非常階段-7

最悪を考えて

 予定を組んだって雪乃ねえちゃんが家族旅行なんかサボるから、去年あたりから俺の家では連休にあえて何かしようとしない。このゴールデンウィークもそうで、俺はどこにも行かない代わりにもらった臨時の小遣いで買ったRPGを、どんどん進めている。
 何かしていないと、考えごとが泥沼になってたまらない。本当なら、俺はどこか遠くに行って気分転換したかった。けれど、家族が一緒ならやっぱり後ろめたくてくつろげなかっただろうか。
 誰にも言えなくて、余計にこうなのだろう。閉じこめられた気持ちが、水槽の中しか泳げない魚のように堂々巡りする。
 でも、誰かに言うぐらいなら手首を切る。言えない。恥ずかしい。どう言えばいいのだ。同性にときめく。そう言っておき、ゲイではないとつけたすのは不可能だ。
 こんなにも、何でも話せる親友が欲しいと思ったことはない。というか、それは賢司なのだと思う。せめて相手が賢司でなければ、もしかしたら、賢司には相談できていたかもしれない。
 誰かに聞いてもらえたらいいのに。たったひとりだけでも、嘘をつかなくていい相手がいればいいのに。暗い顔を見せられるだけでもいい。
 悩んでいる顔さえできない。笑顔を作って言葉を加工して。でも、言おうとしたって、どう言えばいいのか分からない。誰に言えばいいのかも分からない。その人が笑い飛ばしたり、軽蔑したり、怒ったりしたら、もう誰も信じられない。信じられなくなるのが怖いから、誰のことも信じられない。
 思いつくかぎりの妄想を、まだ思いつく程度だという基準で、絶対にありうることとして案じてしまう。冷静になれば思い過ごしであるようなものも、錯乱してくると鮮烈な現実味を持って募ってくる。学校、家庭、交遊、将来、どれもこれも、こういうとき実はゲイだったらどうすればいいんだ、という疑問が黒い蔦としてつきまとう。
 たとえば、このまま男しかダメで大人になる。結婚なんて興味もなくてしたくもないとか思っていたのに、本当にできないと迫ってくると、ものすごい負い目に思えてくる。
 子供も作れるか分からない。嘘で女の子とつきあうのはまだ可能だ。けれど、セックスで勃起できなかったら。男のことを考えて繕うのか? そして、もしばれた場合は──そんな末路、地獄に堕ちたのと変わらない。
 希望面なんて思いつかない。あっても取るに足らない。悪い面があれば、重要なのはそこだ。ふらふらして行き当っては恐ろしい現実を知る。頭にばっさりかぶせられた黒いふくろのように、不安が執拗に頭を離れない。良くない面ばかり案じるうち、こんな不安材料しか見つからない自分は、人として欠陥があるのではとも思えてくる。
 そして、ほかのことにはほとんど集中できない。次第に自分でもバカらしくなり、ほっときゃ忘れるかな、とゲームをしたり宿題をしたりしてみる。けれど、どうせ意識がざらざらだったり、手元が慣れてしまったりして、ぼけた老人のたわごとのようにまた同じことを考えている。
 今年の連休は、土日と重なって綺麗に五日間が休みだった。そのよく晴れた最終日、賢司がおばさんと訪ねてくるということで、俺はまた朝から窮屈な懸念に滅入っていた。
「まあ、いらっしゃい」
 錯綜する頭を持て余す俺とは裏腹に、かあさんはふたりをそうにっこりと歓迎した。おじさんは昨日までの家族旅行に疲れて、家で寝ているらしい。時刻は十四時前の昼下がりで、俺はやっと昼食を胃に押しこんだところだった。
 リビングでは雪乃ねえちゃんがソファに腰かけ、昨日友達と出かけた帰りに借りてきたビデオを観ている。とうさんはダイニングのテーブルで新聞を読んでいる──雪乃ねえちゃんに、「映画なんだから、音立てて邪魔しないで」と言われたからだ。が、雪乃ねえちゃんは、お客様が顔を出せば簡単に停止ボタンを押している。
「雪乃ちゃん?」
 今日は髪をおろすおばさんの懐かしそうな笑顔に、「はい」と笑みまで返している。こういうときの女って嘘かほんとか分かんないよな、と庭へのガラス戸の脇に立った俺は思う。
「ご無沙汰してます」
「やっぱり、女の子のほうが成長を感じさせるわねえ。かわいくなって」
 そうかな、と弟の冷めた感覚で思いつつ、歯を磨きにいきたい俺は、焼きそば味の口の中を気にする。賢司はおばさんの後ろから雪乃ねえちゃんを覗き、鼻白んだ様子で言った。
「信じられないけど、ほんとだ」
「え」
「鬼も十八っていうもんなー」
「何言ってんの」とおばさんが賢司の頭をはたく。俺はぽかんとそれを見て、空を向く。そして、もしかしてねえちゃんをかわいいと思えないのってあれのせい、と蒼ざめる。
「賢司?」
 雪乃ねえちゃんはソファから乗り出し、おばさんの背後を覗く。賢司は顔を出すとついでに舌も出す。雪乃ねえちゃんは鼻で笑うと、肩をすくめる。
「いまだにケンケンって呼ばれたいらしいわね」
「っ、その呼び方すんなって、昔さんざん言っただろっ」
「やっぱり怒ったわ」
「ふん。何だよ、顔しか女らしくなってないな」
 また賢司をはたいたおばさんは、「ご主人は」とかあさんに問い、かあさんはダイニングに声をかける。顔を出したとうさんもおばさんと挨拶を交わす。
 とはいえ、とうさんは賢司たちのことは話で聞くのが多いし、賢司のおじさんも俺たちと関わりは深くない。何だか知らないけれど、父親ってそんな感じだ。賢司もとうさんに頭を下げると、向こう側の雪乃ねえちゃんと向かい合うソファに腰かけた。
「柊」
 賢司にそう隣に呼ばれても、「あ」と俺は一歩ドアへと後退る。使いたかった言い訳が、一瞬何だったか混乱したけど、すぐ思い出して口にする。
「その、俺、先に歯磨きしてくるから」
「ガキみたい」
 すかさず皮肉る雪乃ねえちゃんの後頭部はぎっと睨めても、うなずいた賢司には、熱に浮わついた笑みをやっと返してリビングを出る。確かめたいことがあった。今そばに賢司がいて、すごく頬に血がのぼっている。俺は洗面所に飛びこむと、洗面台に駆け寄って鏡を覗いた。
 思っていたより、頬も顔も赤くなかった。でも、頬に触れて指先に熱が伝わると、熱っぽい顔つきにも見えた。目は潤んでいない。この程度なのか、廊下を走るあいだに冷めたのか。すごい真っ赤になってるように感じるんだけどなあ、と息をつき、歯ブラシが立った水色と白のストライプのコップを手に取る。
 戻ると、大人はダイニングのテーブルに溜まり、子供はリビングのソファに溜まっていた。賢司に手招きされ、今度こそ俺はその隣に座らなくてはならない。
 揶揄や喧嘩に使うため、欠点を見逃さない姉弟間のこと、雪乃ねえちゃんの前でボロは出せない。しかし、こういうときに限って女は目敏い。やばいと分かっているのに、分かっているほど、賢司の隣で血管をちぎりそうに鼓動が緊張する。
「にしても、そうやって並ばれると、ますます変わってないわね」
 かあさんが出したらしい食卓のチョコチップクッキーをつまみ、雪乃ねえちゃんはそう俺たちを眺める。テレビは消されて暗くなっている。
「さっきので、俺も相変わらず雪乃が柊を餌食にしてるのが分かったよ」
「彼氏でもないのに、呼び捨てにしないでよ」
「どうせ彼氏なんかできないから言わせとけよ」
「うるさいわね。女ったらしよりマシよ」
「何でそんな言葉が出てくるんだよ」
「あんたのその目つき、絶対いやらしいわ。あたしは騙されないけど」
 賢司は眉を寄せて俺を見る。俺は少しだけ笑い、「俺は男だからいやらしいかは分かんないな」とティッシュより薄っぺらに言ってみる。
「柊は柊で、かわいらしすぎる目よね」
「るさいな。性格ブス」
「女は見ためがよければどうにでもなるのよ」
「うわ、すっげやな女。あー、やっぱ君は不憫な弟だ」
 ぽんと賢司に肩を置かれ、猫だましにしっぽを震えあげる猫のように心臓を跳ね上げそうになる。離れた賢司の手のひらの熱が、薄着になったせいでほとんどじかに肌に溶けこむ。
 今のはやばかったか、と幽霊を振り返るみたいにそろそろと正面の雪乃ねえちゃんを窺い、察したような物笑いが来るのも覚悟した──けど、雪乃ねえちゃんは憎まれ口であるわりに賢司との軽口が楽しそうで、俺になんか目をくれていなかった。

第八章へ

error: