こんなの違う
パーカーとジーンズに着替えると、糊がきいた制服はハンガーにかけておいた。
死体入りみたいなかばんを引っくり返し、教科書に名前に書くとか、プリントをかあさんに持っていくとか、名札を制服に取りつけておくとかしなくてはならない。けれど、今はせっせと動く気になれない。
ベッドにぐったりうつぶせ、賢司を思い出すと落ち着かなくなる視線や集中力に滅入り、まくらに息遣いを埋める。
嫌いな食べものの後味のように、あの夢がまざまざと思い返っていた。暑い夜だった。その数日前、クラスメイトたちと見た、水着の女の子たちのグラビアに何か回線が違うと感じた。セックスなんて、よく知りもしないのに、あの夢はずいぶん生々しく濡れていた。あれは、今考えると寝る前に観たテレビのラブシーンのせいだったと思う。場面的には付焼き刃の改竄だったのだ。あの夢に出てきた男の顔は思い出せなくても、茶髪だった気がする。そして何より、俺はあの夢で夢精した──
考えれば、相変わらず自慰をしたことがない。そうするとき、欲望を駆りたてるため浮かべる幻想が、無意識に怖かったのだろうか。ちょっと女の子の軆を考えながらやってみようかな、と身を起こしかけても、意欲が失せていて二秒でまくらに再び突っ伏す。思わず賢司のことを考えて燃えるんじゃないだろうな、とか思うと、絶対できない、とすりむきそうに額をまくらに押し潰す。
あの夜、錯綜がしめす答えに泣きそうに焦りながら、ごわごわになった下着とパジャマを自分で洗った。それでも、奇妙な罪悪感がばれるのを過剰に恐れ、酸欠の頭で浅知恵を絞った挙句、服にわざと麦茶をこぼして洗面器につけておいた。そして翌朝、こう言ったわけだ。昨日の夜暑くて、麦茶を飲みにいったらこぼした。かあさんが騙されたのか、騙されてくれたのかは分からない。
重苦しい頭をもたげ、左手のつくえが面する窓を向くと、徐々にあの強い風が雲を連れてきている。賢司を想ってそわそわするのに比例し、空と同じように、胸の奥には空恐ろしいほど毛羽立つ暗雲が増殖してきている。
怖かった。唐突すぎて信じられない。まさか自分にそんなのが振りかかるとは思わなかった。本当に、ぜんぜん何の予感もなかったのだ。あの夜を除けば。あの日、おとなしく肯定しておけば、賢司にあんなふうになったのも、いくらか承知できていたのか。けれど、やっぱり、こんなのは俺の希望にかなっていない。女の子でいいというのに、何でわざわざ男なのだ。
こんなのは俺じゃない。そうだ、俺はホモなんかじゃない。俺はもっと普通だし、きちんとしているし、逸脱して社会と抗戦する気もない。だったら、賢司に触れられて緊張したのは何だと言われたら、うまく切り返せないけど──とにかく、俺は、男なんか欲したりしない。
賢司だって友達だ。友達でないといけない。賢司は俺を友達として見ている。こちらは恋愛対象として見ているなんて裏切りだ。幼なじみに嫌われてまで、男に走るなんてバカだ。冷静になれば、きっとこんなぶれは鎮まる。
催眠術師の声のように頭に言い聞かせ、きつく目を閉じた。
「賢司がここにねえ。ふうん」
その日の夕食は、野菜が溶けこんだ柔らかな匂いのホワイトシチューだった。ダイニングのテーブルには、家族四人が揃っている。時刻は小雨がぱらつきだした二十時で、とうさんはいつもより早く帰ってきた。霧のような湯気をかきわけて、じゃがいもをあさる俺の左隣で、かあさんの話を聞いた雪乃ねえちゃんはそうつぶやいた。
「雪乃はちゃんと憶えてたのね」
俺の正面のかあさんは、もう普段着で髪も後ろに束ねている。
「言われるまで忘れてたけど。柊をイジメようとすると、よく咬みつかれたわ」
「雪乃がかわいがらないから、柊は昔あんなに内気だったのよ」
「あたしのせい?」
「賢司くんのおかげで、活発になれたのよ」
「ふん。中学生になってまでべたべたしないでよね。気持ち悪い」
雪乃ねえちゃんに横目をし、怒りに任せて握りつぶす空き缶みたいに奥歯でじゃがいもをつぶす。望むところだ。
「元気そうだったのか」
チキンスープをすすっていたとうさんには、「相変わらずだった」とバターにほっこりとしたじゃがいもを飲みこんだ俺が返す。とはいえ、“相変わらず”なんて言い方は賢司の“いつも”を知らないとうさんには困るだった返答らしい。「そうか」とだけ言って、スプーンを取る。
この十二年間、俺はとうさんに背広より似合う格好を見たことがない。今はポロシャツとズボンで、やっぱり何か変だ。堅実指向で何となく厳めしく、融通がきかない。子供の交遊にはまるで関知しない。まあ、日本にありがちな不器用な父親だ。今年四十二歳で、三つ歳下のかあさんとどう知り合ったかは知らない。
「賢司くんのおとうさんの会社も、大変って話してたわ」
かあさんは家計簿をつけているときのようなため息をつく。雪乃ねえちゃんは、親がそういう所帯じみた話をすると、嫌な男に言い寄られているみたいなうんざりした顔をする。分かっていることなんか聞きたくもないらしい。でも、一抹の義理で中座はせず、「学校どうだった?」と俺と会話をすることにする。
「何か、中学校みたいだった」
朝と違い、前髪の整った雪乃ねえちゃんは眇目をし、マカロニサラダをすくう。運動より勉強を選ぶ雪乃ねえちゃんは、肌が白くてほっそりしている。けれどその目は、つくえにじっとしているより、走りまわって小麦色の俺に似ているとよく人は言う。
「担任は男? 女?」
「男」
「名前は?」
「え、と──あれ、忘れた。若かったよ。二年目って言ってた」
「あ、もしかしてさわやかそうな」
「あー、さわやかそうだった」
「去年、友達のおねえさんの担任だった奴かも。ああいう教師って、現実悟ったときにもろいわよ」
「頼りにならないかな」
「生徒は教師には頼らないってのが、現実なのよ」
スプーンを噛んで明かりに上目をし、まあそうかな、とうなずく。俺もどんなに追いつめられても教師には頼らない気がする。
「そういや、賢司がねえちゃんに会いたいって言ってた」
雪乃ねえちゃんはこちらをちらりとし、口の中のものを飲みこむ。
「話を変えるときは、前置きしなさいよ」
「そういや、って言ったじゃん」
「ケンケンって呼んだら、今でも怒るかしら」
「さあ」
「何年ぶりだったの」
「ちょうど小学校のあいだなんで」
「六年か。まあ、時間があればね」
「え、別にデートみたいに会う気はないと思うけど」
「余計な説明よ」
「柊、にんじんとブロッコリーも食べなさい」
数でもかぞえているみたいに赤と緑を隅によせていた俺を、とうさんと話しつつもかあさんが目敏く見とがめてくる。「うー」と唸ってみても、「野菜も食べなきゃいけないの」とかあさんは堅物に譲らない。俺は渋々、変な味の野菜を口に含むと、目をつむってろくに噛まずに熱いまま飲みこむ。
それを片づけた俺は、改めてこの家族を眺める。普通の家庭だ。不器用な父親、お節介な母親、思春期で気むずかしい姉──
ふと、賢司に覚えた発熱、それのしめすところがよぎる。この家族には、ゲイなんて、ほとんど妖怪か宇宙人だ。絶対言えない。やっぱこんなの違うってことにしなきゃ、と俺の視線はまた、電燈が映る空を彷徨った。
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