ローズケージ-2

思いがけない再会

 中学生になる頃には、まじめな学校生活をはみだしていた。授業中は音楽を聴いて、成績も落ちていくし、教師の言うことは聞き流す。
 家は相変わらずだった。雪瑠がいなくなって、四年が過ぎた。雪理は閉じこめられている。かあさんは俺にもいい加減になりつつある。とうさんは雪理のいる部屋に通う。
 このままだらだら大人になって、雪理の監禁も雪瑠の行方も、見捨てるように俺は家を出ていくのだろうか。雪理はひどいことをされているかもしれないのに。雪瑠だって誘拐かもしれないのに。何で麻痺していってしまうものなのだろう。
 ふたりが消えたことで、泣かなくなった。このまま二度と会えなくても仕方ない気がしてきた。だって、俺にできることがあるのか? あるならやるけど、雪理には触れられない、雪瑠には手かがりもない、どう動けばいいのか分からない。
 結局、そんな無力な自分がうざったくて、どんどん無気力な野郎になっていったのかもしれない。
 中学生になって二年目の秋、制服はまだ夏服で、イヤホンで音楽を聴きながら、雲のない青空を眺めて下校していた。
 真夏、あんなに停滞した風は、少しずつ流れるようになってきたものの、まだ日射しは皮膚に焼けついてくる。
 九月ももうすぐ終わるんだけどなあ、と午後の授業の居眠りの名残であくびをして目をこする。同じ制服がちらほらする学校沿いの道を外れて、住宅地に踏みこむと、人気が減って閑静になる。誰ともすれちがわずに家に着くことも多いから、突然背後を軽く突き飛ばされたときには、かなりびくっとして振り返った。
 そして、目を開いた。思わず軆もこわばった。長い睫毛と赤い唇が、まず目についた。それから、なめらかな白皙。さらさらの髪は肩まで伸ばされ、秋風に揺れている。
 確かに見憶えがある顔のその男は、俺の顔を確認してイヤホンを引き抜くと、「やっぱり颯乃だ」と微笑んだ。
「ゆき、る……?」
「うん。久しぶり」
 イヤホンが、外界を遮絶してくれるロックをしゃかしゃかとこぼしている。それを渡され、とりあえず受け取りながらも、まだ信じられなくて彼を見つめる。
 背は俺のほうが低い。骨格も俺のほうが未発達だ。でも、彼もあんまり腕や胸板に筋肉がなくて細身だ。
 言葉がない俺の頭に、彼はぽんぽんと優しく手を置いた。
「ごめん、急にいなくなって」
 息が震えて、視界が沸騰して緩みそうになった。「何で」とやっと絞り出す声がもれた。
 倒れこむように雪瑠の胸に崩れて服をつかんで、どんどん涙があふれてくる。「ごめん」と雪瑠は繰り返して、俺の頭を撫でる。
「何……で、どこにいたんだよ。誘拐されてたのか? 家出? どうして、俺と雪理を置いていったんだよ」
「ごめんね。家に……いるのが、つらくて」
「じゃあ、家出?」
「今、雪理は一緒じゃないの? 帰り、別々?」
 俺は鼻をすすって、濡れた頬を雑にぬぐった。
「雪理は、閉じこめられてるよ」
「えっ」
「とうさんが、監禁……して。家からも部屋からも出さない」
 雪瑠の表情が硬くなって、一瞬うつむいて唇を噛んだけど、ふと俺の手をつかむと家と逆方向に歩き出す。
「雪瑠──」
「とりあえず、今、僕が生活してるとこに行こう」
「えっ、ど、どこ? 遠いのか?」
「ちょっと。そこで事情は話す。雪理も連れていくつもりだったけど、……いったんあきらめる」
 意外と雪瑠は力が強く、脚がもつれそうな俺をぐんぐん引っ張っていく。雪瑠の長い髪がふわりと風になびいて、ほのかにいい匂いがした。俺はつながった手を見て、それをぎゅっと握り返すと、ちゃんと脚を動かして雪瑠についていった。
 市内まで出ると、路線を変えて特急に乗り換えた。その特急に一時間くらい座って乗っていて、「昨日寝てないから、ちょっと寝るね」と雪瑠は俺にもたれて眠ってしまった。
 俺は雪瑠の寝顔を見つめ、変わったけど変わってない、と思った。成長したし、男に見えるようになっているけど、繊細な人形みたいに綺麗なのは変わらない。
 雪理もこんなふうになっているのだろうか。同じ屋根の下にいるのに、四年も会っていない。
 何もできなかった。何もしなかった。とうさんにたたかれてでも雪理の名前を呼ぶのを、いつしかやめてしまった。雪瑠がいなくなって、俺の声も聞こえなくなって、雪理はどんな気持ちでいるのだろう。
 そんなことを思っていると、雪瑠がふと目を覚まして、「次で降りるよ」とまた俺の手をつかんだ。
 出たのはかなり大きな駅だった。混雑する人、無数の路線、立ち並ぶ店、ひとりだと確実に駅構内で迷子になる。
 そこを出ると、もう夜が始まっていて、高いビルや大きな交差点、複雑な歩道橋があった。ネオンが月も星もかきけしている。話し声、笑い声、叫び声、それらを雪瑠は毅然と縫っていく。慣れない俺が人とぶつからないようにかばってくれる。
 夜風が不安を冷たく撫でていって、俺は雪瑠の手をもっと強く握った。
 雪瑠は振り返り、「街まで少し歩くけど平気?」と訊いてくる。俺はこくんとしたものの、「街って」と行き先のことを何も聞いていないので質問する。
「颯乃、天鈴てんれい町って聞いたことない?」
「………、何か、犯罪とか多いってテレビで言ってるとこ?」
「うん。僕、今そこに住んでるんだ」
「えっ、だ、大丈夫……なのか?」
「何とかね。家を出たけど、どうすればいいのかは分からなくて。十三歳じゃ、犯罪で生きるくらいしかなかった」
 犯罪。何をしたのか訊こうとして、やっぱりやめておいた。美しい容姿を持った雪瑠が、何を犯せば一番稼げるかなど、俺でも分かった。
 三十分くらい歩いた。騒がしい駅前をそれて、ちょっと薄暗いビル街を抜けるとまたネオンがちらほらしはじめた。車道を横切り、さらにネオンの中を進むと、また人がかなり行き来している通りに出た。「はぐれないようにね」と雪瑠に言われて俺はうなずく。
 派手な人や堅気ではなさそうな人、いろんな人が入り乱れて、煙草の匂いも香水の匂いも混ざっている。それらを野良猫みたいにうまくよけて歩いて、やがて雪瑠はひとつの雑居ビルに入った。
「エレベーターなくてごめん」と言われて首を振り、階段をのぼる。三階でドアを開けると、すぐにまたドアがあって、雪瑠はそこを押し開けて「ただいま」と声をかけた。衣食する部屋、でなく、何かの店に見えるけれど──「おかえりー」とか「るっちゃーん」とか声がして、俺はちょっと躊躇ったけど雪瑠の背中に続く。
 店の中は薄暗かったものの、視界がなくなるほどではなかった。ドアが閉まると、あんまり広くない室内を見渡せる。手前にスツールみっつぶんのカウンター、奥にボックス席がふたつあった。
 ボックス席には客らしき男女がいて、でも、席についていそうなホステスのすがたはない。カウンターの中には女がひとりいて、でも、ママとか呼ぶにはあまりに若くて、どう見ても十代だ。黒髪のウェーヴの髪を伸ばして、前髪はヘアピンで留めている。
「お、マジで誘拐してきたんだ」
 その女は俺を認めると、煙草を吸いながらにやにやした。俺は雪瑠を見て、その顔が何とも言えない当惑をたたえていたのか、雪瑠は噴き出した。
「この人はね、未都みとさん。僕の彼女」
「かのっ……え、そんなんいたのか!?」
「いや、まあ、おつきあいは今年からで、その前は僕はヒモのような感じだったんだけど」
「ひも……?」
「雪瑠、中坊に分かる言葉を使いなさいよ」
「説明しづらいよ。──まあ、荒んでた僕を拾って、面倒見てくれた人かな。ここは、彼女のおかあさんのお店なんだ」
「母親はアル中で、もう何年も店に顔出してないけどね。仕方ないから、あたしが切り盛りしてんの」
「はあ……」
「しかし、ふたごってわりには似てないじゃん」
「ああ、この子は片割れじゃないほうだよ」
「じゃ、弟分か。片割れは?」
「連れてこれなかったよ。ちょっとむずかしそう。……だよね?」
 俺は雪瑠を見上げて、とりあえずうなずいた。「そっかー」と未都さんはグラスをかたむけて何か飲む。「座って」と雪瑠に言われて、俺は不器用に座高の高いスツールに腰かけた。

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