暖かかった。中学校と小学校は正反対の位置にあるけど、距離はだいたい変わらず通学時間は同じ八時前がちょうどいいらしい。なのに、かあさんはハイヒールを響かせ、中学校のほうが遠いみたいに早足で歩く。
「別に早く着いたって何にもないだろ」
「遅く着いたら、入学式から恥をかくのよ」
こういう親の口達者にかなわないときが、一番子供であることを屈辱的に感じさせる。別にいい、なんて言えば、じゃあ遅刻しましょうか、なんて残酷な仕打ちに出るのだから侮れない。
四月六日の今日は、雪乃ねえちゃんの悠長さの通り、本来まだ春休みで住宅街は静かだ。はしゃぎながら登校する小学生も、面倒そうに登校する中高生もいない。出勤する大人や車の排気ガスとときおりすれちがう。
やがて大きなT字路に出会い、このT字路から向こうはマンションやアパートが多く、ちらほら同じく親同伴の入学生のすがたも見えてくる。T字路を右手に曲がり、小規模な駅へと続く通りをくだっていくと、本日俺が入学する中学校がある。
四月の頭には、抱えきれない花束みたいに満開だった桜は、この風なり小雨なりで、すでに華やかな桃色をだいぶアスファルトに流している。ひらつく花びらの中、校門をくぐると、背伸びした保護者と、しっくり来ない制服を引っ張ったり撫でつけたりする生徒がうろうろしていた。
「塩沢っ」
校門の右手の校庭沿いを歩いていくと、空っぽの駐車場にもっと人があふれていた。プールのついた体育館もある。まだ中には入れないようで、「やっぱ遅くてよかったじゃん」とかあさんにようやく文句を言えていると、そんな聞き憶えのある声がした。
あたりを見まわすと、ひとりの男子生徒がざわめきを縫って駆け寄ってきている。制服すがたで一瞬分からなかったけど、小学校のとき同じクラスだった野々村だ。野々村も野々村で、ひと置き置いて立ち止まって俺を眺めると、何だか笑いながら近寄ってくる。
「何だよ」
「いや、中学生みたいだなと」
「お前も中学生みたいだよ」
「はは。何か変だよな、いまさら制服で顔合わせるのって」
肩を軽くたたかれて振り返ると、かあさんがバーゲンセールのように保護者がたかるテーブルをしめす。
「パンフレット、もらってくるわね」
俺は生返事で野々村に向き直り、「クラス発表はまだだよな」と周囲にそれらしき貼り出しがないのを確認する。
「パンフレットに載るんだっけ」
「いや、貼り出し。体育館の中だろ。八時半に解禁。入学式は九時から」
「詳しいな」
「どこの母親も同じよ」
似通った苦笑と立ち話をしていると、がらくたの中に磁石を走らせると金属だけ吸いついてくるみたいに、自然と顔見知りが集まってくる。そのうち体育館の扉が開かれ、奥の壁に二百人足らずの生徒を六クラスに振り分けた貼り出しを見つける。
六組だったら悲惨だな、と案じつつ一組から見始めると、一組の八番にさっさと自分の名前を見つけた。保護者席に落ち着くかあさんと別れ、一組の男の列──最右列の前から八番目に腰かける。
これから三十分ぼさっとしとくわけだな、と知った顔がそばに来ないかきょろきょろとして、けれど知らない奴がどんどん近い席を埋めていっていると、退屈そうな入学式が始まった。
校長の式辞ばかり長かったあと、あさってから担任となる教師の引率で、列になったまま教室へと向かった。そのあとを、保護者がわらわらとついてくる。
一年一組の教室は二階の階段のすぐそばだった。奥へと二、三、四組まであり、五、六組は離れているようだ。八番、はよく数えてみるとまさに教室の真ん中だった。この席教卓から目立つんだよな、と内心つぶやきながら、小学校のより高めのつくえにかばんを乗せて、椅子を引く。
慣れない空気と匂いにざわつく教室を見まわすと、小学校六年生の時点で同じクラスだった人間の顔もあった。その中にひとり、同じ班になったりすれば、口をきいていた奴がいてほっとする。
入学生は主に、住宅街の子が多かった東小と、マンションの子が多かった西小の奴だ。知り合いと同じクラスになれる確率は、わりに高い。黒板に何か書いていた担任は、「よし」とこちらを向いた。
「僕の名前は堀川亘。これから一年間、よろしく」
よろしくー、なんて返すほど、最近の中学生は教師に気さくではない。スーツを着こみ、歳は二十代のなかばといったところだ。髪を綺麗にすいて、面長な顔立ちもさっぱりとして、目つきも明快だ。
「まだ教師になって二年目なんでね、ベテランの先生たちと違って、君たちとは友達みたいにつきあえると思う」
そうだろうな、なんて思っても、この位置では顔にも出せない。明るく快適なクラスを作りたいとかいう抱負のあと、教科書の配布が始まった。
何やかやを終えて、始業式のあとにはひとりずつ自己紹介をしてもらうと予告された。うえ、と俺は眉を顰めて、気分と共に一気に重くなったかばんのファスナーをしめる。そうして入学式がお開きになると、俺と同じ気持ちだったらしい例の同じクラスだった森本が声をかけてきた。
「自己紹介だって」
「最悪だな」と息をつく。
「ま、名前と出身校言って終わりだろ」
「だといいけど」
「それより、あの担任どうよ」
俺たちは余った教科書やプリントを教壇で集める担任を見やる。
「まあ、勝手に言わせとけば」
「若い男教師って、熱血だからなー」
「年食ってるよりマシだろ」
「まあな。つっても、明るいクラスは無理だね。俺の後ろの席、湯島だぜ」
「誰?」
「二組で、桜町たちにたかられてた奴」
俺のいた三組のとは比にならないイジメが、二組で横行していたのは聞いている。
「獲物になる奴は決まってるしな」と森本は廊下をうながし、俺は森本の後ろの席で、うつむいて教科書をまとめる男子生徒をちらりとした。窓際の陽射しが映す、陰った顔立ちは意外に綺麗だけど、ずいぶん華奢で物静かそうだ。俺のクラスの“獲物”は不細工な女子だったっけ、とずっしり骨にめりこむ肩紐のかばんを連れて、親子がひしめく廊下に出る。
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