連れ出したい
ここから出してくれとわめいたり、泣いたり、怒鳴ったり、雪理はそういうことをぜんぜんしない。もちろん、そんなことをしたらとうさんにひどくされるからなのだろうが。それでも、声さえ上げてくれれば、俺はそれを受け止めるのに。
雪理はその部屋に閉じこめられて、もう、そのまま死ぬつもりなのだろうか。
「ヒモって、ネットで検索したんですけど」
放課後、俺はときおり未都さんの店におもむくようになった。
雪瑠はここではホストとボーイを兼任しているらしい。客としゃべって酒を作ることもすれば、買い物に出たりテーブルの片づけもする。客が雪瑠をつかまえて盛り上がっているときは、後者はカウンターを出た未都さんがやるときもあるようだけど。無論、客がカウンターに座ればその相手は未都さんがする。
俺はいつもカウンターでジュースとか烏龍茶を出してもらうから、未都さんとよく話した。未都さんはまだ十七歳だけど、十三のときからこの店に出て、十五くらいからほとんど母親にここを任されているそうだ。ひとつ年下の雪瑠と出逢ったのも、十五のときらしい。
今日もカウンターで未都さんと話していて、ふと思い出して俺がそんなことを言うと、「最近の子は、ネットで何でも知っちゃうね」と未都さんは煙草に口をつけた。
「雪瑠と出逢ったのは未都さん十五のときで、ってことは、雪瑠は十四だったんですよね」
「そうなるね」
「でも、雪瑠が家を出たのは十三のときですよね」
「らしいね」
「ってことは、一年間はやっぱ……」
「雪瑠には地獄みたいな一年間だったろうけど、まあこの街じゃ一年で地獄から抜けられたんならマシだよ」
「……そう、ですか」
雪瑠はボックス席でカップルの客と咲っている。雪瑠はボックスで若い客の相手をしていることが多い。
年配の客は未都さんの母親の客であることが多く、カウンターで未都さんと話していく。今はカウンターにいるのは俺だけだ。
「未都さんと雪瑠って、どうやって出逢ったんですか」
「野良猫が野良人間だっただけだね」
「拾ったんですか」
「うん。愛玩になるし、観賞にもなるし」
「観賞って。未都さんって、優しいのかひどいのか、よく分かんねえんですけど」
「ひどいんじゃない?」と未都さんはけらけら笑って、煙草をふかす。
「それでも懐いてくれた雪瑠が優しいんだよ」
「雪瑠は、昔からいつも一番しっかりしてたからなあ……。未都さんなら、初めて甘えられたのかもしれない」
「かもしれないね。警戒しろよなって思うほど信じてくれたし、尽くしてくれたし。あたしも、そんな優しい男なんて雪瑠が初めてだった」
「雪瑠以外にもつきあった男いるんですか」
「軆目当てとか金目当てばっかだけどね。一ヶ月続いたのが一番長かった。一緒に暮らそうって言ってきた男だけど、そのために金がいるから風俗で働けよって。あれは今考えると、ただ風俗に売りたかっただけだな」
「……ふーぞく」
「はは、ネットで検索したら十八歳以上か訊かれるよ。そう言うあたしも、未満なんだけどねー」
そんなふうに未都さんも俺を弟分みたいにかわいがってくれたし、雪瑠も俺が来ると安堵してくれる様子だった。
居心地がいいから、俺はその店で過ごす時間が徐々に増えていった。来てそのままで、店のボックスのソファで朝を迎えてから帰宅する。あるいは、学校に行かずに開店前の店で雪瑠と話をする。
俺がそんなふうにさらに生活を崩していっても、誰も咎めなかった。そもそも成績も態度も悪かったし、素行まで悪くなるのは時間の問題だと思われていたようだ。
それでも雪瑠との約束だから、学校はほとんど行かなくなっても、家にはなるべく帰って隙を窺っていた。しかし、やはり親父は雪理をがんじがらめに閉じこめていて、つけいる瞬間はなかなかなかった。
そのまま中学校を卒業した。高校受験なんてほったらかしていたけど、それでも入学できる通信制の高校に一応進まされた。生活は変わらず、あっという間に俺は十七歳になった。
雪瑠は二十歳になった七月の夜、雪理もそういうことになるなと思いながら、例によって終電で家に帰った。
家までの一本道にさしかかったとき、背後から車が現れて俺を追い抜いていった。こんな時間にめずらしいなとテールライトを眺めていると、車はそんなに行かないところで停まった。横づけされた家を一瞥して、足を止める。
その家は、俺の暮らす家だった。暗闇に目を凝らすと、その車は確かに親父の車だ。
親父は昔からあんまり残業も飲んだりもせずにまっすぐ帰ってくる。何でこんな時間に、と怪訝に思っていると、背広すがたの親父は車を駐車場に入れずに降りてきた。そして、助手席にまわって──
エスコートされるように開いたドアから降りてきた人に、俺は目をみはった。
「雪理……?」
壊れそうに細くて、そのぶん手足がすらりと長い。蒼く透き通りそうな白い肌をしている。
間違いない。
俺は無意識に駆け出していて、親父がその華奢な男の肩を抱いて家に連れこもうといるところに叫んだ。
「雪理!」
深夜に響き渡った声に親父がはっと振り返り、その向こうからその男の虚ろな視線も来た。長い睫毛に縁取られた瞳は、ぞっとするほど澱んでいて、俺を映したぐらいで光はなかった。でも、深紅の唇は、声はともなわなくても俺の名前をたどって動いた。
俺は雪理に手を伸ばそうとしたものの、その前に親父が立ちはだかって、乱暴に胸倉をつかまれた。
「お前っ、またこんな時間にふらふらしてたのかっ」
ごつっと左顎を殴られて、衝撃が右のこめかみまで突き抜けた。よろけそうになったけど、踏みとどまって、反射的に親父の頬をぶん殴り返した。俺のほうが力があったらしく、親父は体勢を崩して助手席の中に倒れこんだ。
が、親父は「雪理っ」と雪理のほうに首を捻って、鍵を投げつけるときつく命令する。
「先に部屋に戻りなさいっ。絶対に、部屋にいるんだぞ!」
雪理はみるみる怯えた蒼白になって、何度もうなずきながら鍵を拾い、家のほうを向いた。だが、俺はその折れそうな手首を何とか捕まえた。雪理は唸って、俺のことなど振りほどこうとする。
「雪理っ」
「は……な、してっ」
「雪理、俺について──」
「部屋に行きなさいっ!!」
夜を破るような親父の怒号に、感電したみたいにびくっと雪理は肩を震わせると、俺の手をはらって門扉を抜けていく。追いかけようとしたら、体勢を戻した親父に肩をつかまれた。
「くそっ、離せっ!」
「いい加減にしろっ、あの子は──」
「雪理、おい、雪理っ。何でだよっ」
庭を横切っていく足音に俺は呼びかける。
「俺、お前のことあきらめてないからなっ。だから、」
かちゃかちゃと騒々しく鍵をまわす音が響く。
「絶対、お前もあきらめんなっ」
次の瞬間、ばたんっと拒絶のようなドアの閉まる音がした。途端、親父が嗤った。瞥視をくれてやると、「あの子はもう、」と親父はつかんでいた俺の肩を逆に突き飛ばした。
「お前の話なんか聞かないぞ。あの子は思考回路も心理状態も俺のものになってるんだ。お前が手出しできるものか」
俺は苦々しく親父を睨み、何か言おうとしたが、下手なことを言って情報になったらいけないと、黙って開きっぱなしの門扉を抜けた。
そう、俺はスパイだから。なぜこの家にいるかを知られてはいけない。雪理を連れ去る使命を知られてはならない。
親父は耳障りに低く笑っていて、俺は唇を噛みしめながら玄関を開けた。すると、正面に人の気配があって、はっと顔を上げたけど──もちろん雪理ではなくて、ネグリジェのお袋だった。
「……あの人、おかしいわ」
お袋はドアの向こうを見透かしているような目で言った。
「二十歳だったあの女が死んで二十年なのに、そんなこともいまだに受け入れられないのね」
「……二十歳」
「だから、めずらしくあの子を連れ出したんでしょうけど。確か誕生日でしょう? どこに行ったんだか……あの女を初めて買ったホテルかしら?」
俺はお袋を見たけど、お袋は息をついて「あんた、夜遊びが目立つわよ」とつぶやいて二階に上がっていった。
俺はうつむいて、雪理と雪瑠の母親は死んでいる話を思い出した。死んでいることしか知らなかったけど──。
車のエンジン音がして、駐車場に入っていく。親父と顔を合わせたくなくて、スニーカーを脱いで二階に上がった。お袋はどうやら寝室に行ってしまったのを確認し、雪理のいる部屋の前に立った。
今なら、たぶん鍵がかかっていない。部屋に踏みこめる。手をつかんで引っ張り出せる。
なのに、俺はそれができなかった。さっき露骨に怯えられたのがショックだった。俺の顔さえ見れば安心して駆け寄ってきて、どこにでもついてくるなんて、もう幻想になっているのだ。
「雪理……」
このかすれた声が届いているかも分からなくても、俺は親父が来る前にこれだけは言っておきたかった。
「雪瑠が、お前を、待ってるから」
車のエンジン音が消えた。俺は顔を伏せて部屋に向かい、一度振り返ってやっぱりドアは閉まっているのを見てから、自分の部屋のドアを開けた。
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