保健室の出来事
十五歳になっていた。ホラーやポルノで自慰し、孤独に包まれて熱っぽくなる以外、相変わらず無気力に澱んでいた。
僕の退屈な行動や鈍磨な感情は、生き生きした同級生たちにそぐわず、毒ガスが広まるように周囲を滅入らせた。もはや、仲間外れにもされなかった。そんな必要もなく、僕は本質的にみんなの世界の存在ではなかった。
幽霊。それが僕のあだ名だった。確かに僕は、本来自分が存在すべきではない世界を彷徨っているようだった。自分が消滅した世界を眺め、単調な絶望に犯され、へこんだ空き缶みたいに過ごしていた。
成績優秀だった僕は、自慰にふけりはじめ、成績が落ちた。何度か担任に呼びだされ、悩みがあるのか訊かれた。僕は押し黙っていた。拒絶ではなく、本当に考えたのだ。僕が一般と食い違っているのは、明らかだ。この倦怠には、何か原因があるのだろうか。
自分に意欲が足りないのは分かっていた。でも、何をやってもつまらなかった。ゆいいつ興奮するものは自慰だが、他者から見れば、そんなものに価値はない。僕の人生は一律に陰気だったが、脳内は混沌ともつれはじめていて、こんな自分の原理をたどろうとしても、ほどけない“だま”が真実を隠蔽していた。
問題は見つからず、何も分からなかった。僕はその結論だけぼそりと述べ、若い女教師に息をつかせた。
僕にあるのは、物体への空想だった。相手に求められるのは嫌だ。相手に尽くすのは嫌だ。相手に反応されるのも、相手が僕に関わるのも、とにかくじっと弛緩していないもの以外は、すべて嫌だった。
それにつきあってくれる、美しい女がいたら、死体に用はなかったかもしれない。けれど、実際にはそんなのは相手にとって屈辱だ。そもそも、僕は人と関わりたくない。仮に理想的な女が見つかって、彼女が僕にそうされることを悦んでも、満足できるか疑わしい。
いや、たぶん満足しない。僕は彼女を支配したいのだ。悦びだろうと、“心”を使っていたら、そこは彼女の領分で、僕の支配下ではない。彼女が生きた無常である証拠で、いつ心変わりしてもおかしくなく、僕は不安にたかられて集中できない。
満たされない。やはり僕には死体だ。僕も相手も、互いに情などあってはならない。相手は物で、僕は彼女を使用する。それだけのことだ。
秋が深まりはじめた頃のことだった。体育の授業で、転んで膝をすりむいた僕は、厄介ばらいのごとく保健室に送られた。六時間目だった。手当てをした女の保健医は、もう授業は終わるからと、足を引く僕をベッドに休ませた。
みっつ並ぶうち、一番右の窓際のベッドには、カーテンがかかっていた。貧血で倒れた女の子が眠っているのだそうだ。僕は真ん中のベッドに横になった。女の子のために静かにしておくように言うと、保健医は僕のベッドにもカーテンを引いた。しばらく、書き物をする音が響いていた。僕はその音を上の空に聞きながら、隣の女の子を意識していた。
どんな子だろう。眠っている。眠っているのなら、何をしても無抵抗だ。そう、僕が何をしても、彼女は気づかない。知られずに何でもできる。何でもさせる女が、今、すぐ隣に横たわっている──
不意に保健医が顔を覗かせ、職員室に用事があると言った。すぐ戻ると言い残し、彼女が消えると、保健室は僕と女の子のふたりきりになった。
すぐ戻る。そのひと言が、理性より遥かに効果的に僕を抑えつけようとした。が、“奴”の双生児はいらだたしく僕の頭をぐるぐる騒いだ。そいつを鎮めるために、僕は起き上がった。
一瞬落ち着いても、動かずにいると、またそいつは僕にわめきたてる。人間のような言葉ではなく、“奴”のような吐き気でもなく、無音の喧騒のような。追いはらおうとしても頭にかぶさり、振りおとそうとしても食らいつく。
ベッドを降りて、何をする。女の子に悪戯するのか。今は眠っている。気づかれない。起きたらどうする。途中で先生が帰ってきたら。恥ずかしい目に遭うのは嫌だ。羞恥心のために、愛の好機を捨てるのか。恥は孤独に値するだろうか──。
音を殺して、ベッドを降りた。浅はかな理性で、女の子が幻想を打ち砕くほど醜いことを願った。そうしたら、この奇妙な高揚も崩れ去る。僕は荒っぽい呼吸に唇を噛み、午後の陽射しに透ける白いカーテンの端から、隣のベッドを覗いた。
色褪せたように白い顔の女の子が眠っていた。軆つきは、肩まで覆うふとんで分からない。髪は短めで、伏せているせいか睫毛が長く見える。淡い色の唇が規則的な寝息をこぼし、きちんと寝ている。頬がずいぶん蒼いが、こけてはいない。といって、たるんでもいない。女の子らしい、優しい曲線が描かれている。
とりあえず、醜くはなかった。
カーテンを握りしめる。軆だ。理性の欠片もなく思った。それには相反する期待が同居していた。軆にがっかりして現実に後退りたいのと、軆をじっくり眺めて幻想に進みたいのと──“彼”に捕らわれた僕は、もはや、そうしなくてはならなかった。逆らうなどもってのほかだった。僕はカーテンをくぐってベッドに近づき、動悸に震える指で、そろそろとふとんをめくった。
女の子は紺のセーラー服を着ていた。胸のふくらみがかすかに認められる。その幼稚な乳房に意識的に冷めようとした。無理だった。一応、ふくらんでいる。わしづかめば弾力はあるだろう。
そんなのを思って、余計錯乱した。今すぐ彼女の胸をつかみたくなった。制服も脱がしたい。きっと、白くて綺麗な肌をしている。それを手のひらでたっぷり味わい、舌で愉しみたい。
さらにふとんをめくった。腰つきは幼く、あのしなやかなくびれはないようだった。スカートは紺のプリーツだ。裾がめくれて白い太腿が見え、僕はそこを凝視した。指を伸ばしたくなった。スカートなどたくしあげてしまい、深くさすって口づけたい。そして、そうしながら、この痛いぐらい硬くなった性器をこすりあげたい。彼女をまたいで、その胸に全部出したかった。
やってしまおうか。鼓動は相変わらず跳ね上がっている。彼女は眠っている。
どうしよう。やりたい。誰にも気づかれないのなら。ちょっとだ。こんなに張りつめていれば、三分もかからない。本当はもっとゆっくりしたい。急かされるようにはやりたくない。だけど、何もせずに枯渇し、しておけばよかったと後悔するより──
現実を食いつぶしそうに、幻想が膨張したときだ。女の子がうめき声をもらし、びくんと冷めた。僕は反射的にふとんをはねつけ、彼女の様子も確かめずにカーテンの隙間から逃げ出す。狼狽に撃たれた心臓が全身を駆けまわり、脳内が引っくりかえる。
気づかれただろうか。変に思われただろうか。誰かに話すだろうか。
懸念がばたつき、恐怖に力が抜けそうになる。ひとまずベッドにのぼり、横たわって落ち着こうとした。深呼吸し、やっと膝の傷と疼いていることを思い出す。
だが、今は彼女だ。僕は泣きそうだった。どう言い訳したらいいのか分からない。寝たふりをしようか。ふとんをかぶり、息遣いも身動きも押し殺した。保健室は静まりかえり、すると、やすらかな寝息が響いてきた。でもあっさり安心できず、耳を凝らした。
淡い唇がもらしていたのと、同じ寝息だ。そう確信を得て初めて、ぎりぎりに捻じれた緊張はほどけ、荷を下ろせた。もう一度ベッドを降りようとは思わなかった。いずれにしろ、保健医が帰ってきた。何もしなかったのだから、何もなかったことにして、僕はそのまま放課後まで寝ていた。
僕は、この出来事をずっと忘れなかった。後悔でも印象でもなく、僕は彼女に触れる夢想をふくらませ、自慰の糧にした。さまざまな場面で、彼女をまさぐるに至るのを想像した。はなから彼女は寝ているときもあれば、出逢うところから始まり、殺すときもあった。どんな空想も最後には物体化に行き着き、僕は鮮やかな白昼夢を彷徨って、実現できなかった欲望をくりかえし手中に放った。
僕には、未来がなかった。今までだって、何となくそこにいるだけだった。ようやく自慰が孤独をなぐさめたものの、けして将来に胸を馳せるようなものではない。むしろ、未来が訪れるほど状態は悪くなるのが明らかで、いたたまれなかった。
稀に自殺を考えた。だが、完全なる無である自分に打ちのめされる僕に、そんな果断ができるわけがなかった。死ぬ勇気があれば、死んだ軆より生きた心を慈しむ努力でもしていただろう。僕は押し流されるまま、到来する未来を痕跡のない過去へと垂れ流した。
僕は人に受け入れられない。そんな先入観で、僕は相手の心を欲しがるのが怖かった。求めることを殺し、抑え、否定していたら、欲求は本当になくなってしまった。必要なくて退化し、ついになくなった蛇の足のように。僕の心に、相手の心を求める正常な息吹はない。僕にとって“愛”とは、死んで心の抜けた軆を好き勝手にあつかい、その行為を拒絶しない無言の魂を飲みこむことだ。
饒舌な心魂を食べるのは栄養だが、無言のそれは麻薬だ。僕は中毒していた。末期が近づくごとに、“彼”の威力は圧倒的になった。悪いと分かっていてもやめられなかった。依存は、ひざまずいて生け贄になるしかない虚脱につながり、僕はどろどろの悪循環に堕ちていった。
卒業間近、将来の夢の作文を書かされた。僕は一行も書けなかった。題名すら書き出せず、クラスで最後のひとりになると居残りさせられた。そのときも例の担任教師が国語担当なのもあって話しかけてきて、彼女は慎重に僕の実の母について口に出した。
表情には表さずとも、心外だった。母が今の僕に何だというのだ。四歳のときから、僕の元にはいないのに、何か及ぼしてくるはずがない。母を想うと、僕は鉛筆を握りしめる仕草で殻をかためた。教師は僕に謝罪し、作文も残りは宿題にする譲歩で僕を帰路につかせた。結局、作文はそれらしい嘘でやりすごした。
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