死華花-7

心ないもの

“彼”は着実に僕を制圧していった。あの女の子に触れさせようと、僕を意のまま動かせたのが自信になったように、あれ以来、始終僕の頭に飛びこんできては、思考回路の理性や現実感をすりきれさせる。
 僕の意志を押し出し、僕の行動を幻想の刺激物へと操り、僕の心と軆を分離させる。心を失くした軆は、機械のように僕ではないものによって僕を演じ、内なる僕を卑しめた。
 みずからの意志を持っているように、幻想は高慢だった。その夢想自体は僕の理想の産物だとしても、僕の意志はそれが“いけない”と分かっている。拒絶して“僕”から排斥しているのに、もはや僕のものとは思えない邪悪な喚起性をはらんで、それは弁別を腐らせる魔力と共に必ず帰ってくる。
 僕にはさっぱり分からなかった。それは僕の内因なのか、霊的な外因なのか。ゆいいつ分かるのは、それが僕の孤独の遠吠えに酷似していることだ。ほかは何も分からず、僕は無知な奴隷となった。
 いっそう自慰に溺れた。一日に何度もやり、しまいには手首に力が入らなくなったりした。愛の対象は、ホラー映画の静止画より、ポルノ写真になっていた。死体でなく、生身に欲望を向けるようになったのではない。二次元に切り取られた人間を、物体だと思いこむ妄断が強くなっただけだろう。
 僕が持つポルノ雑誌は拾いものだった。購入にしろ、万引きにしろ、店頭から持ってくることはなかった。買おうとしたら未成年ではないかと咎められるし、盗もうとして見つかったら追いかけられる。人目にはつきたくないのが牽制になっていた。 
 クラスの女の子たちが、ポルノ写真の女のようにふっくらしていく。僕はそれには昂ぶらなかった。彼女たちは笑い、動いて、生きていた。写真ですら、にこにこと表情豊かだと僕は興奮しない。無表情や目を閉じているほうが、イメージがふくらむ。僕は、女の子たちには変態だと気味悪がられていた。僕も瞳をきらきらさせる彼女たちが気持ち悪かった。
 中学校の卒業式が間近だった。行きたい高校を選択しなくてはならないのは、ひどい重荷だった。どこにも行きたくなくても、いまどき、そんなのは許されない。
 僕の抑鬱のためでもあった。学校がなければ、僕は消極に沈没し、一日じゅう部屋に閉じこもっていてもおかしくない。
 担任に勧められた高校を考えなしに志望した。同級生たちが病的に神経をとがらせる中、ぐったりした僕は浮いていた。学力は低下していたものの、どんぞこではなかったので合格し、制服の発注に百貨店へ連れていかれた。
 成長も考慮した寸法の制服の注文が終わると、三人家族は食料品売り場にいった。落ち合う時間だけ訊いて、僕はひとりで店内をうろついた。文房具売場や衣類売場を深い意味もなく歩き、婦人服売り場を通りかかった僕は、ガラスにおさまった綺麗なマネキンの前で立ち止まった。
 二体いて、両方とも女だった。右の黒髪のショートカットは、手を口元にかざして咲っている。左の波打つ茶髪のセミロングは、腰に手をあてて澄ましている。どちらも肌どころか眼球も無着色で、白かった。等身大が停止しているのは、僕にとってかなり性的な光景だった。咲っている右より、無表情の左に惹かれた。まるで生きていないのが、僕の幻想を刺激した。
 それをベッドに寝かせ、抱きしめるのを想像した。これなら厄介な心もなく、受け身に軆を探らせ、僕はひとりで気持ちよくなれる。スカーフをといて、ブラウスを脱がせ、スカートをおろす。全身をまさぐって愛撫し、またいで自慰し、精液をその肌に散らす。よりそって一緒に眠り、ずっとそばにいることを拒まれることもない──
 それが欲しくなった。彼女はあまりに理想的な愛人だった。しかし、まさか売り物ではないし、ふところに隠せるものでもない。インスタントカメラを買ってきて、せめて写真におさめようか。でも、所持金がない。仮にカメラを盗んできても、室内なのでフラッシュをたかなくてはならず、店員に注意されるだろう。当然、今ここでガラスを割って服を脱がし、自慰に走るわけにもいかない。
 問題の“彼”は、そのぶあついガラスに遮断された。焦れる欲望でガラスに触れようとしたとき、不審そうにこちらを見ている店員に僕が気づいたのだ。僕は怯えて逃げ出し、遠くから彼女を見つめるしかできないまま、やってきた約束の時間に仕方なく背を向けた。
 マネキン人形は、僕に三次元の欲望を覚醒させた。写真も悪くない。悪くはないが、立体を知ってしまうと、物足りない感じもした。僕は自分が求めるものを知っていた。僕が欲しいのはマネキン人形だった。保健室で眠っていた女の子だった。ホラー映画で散乱した死体だった。この腕にじかに抱きしめられる、虚ろの人間だった。
 幻想を抱くのは僕で、幻想だけなら無害なのだ。誰だって危険な妄想はする。あいつを殺してやりたいとか。あの子を犯してみたいとか。ただし、そんな幻想を現実に引き出すのは悪いことで、ほとんどの人は実行しない。臆病にしろ、分別にしろ、抑制するものが健康なのだ。僕の中に棲む“彼”はまったく逆で、病んだ実行を強烈にあおった。
 おかげで、僕の幻想をおおう弁別という殻は、たまごの殻のようにもろかった。中の幻想も蕩けていて、いくら道徳でゆがいてもかたまらない。僕の心ははじけば割れて、幻想を現実に溶かしだしそうだった。
 三次元の覚醒は、殻に亀裂を入れた。あるのは中身が透ける膜で、僕はそれを死守しなくてはならなかった。心を空っぽにされ、そこを害悪で埋め立てられるのをさしとめ、幽霊なら幽霊らしく、“奴”が訴える合法に倒れこまなくてはならなかった。
 分かっていても、ひとりぼっちが怖かった。死んでしまった人のようにこの世に受容されず、幽霊みたいに透けて孤立するのはごめんだった。何も要求せず、隣に所有させる人が欲しかった。心ないものに自分を受容させる──ようやく産みだした僕なりのその愛を、三次元のポルノにぶつけたかった。
 そんなときに彼女に出逢い、僕は台無しになってしまった。あの醜い女のせいで、僕は傷物から壊れ物になってしまったのだ。

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