死華花-2

僕が想う死

 僕はだんだん“死”に魅せられていくのだけど、ひとつ明言しておきたい。
 僕が相手に求める死は、人が抜殻となる冷ややかな死であり、生命が流出するけばけばしい死ではない。僕が欲しいのは死であり、殺傷ではない。痛がる顔も苦しむ声もいらない。
 僕はサディストではない。サディズムには、虐待を加えることによって、相手と生命的な関わりがある。傷つけ、相手が苦痛や恐怖で応じることを求めるからだ。
 僕は相手との関わりなどいらなかった。むしろ余計な不純物だった。僕は相手に空っぽになってほしかった。そして言いなりになってほしかった。僕は相手の感情や自尊心を除去し、従順な人形にしたいのだ。対象の心など、関心外だった。
 だから、スプラッタ映画には眉をひそめる。ああいうものは死の宝庫だが、蔓延するのは生命的な死だ。恐怖に逃げまどい、悲鳴が引き裂かれ、血がほとばしる。スプラッタ映画は、生あっての死であり、虐待によって魂をたたえている。
 死とは華やかに報われるものではない。静的で空虚だ。物になることなのだ。思考も感情もない、細胞組織のかたまりになる。いたぶっても、ののしっても、弛緩におおわれ、受け身としてただそこにある。魂への侮蔑と言ってもいい。
 死とはしょせんそういうものであり、ただ気分が悪く、何のたしにもならない。
 僕の愛の条件は、その無価値と化す死にある。終着である死から、僕の愛は始まる。スプラッタやサディズムは死が絶頂であり、究極だ。僕には死こそが出発で、いよいよの挿入なのだ。
 意志なきものに君臨し、王と奴隷になる。
 僕は相手の心なんて欲しくない。あれば拒絶されるに決まっている。なので受容の可否を決める意思から剥奪する。正確に言えば、僕は死でなく物に魅せられているのだろう。
 死は人を物にする“過程”で、“目的”ではない。僕の欲望の対象は、支配できる無抵抗なおもちゃであり、いつまでも呼応や融合ではなかった。

第三章へ

error: