抱きしめたあと
「雪瑠に会えたのって、幻覚じゃない、よね?」
汗が流れる暑さがやわらぐ気配はなくても、早朝から耳をかきみだす蝉の声はやっと落ち着いてきた気がする。八月下旬にさしかかりそうだった。
親父が再び会社に向かいはじめ、お袋も留守にしたとき、俺は連れ出せなかった気まずさを抱えながらも、雪理の部屋のドアをノックした。
かたん、と物音がして、それから、板張りのドアに背中を預ける小さなきしみが聞こえた。雪理の名前を呼んでも、返事がない。
怒っているのだろうか。あきらめてしまったのだろうか。
俺も何と声をかければいいのか迷っていると、ふとそんな消えそうな声がした。
俺は板張りに額を当てて、「ちゃんと手振ってただろ」とつぶやいた。だいぶ沈黙があってから、「うん」と雪理の声が涙混じりに答えた。
「雪理──」
「ごめんね」
「えっ」
「あんな、暑かったかな。夏って、暑いんだね。ここにはエアコンがあるから。夏の暑さとか忘れてた。ごめん」
「雪理は謝らなくていいよ」
「でも意識をほとんど失くしちゃうとか。おとうさんにも、ほんとははっきり海に行きたいって言えなかったんだ。なのに、何で海にいたのかも憶えてない」
あの老夫婦のことを言おうと思ったが、話したところで雪理の心がなぐさめられるわけでもない。
「雪瑠のことも、幻みたいにしか憶えてない。ただ、赤と黒っていうのだけ憶えてて、手を振ったら一瞬だけ咲ってくれた気がする」
「咲ってたよ。ほんとに、一瞬だけど」
「そっか。髪、長かったね」
「うん。仕事中にうざったいとき、縛れるようにしてるって」
「そうなんだ。雪瑠……に、会えたんだ」
鼻をすする音と、預けた背中が板にこすれてしゃがみこんでしまった音がした。
「話したかったなあ。僕が、もっとしっかりしてたらよかったのに」
「雪瑠は、雪理のことは絶対助けるって言ってたよ。俺もそのつもりだし」
「助けてもらう僕がこんなに弱いなら、無理なのかも」
「そんなことないよ。また外出するだろ」
「僕が倒れたりなんかしちゃったから、おとうさん、夏のあいだはここから出さないって言ってた」
「それなら、秋とか冬になれば」
「………」
「雪理」
「もう、分かんないや。僕はこのままここにいて、おとうさんに連れられて、どっかにいなくなるのかも」
「それは、」
「颯乃のそばにもいられなくなっちゃうんだ。もう、そんなの死にたいよ」
俺は唇を噛んだ。死にたい。そんなの、雪理は数え切れないほど思ってきただろう。でも、初めて口をするのを聞いた。
「雪瑠も、あれからずっと泣いてるよ。俺もあの日はすげえ泣いたし」
「颯乃、も」
「雪理と雪瑠が話もできなかったのが俺も悔しいよ。雪瑠も、客の前では咲ってるけどさ。目がすごく腫れてる。だから、俺と雪瑠に雪理を助けさせてくれよ。雪理が死んで、連れ出すのができなくなったら、俺たちはどうすればいいんだよ」
「僕なんか、見捨てちゃえば──」
「それは絶対できないっ。そんなの選ぶなら、俺だって死んだほうがいい」
「でも」
「また三人で生きていきたい。だから、頑張ろう。一緒に逃げよう」
「僕、迷惑じゃない?」
「そんなわけないだろ。大切だよ。雪理がすごく大事なんだ」
「………、颯乃」
「ん?」
「僕、すごく汚れてるから、嫌かもしれないけど」
「汚れてなんか──」
「ここを逃げられたらね、おとうさん以外の人に抱きしめられたい……」
俺は板張りを見て、かすかに咲った。
「ぎゅっとしてほしいって、言ってたもんな」
「うん。それをね、ほんとに、してくれる?」
「するよ。いっぱい抱きしめてやる」
「絶対だよ」
「絶対。約束する」
「じゃあ、もうちょっと頑張る」
「うん」
「雪瑠にも、待ってるって伝えて」
「分かった」
「ありがと。ほんとに、支えてくれてありがとう」
俺が言葉を続けようとしたとき、外の門扉が開く音がした。「お袋帰ってきた」と言うと、「うん」と雪理が答えて、俺は急いで部屋に戻った。
俺の部屋にもエアコンがかかっていて、廊下と違って涼しい。息をつき、ベッドに倒れこむとひとりで低く唸った。
けして状況はよくなかった。雪理は外出をひかえることになった。チャンスは先送りになった。自信なんか、俺も雪瑠も本音では欠片もない。ただ、それでもやらなくてはならないから約束はする。雪理をどうにかして、荊の檻から助け出す。
だが、そのまま八月は終わってしまった。九月はたぶん新学期なのだけど、俺は相変わらず高校に行かずに、雪瑠の店におもむいていた。
雪理の伝言はもちろん雪瑠に伝えた。待ってる。雪瑠は滲んだ目をこすって、「うん」とつぶやいた。
未都さんもさすがに優しく雪瑠の頭を抱いて、丁寧な指で髪を撫でている。それを見ていると、俺も早く雪理をそんなふうに抱いて、安心させてやりたいと思った。
九月の半ばを過ぎると、夜なら涼しくなってくる。終電で地元に戻ったその日も、流れはじめた夜風に頬をさすられながら帰路についた。
月と星がさらさらと輝いていた。いつしか澄んだ虫の声が響いて、空気もアスファルトが蒸された匂いではなくなった。
秋かあ、と思い、気候が良くなれば親父はまた雪理を連れ出すのだろうかと考える。しかし、その場合どこに行くかの予想がつかない。
雪理が親父と家を出て、車に乗りこむまでの数分間、俺が雪理の手をひっつかんで誘拐するのが一番現実的なのだろうか。でも親父が車で追いかけてきたらすぐアウトだよなあ、と首を捻っていると、家に到着したので鍵で玄関を開けた。
家はひっそりとして、相変わらず光も音も残っていなかった。スニーカーを脱いで、足音を潜ませて廊下を抜けて階段をのぼる。
雪理の部屋のドアが閉まっているのをちらりとして、自分の部屋に進んだ。ため息混じりに、無造作に、ドアを開けた瞬間だった。
とん、と胸に誰かがぶつかるように飛びこんできた。
「……え、」
すごく軽かったから、とっさに女と思った。けど──
「颯乃。やっと帰ってきた」
じかに聞くのが変な感じなその声に狼狽える。
まさか。嘘だろ。この声。
「おとうさん、今日お酒飲んで帰ってきて、久しぶりにそのまま寝ちゃった。だから」
その人が軆を離して俺を見上げる。長い睫毛。深紅の唇。透き通る白皙と、なめらかな髪。軆に触れる感触は、骨ばって折れそうで──
間違い、ない。
「雪、理……?」
「うん」
「え、……えっ、本物?」
「本物だよ」
「だ、だって。ずっと──無理、だったのに」
「おとうさんが寝ちゃうときがあるって言ってなかったっけ」
「え、えー、ああ、聞いたかも。えっ、マジで?」
何度も確かめる俺に雪理は苦笑して、もう一度しがみついてくる。「颯乃」と俺の名前を噛みしめ、俺の肩にこめかみを押し当ててくる。シャワーも浴びたのか、髪や肌は柔らかい匂いがした。
突然すぎる展開に、しばらく俺の頭はついていけなかった。雪理。雪理が胸の中にいる。親父に奪われた俺の幼なじみ。雪瑠のかけがえのない片割れ。何年もこの家に幽閉されていたも同然だった。なのに、今──
不意に雪理は俺と軆に離すと、頼りないもろい微笑を零した。
「颯乃にね、会うだけでもしたくて」
「だけ……え、『だけ』?」
「うん。逃げるのは、いきなりすぎて無理でしょ」
「い、いや。こんなチャンスないだろ。すぐタクシー呼ぶよ」
「いいよっ。颯乃と少しこうできただけで、また、ちゃんとした計画待てる──」
「俺が待てねえって。えーと、タクシーってどうやって呼ぶんだ。あ、これで検索すればいいのか」
スマホを取り出してアプリをいじりながら、俺はひとまず雪理と部屋に入ってドアを閉めた。雪理は俺を見上げて、窪んだ大きな瞳に俺を映している。
部屋に明かりもつけないまま、俺は通話がタクシー会社につながると、早口でここの住所を伝えた。五分で行くという対応にほっとしていると、雪理が何だか哀しそうにうつむいているのに気づく。
「どうした?」
スマホをしまって覗きこむと、雪理は俺を見つめて、「ぎゅって」とささやいた。俺は思わず噴き出してしまった。だがもちろん「そっか」とうなずき、雪理を腕の中に受け入れて壊れないように抱きしめた。すると雪理は俺の背中に腕をまわして、抱きついてくる。
雪理は親父にしか抱きしめられたことがないけど、俺は俺で誰かをこんなに抱きしめたことがない気がする。
「颯乃」
「ん?」
「ふふ、颯乃だ」
その幸せそうな口調に、俺も微笑んでしまいながら、雪理のさらさらの髪を撫でる。
「大好きだよ」
「うん」
「颯乃は?」
「俺も同じ」
「ずっとこうしてたいな」
「んー、でも、タクシー来るからとりあえず雪瑠のとこ行こうぜ。そしたら、いくらでもこうできるし」
「雪瑠もぎゅってしてくれるかな」
「してくれるよ。じゃ、家は出とこう」
「ん」
雪理は、やや名残惜しそうに軆を離した。俺は廊下の様子を窺ってからドアを開けて、雪理を先に階段に向かわせた。暗闇のせいか、足元がおぼつかないのか、雪理は手すりにつかまってゆっくり降りていく。
はらはらしながら一階に降り、念のため一万円札を二枚、家計簿の下の封筒から拝借した。雪瑠が出してくれるとは言っていたけど、降りる場所によっては、雪瑠がすぐ来れるか分からない。
玄関に雪理の靴はないので、靴箱にあった俺のスニーカーを取り出した。雪理には大きかったようだが、小さくないならそれでいい。
俺たちは、子供の頃のように手をつないで家を出た。夜の風に、雪理は目を細める。「大丈夫か」と鍵をかけた俺が訊くと、雪理はうなずいて、ふたりで門扉へと歩き出した。
そのときだった。
どんどんどんっ、とものすごい足音が家の中から聞こえてきた。雪理が一瞬にして硬直し、ドアを振り返った。俺は苦々しい舌打ちをこらえ、構わずつないだ手を引っ張った。
俺もその足音が誰のものかぐらい分かった。やはり、そこまで運良く運ばないだろう。前方に焦った目を向けると、近づいてくるヘッドライトがあって俺と雪理は駆け出した。
頼む。頼むから。
呼んだタクシーであってくれ。
門扉を開けて道路に出る。まばゆいヘッドライトを見やった。近づいてきているのは──タクシーだ。
よしっ、と思った瞬間、蹴破るように玄関のドアが開いた。雪理のひどい戦慄がつないだ手から伝わってくる。
ほぼ同時に、停まったタクシーの後部座席のドアが開いた。タクシーの運転手が、背後に近づいてくる親父にぎょっとしているのが見えた。
雪理をタクシーに押しこんだ。「颯乃」と呼ばれて俺も乗りこもうとしたが、迫った親父に後頭部を強く殴られ、視界がぐにゃりとぐらついてしまった。何とか踏みとどまったけど、せくぐまって車に乗りこもうとすると前のめりに倒れそうになる。
雪理が俺に手を伸ばそうとして、その手を親父がつかもうとした。俺はかろうじてそれを振りはらい、雪理に二万円を握らせ、特急でたどりつくあの駅の名前をささやいた。そのまま前方によろめいたのに合わせて、タクシーのドアをばたんと閉め、雪理と親父を断ち切った。
タクシーの中から、雪理が俺の名前を叫んだ。タクシーの運転手に理解があったのがさいわいだった。すぐに発車してくれて、親父が怒声を発しても、停車せずに闇に消えてしまった。俺が思わず笑いをもらしてしまうと、親父はいきり立った顔でこちらを睨みつけ、骨が砕ける勢いで俺の顔面を殴りはじめた。
俺はあえて無抵抗に殴らせた。気が済むまで殴ればいい。何なら、朝まで俺を殴っておけばいい。そのぶん、雪理はこいつの手中から遠ざかる。
お袋よりも、近所の人のほうが何事かと家に明かりをつけて道路に出てきた。近所づきあいなんかしていないのに、驚いて駆け寄ってきた人が暴れる親父を取り押さえ、俺から引き離してくれた。
親父は俺に「死ねえっ」とわめき散らした。発狂しているようにも見えた。
俺はその場にがくんと崩れ落ち、「息子さんよね?」「何があったの?」と蒼ざめたおばさんと女の人が野次の中からかたわらに来て、家から持ってきたらしい濡らしたタオルを渡してくれる。俺はふたりの質問には何も答えず、ただひんやりしたタオルは受け取って、ずきずきと火照る顔面に当てた。
激しいサイレンが切り裂くように近づいてきていた。
連行された親父は錯乱していて、話にならなかった。お袋は我関せずで何も話さなかった。俺は病院で怪我を手当てしてもらって、それから警察に連れていかれた。「学校にぜんぜん行ってないから怒られました」と言い張った。それだけ繰り返していると、俺の身柄は間もなく自由になった。
無論家には帰らず、あの駅で彷徨うしかなくなっているだろう雪理を探しにいった。
特急で行き着いた駅を、息切れがしてきてもくまなく走りまわった。雪理のすがたはなかなか見つからなかった。
タクシー会社に電話をかけて訊いてみると、あの運転手が話をしたらしく、おとといの夜、確かにこの駅に送ったということだった。警察に行くのをかたくなに断られ、しぶしぶ夜の街に下ろしたらしい。
俺はスマホを持つ腕を下ろし、ネオンが灯っていく街並みを見やった。まさかそんなことはないだろうと思いつつも、雪瑠に電話をかけた。
『あ、颯乃か。どうかした?』
「雪理……」
『え?』
「そこに、雪理……いないよな」
『は?』
「いや、雪理はそこにいるよな!?」
『な、何言ってんの。いたら、こっちから電話してるよ』
俺は夜にかたむいていく人混みの中で茫然として、スマホを取り落としそうになる。
「……そう、だよな」
『何?』
「雪理……」
『どうしたの? 颯乃?』
俺は親父に殴られたときよりずっとくらくらして、そばにあった自販機に寄りかかった。雪瑠の声がしているスマホを、滑り落としそうになったぶんきつく握りしめる。
どうしよう。やっと、この腕の中に雪理を受け止めて、あの家から引き離せたのに。
どうすればいい? 引き離して、見送って、それから雪理の背中を見失ったのなら、もっと、はるかに、最悪ではないか。
そう、そのまま事態は最悪なことになってしまった。
雪理の足取りは、いっさいつかめなくなってしまったのだ。
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