壊れた日
高校生になって、僕は年末年始の帰省を拒否するようになった。
父の両親は僕が生まれるまえに亡くなっていて、まさか母の実家に行くわけもない。帰るのは義母の実家だ。僕が歓迎されない異物なのは、言うまでもない。
高校生になって勉強がいそがしいという口実で、僕はやっと毎年のいたたまれない陋習を脱出した。一週間程度を生き延びる資金だけ渡され、家にひとり残る。
冬休みはどうするという話で、彼女はそのことを知っていた。三人家族はクリスマスを過ごすと、二十六日に大掃除をやり、その翌日に義母の実家に発った。帰ってくるのは一月四日の予定だった。彼女が家に訪ねてきたとき、僕は沈黙するリビングでできあいの弁当を食べていた。あと数日で今年が終わろうとしていたこの日、彼女はこの家に僕しかいないのを知っていた。
「泊めてほしいの。君の家族が帰ってくるまででいいから」
彼女は荷物を提げていた。僕は何も言わず、彼女をリビングに通した。彼女は暗いテレビと食べかけの弁当を見て、「君らしいね」と言った。僕は黙って弁当を片づけた。
「食べててもいいよ」
僕はキッチンに行き、弁当を冷蔵庫に突っこんだ。ふたりぶんのお茶を淹れ、持っていくと「ありがとう」と彼女は受け取る。彼女はそれで軆を暖めると、「泊まってもいいかな」と荷物に触れる。
「君のとこしか行けなくて」
僕はお茶を飲んでいて、「いい?」と念を押されてうなずいた。彼女はほっとして、お茶の残りを軆に流しこむ。なぜ家にいられないのかと思っても、気になるほどでもなかった。彼女の事情など知ったことではない。関わりたくなかった。
その夜、僕と彼女はセックスした。今日も彼女は僕の腰に脚をまとわせ、乳房を揺らしてのけぞった。そんな反応に気分を害されながら、僕も何とか達する。
終わったあと、彼女は僕に寄り添い、僕はまくらに頬を埋めた。「何で来たか訊かないんだね」と彼女は言う。僕は無言で空を眺めていた。彼女はずっと僕の汗ばんだ髪を撫でていて、先に睡魔にさらわれたのは僕だった。
「親と喧嘩したんだ」
大晦日の前日、何も訊かない僕に痺れを切らし、彼女は勝手に訪問の理由を語りはじめた。僕の部屋で、彼女はベッドサイドで指輪をいじり、僕はベッドに面した壁に背中を預けている。彼女は僕を振り返り、「ここに来たのはね」と言った。
「君のとこなんて、絶対誰も思いつかないのと、もうひとつ、君にしなきゃいけない話もあって」
僕は手足をシーツに放り、瞳を空中に腐らせている。
「あたし、今度の三月に卒業したら、君に会えなくなるじゃない? 今のうちにさっぱりしておいたほうがいいんじゃないかって」
彼女を見た。彼女は目をそらした。
「あたし、もう君に会っちゃいけないの。君と寝たらいけない。あたし、卒業したら結婚するんだ」
予想外の方向に、彼女を見つめる。
「親ともそれで喧嘩したの。ふざけるなって。でも、あたし本気なんだ。彼もあたしに本気だって分かった。彼、結婚してたの。それでこないだ、あたしのために離婚した」
彼女は指にいくつもはまっている指輪をはずし、左薬指の銀の指輪を残した。やっとこちらを向いてそれを見せると、「十六の誕生日に彼にもらったの」と僕の無表情に後ろめたく笑う。
「これをはずさないために、ちゃらちゃらしてた。けど、ずっと不安で。あたし、友達とかぜんぜんいないって言ったよね。あれは、いないんじゃなくて、作らなかったんだ。友達ができて、彼との関係をしゃべっちゃうのが怖かった。彼、あの高校の教師なんだよ」
僕は何も言わなかった。何とも感じなかった。感情が死んでいるせいでなく、突拍子なくて、どう思えばいいのか分からなかった。
「ばれたら引き裂かれて当然でしょ。ずっと隠してて、隠してることで、ないとは言い切れないいろんな可能性が怖かった。あたしを跡形もなく捨てることだってできる。先生にはあたしなんか遊びで、奥さんも子供も捨てる気はないんじゃないかとか。裏切られたときのために、君に近づいた。肉体的にも、精神的にも、誰かにいてほしかった。君なら先生と同じぐらい、関係を吹聴しないだろうって。万一先生が応えてくれたときのために、ほかの男とか関わってるのをオープンにはしたくなかった。先生はあたしのとこに来てくれた。だから君のことは──」
彼女はやましくうなだれ、指輪たちをはめなおした。
つまり、彼女は僕を利用していたのか。僕が彼女をそうしているように、僕を慰み物にしていたのか。内気にかこつけ、おもちゃにしていた。彼女こそ僕を道具にしていた──。
虚脱した。屈辱の怒りは、激しすぎて空まわりした。「君が嫌いってわけじゃないの」と彼女は言い訳する。
「初めは何とも想ってなかった。一緒にいるうちに、悪くないって思うようになった。ほんとだよ。それでさよならって言いにきたの。何とも想ってなかったら、黙って捨てるよ。好きだから、きちんと別れておきたかった」
彼女を見た。彼女はこちらにくると、僕に口づけて、「ごめんね」と言った。あの甘い香りがした。
「おととい、きみの寝顔見て、ちょっと好きになってるって思った。君って寝顔も疲れてたけど、それが逆に切なかった。 君のことはずっと忘れない」
もう彼女の言葉を信用しなかった。できなかった。それに少し驚いた。ということは、今まで僕は、彼女をいくらか信じていたらしい。こわごわ信用したありのままの希望が偽物で、猜疑の渦巻くゆがんだ邪推が真実だった。
彼女は、属せるのに保身で属さなかった。僕の根暗を都合よく利用していた。そして、不安の解消と共に他者とつながり、再び根を張って世界に溶けこみ、そこから遊離した僕を断絶しようとしている。
いわば彼女は、僕に人工呼吸をほどこしたくせに、僕の息遣いが自分の幸福の雑音になった途端、弱く息を吹き返した喉を踏みにじってやるというのだ。
僕はまた死のうとしていた。彼女を失い、ひとりぼっちになろうとしていた。あの深くおぞましい、虚空に身をうがたれるような孤独に──彼女は僕を、絶望に突き落とそうとしていた。
そんなことをさせるわけにはいかなかった。だから、僕はその夜、彼女を殺した。そうしなくてはならなかった。“彼”の空恐ろしく静かな恐慌と興奮の支配下で、彼女の首を素手で絞めあげ、どうこううるさい心を紡ぐ命を絞り出した。
二度とあんな恐ろしい気持ちにはなりたくなかった。なぜいつも、捨てられなくてはならない? 彼女に隣にいてもらうには、このほかにどうしたらいいのか分からなかった。
【第十一章へ】
