性教育
五月の中旬のいい風が窓際には流れこんでくる。俺は手すりに預けた腕に顎を預け、瞳を空中にさらしながら、前髪をその風に揺らしている。
下に覗けるのが緑にうつろった桜の校庭なら風流だけど、残念ながらここから見えるのは体育館や濁ったプールだ。でも、向こう側にあるのが個建の住宅街なので、雲もなく透き通る空をさえぎるものならだいぶ少ない。
明るい陽射しはすっかり暖かくも、夏服が届いていないので俺の制服は冬服だ。六月の衣替えは、この暑さにひと月繰り上げになり、二、三年生はほとんど夏服になっている。一年生には俺みたいな生徒もいて、今授業を解放されて背中でざわつく教室でも、冬服と夏服は半々だった。
風も空も軽やかだけど、俺の気分は、うんざりするほど暗い樹海を這いずりまわっている。それもこれも、今の三時間目の授業のせいだ。「保健の教科書を持ってきておけ」という前もっての指令に、嫌な予感はしていた。男子は教室に残って担任に、女子は保健室に行って保健医に性教育をされたわけだ。体育教師が留守にしている穴埋めだったらしい。
「最近は、高校でやったって遅いみたいだしな」
女子がいないぶん、男子生徒たちは前方の席に自由に偏らされた。そう苦笑した堀川に、いくらかの生徒も笑ったが、俺は自分の席でおもしろくなく頬杖をついている。
「とはいっても、始めのほうのお前たちがどうやって生まれてきたかは、小学校でやったと思うんで──」
「ははっ。恥ずいんで飛ばすんだ」
「うるさい。そこは、東浦先生の管轄でもあるんだよ。はい、二十五ページだ」
東浦、というのはありきたりなジャージの体育教師だ。あいつはゲイなんてリンチするタイプだな、と億劫な手つきでページをめくる。『成長と共に広がる世界と交流』──無難な章だ。
「生まれたばかりの頃、お前たちの周りには家族しかいなかったよな。それが、幼稚園に行きはじめて友達ができて、小学校になれば街をひとりで歩けるようになって、今中学生になって、お前たちの生活はもっと広がってるはずだ」
はいはい、と受け流したくなる。教科書を少しめくり、恋愛や性のところを飛ばし読みしたけど、気休めになる情報はなかった。思春期に気になることの棒グラフが乗っていて、それの一番隅に、小さい文字で同性愛が二パーセントで載っていた。二パーセントね、と息をつきたくなる。そのほかには触れられてもいなかった。
「で、これから高校生や社会人になれば、お前たちにはすごく身近で重要な交流がひとつできる。それが、女性との恋愛や結婚だ」
自分の目の奥が、虚ろに冷めたのを感じた。女性とのなんてご丁寧だな、と皮肉を秘かにつぶやいていると、堀川は黒板に教科書の図を写しながら、軽薄に苦笑いした。
「そういうのを、同性とやっちまうのもいるけどな」
素早い感電に目を開いた。同時に教室は一斉に笑い出した。クラスメイトたちは吐く真似をしたり眉を顰めたりして、俺は真っ先に廊下側の席にいる賢司を見た。
賢司は隣の席の友達と笑いながらも、まずそうに舌を出していた。
音もなく発作を起こしたように、心臓が硬直したのを感じた。激しい笑い声が完全に瞳を乾かしていく。「こらこら」と堀川は教室に向き直る。そして一縷の期待を裏切る彼のこのひと言で、そのあとの授業を俺はいっさい憶えていない。
「ほかのクラスは、まじめに授業をしてるんだからな」
まじめ……? じゃあ、何? 同性愛なんて冗談? 笑いごと? こいつらの感覚は、たしなめなくてもいいことなのか?
頭が真夏の太陽のように真っ白に砂になり、そうこうするうち、男より甲高くざわめく女子が帰ってきた。チャイムが鳴って席を離れた俺は、のろのろと近寄った風のぬける窓際にもたれ、まぶたをぐったりさせた。
たとえば、テレビでは同性愛を尊重する番組を流しながらも、時間が変われば、ホモをお笑いにしたコントを流している。芸人なんかが、男同士でキスをする。みんな嫌悪感を感じながらも笑う。冗談だからだ。本気ではない。その芸人だって、本当は嫌なのだ。けれど、視聴者を笑わせるためにやる。本当に男の唇しか求めない男同士の口づけだったら、視聴者はチャンネルを変えるだろう。
同性間なんて、冗談以上では許されないというのがしょせん現実で、堀川とかクラスメイトたちの感覚が“普通”なのだ。同性愛を受け入れてもらう近道は、笑われることだ。
同性間をあつかったものなんて、ほとんどがそうだ。どこかではそれが非現実だという予防線を張っている。“冗談”のコント、美しい“禁断”、“劇的”な物語──リアルに同性愛を綴るなんて、やっぱりヒくのだ。 “特集”とかでしか触れず、特別あつかいして、社会からはじくほうが多い。
「何か見えんの?」
不意の声に、どきっと左を向くと、賢司がガラス越しに外を眺めていた。「あ」と俺は起こした肩を思わず少し引き、さっきの笑っていた賢司を思い出して、手元に目を伏せる。
賢司は俺を向き、「何?」と首をかたむけて覗きこんでくる。賢司の匂いがして、どうしても心臓が飛び跳ねる。
「な、何って」
「露骨に目えそらして」
「そ、そうかな」
「どもってる」
「………、ちょっとだるくて」
「五月病とか」
「……はは。かもな」
「いい気候だけどな」
賢司は瞳に晴天を映し、俺は涼しい風に揺れる彼の髪に、どうしても友情ではない痛いような視線をそそぎそうになる。だから、賢司と顔を合わせたくないというより、そんな目をしたくなくて瞳を上履きまで下げる。
「さっきの授業笑えたな。けっこうマシな教師じゃないか、堀川って」
「え……」
「『そういうのを同性とやっちまう奴もいるけど』」
ずき、と胸の真ん中に杭が刺さっても、「そうだな」とそよ風に紛れて力なく咲う。賢司は俺を見つめ、「ひとりで何か考えてたかった?」と気にしてくる。俺は慌てて首を振り、「ほんと体調が悪いだけなんだ」と賢司の愁眉に微笑む。
「ごめん、心配かけて」
「保健室行く?」
「そこまでじゃないよ。大丈夫」
「……そっか。林間、来るよな?」
「は?」
「『は?』って。今度、林間学校があるじゃん」
一瞬、頬に雷みたいな亀裂が入った気がした。林間──そうだ。そうだった気がする。
「そ、そうだったな。忘れてた」
下手くそな裁縫のようにほぼほつれた笑みを繕い、痙攣しかけた舌を口内に抑えつける。
「一泊二日なんだよな。班は六人以内で勝手に組んでいいんだっけ。誰誘おうか」
え、と言いそうになり、急いで口をつぐむ。それはつまり、俺たちは一緒の班を組むということか。そんな──。でも、まあ、何というか、当たり前か。
林間学校。そう。そうだった。どうしよう……。教室を向いてクラスメイトを物色する賢司を横目に、俺は突き抜ける青空を見やって、言い知れない憂鬱に陰るため息を飲みこんだ。
【第十章】
