林間学校【2】
“青少年の自然の家”に着いたのは、すっかり青空が目覚めた十二時だった。山の頂上で食べるのかと思っていた昼食の弁当は、施設内のアスレチック広場で食べるということだった。計画の段階では、先生たちは往復三時間弱かかる登山の過程で食べるのも検討したが、それを聞いた途端、悲鳴を上げる生徒たちが予想できたので、弁当はここで済ませることにしたらしい。
アスファルトが蒸し暑いだだっ広い駐車場には、他校の生徒を連れてきたバスが並んでいる。そこで、学年主任が施設に入る前のお約束の忠告──ここは毎年先輩たちがお世話になってきたところなので、後輩たちのために君たちにもぜひお行儀よくしてほしい──を満喫すると、合格してやっと出荷される商品みたいに、俺たちはぞろぞろと施設内に許されていく。
俺たちがひと晩泊まる部屋は二階の八人用で、フローリングの床に、二段ベッドがふたつ頭をむきあわせて両側に並んでいた。奥の窓に面する空間はたたみで、座卓が置かれている。八人用といっても、一年一組の男子は十七人だ。ということは、ひとり罰ゲームのごとく床にふとんを敷いて寝る奴が出るわけだが、それは隣の部屋の話で、こちらの人数はちょうど八人だった。
みんな荷物はたたみに積み上げ、すぐ一階のロビーに弁当一式を連れて戻る。誰もいなければがらんとしているのだろうが、今は他校の生徒もざわめいて、年末のスーパーのようにひどい混雑だ。その中で女子の班と合流し、広場の入口で正式に1-C班と点呼されないと中に入らせてもらえないのだから、面倒臭い。
とはいえ、冬にはスキーもできそうに緩やかな斜面に草原が広がるここに来てまで、班行動はしなくていいそうだ。そんなわけで、女子連中とはとっとと仲違いする。
「明日、ここでレクリエイションだろ」
女子が去れば、元が好きに組んだ班なので、俺たちは一緒に中腹あたりにシートを広げる。遊具はふもとか上に集まっていて、このあたりはただゆっくり広く、草いきれを冷ます風も抜けている。左手に林越しに飯盒炊爨場が覗けた。ふもとには“自然の家”の裏手が面し、上に行けば、全景を俯瞰できるのだろう。弁当を広げた賢司がそうあたりを見まわし、「何かさせられんのかな」と笹原は脇に水筒を備える。
「小学校んときは、大縄跳びとかさせられたよな」
たまご焼きを食べながら渋い声で森本に言われ、ミートボールに箸を刺す俺はちょっと笑ってしおりの情報を言う。
「今回は自由時間って書いてあった」
「そうだっけ。笹原と福井は西小だったんだよな。林間行った?」
「行った。よな」
笹原は福井をむき、福井は口の中のものを飲みこむついでにうなずく。
「川で釣りとかさせられたじゃん」
「あー、そう。したした。そう、それで俺の班なんか、魚が生焼けでさ」
「うわ、最悪」
吐きそうに舌を出した賢司が、今度は臨海学校のことを訊かれ、しばし話題はそのへんの想い出話になる。こういうところに来ると、何だかいつもと話題が変わる。
「ところで、明日自由ってことは、寝てもいいんですかね」
昼寝に打ってつけの包みこむ陽射しが満ちる周囲を見渡した笹原に、みんなそれぞれに噴き出す。
「いいんじゃない。自由だし」
俺がそう言うと、「でも、絶対悪戯させるぜ」と賢司が笑いを噛む。
「お前っていつも寝てるよなー。バスん中でもずっと寝てた。おかげで、俺ヒマだったよ」
森本にじろりとされた笹原は、「だってさ」とサンドイッチを片手にふくれる。
「今日起きたの、五時半だぜ。明日だって六時半だし」
「夜も寝る?」
「当然」
「俺、こういうのでろくに寝れたことないや。で、同じ寝れない奴と怪談とかにいってる」
「そしたらさ、ものすごい寝相の奴とか変な寝言言う奴っているよな」
その福井の言葉に、箸を持つ手をぎくりと痙攣させかける。
「そして、翌朝には不覚のあだ名が」
四人の大笑いに引き攣った感覚で声を合わせつつ、やっぱやばいんだ、と俺は内心改めて固唾を胸騒ぎに植えつける。寝言で妙なことを言ってしまったら。それは、気をはらうこともできない致命傷として、かなり案じた。
おにぎりの腹を箸で裂き、心の奥で陰気なため息をもらしてしまう。いつもこうだ。些細なことがこうして引っかかり、憂鬱な影が気紛れに現れる幽霊みたいに思い返る。そして、食い違う痛みの鮮やかさにやましくなりながら、嘘咲いを押し出す。
そのたび、感覚が乾からびていくのが分かる。だけど、だからといって、気に障った顔を表してどうなる?
食べ終わったら十三時まで昼休みで、そのあと、十三時半に登山に出発する。登る山はけっこう土っぽいので、汚れていい服としてみんな体操服なのだ。もし転んだりして泥だらけになったら、予備の体操服に着替えるのは自由だけど、夜の入浴後の服がなくなる。私服は厳禁ということだ。私服だとほかの学校の生徒と見分けがつかなくなって、問題が多いらしい。今回は班行動を守らないと、記念写真を撮るため先に頂上に着いている先生による点呼の際、集まるまで山をくだらせてもらえない。
登る山は、一応道が通っているということだったが、木を切り倒しただけの原始的な道だった。おばけ屋敷の妖怪の腕みたいに枝が飛び出す一本道を進むので、迷子になることはなさそうだけど、足場はかなり悪い。つまずきそうな石、ごつい木の根、おとといの雨の名残のぬかるみまである。葉が茂って陽は射さないながら、風がないので木や土の匂いが蒸していた。
「嘘、やだっ。この靴買ったばっかりなのにっ」
そして、こういうときの文句は女のほうがうるさい。虫が飛んできては悲鳴を上げ、木の枝が肌に触れてはかぶれないか気にし、友人の班が通りかかればにっこり挨拶を交わす。
おろしたての靴に泥が跳ねたりなんかすれば、大変だ。「買ったばっかなんか履いてくるからだろ」と耐えかねてそう言った森本みたいに、教師の味方なんてする気はないのに、男がそうたしなめることになる。
「このために買ったんだから、今履かなくてどうするのよ」
「じゃあ汚れていいじゃん」
「いっそのこと、豚みたいに進んで突っ込めば」
「豚!?」
「ほれ」と笹原が長い脚で泥を蹴り、貝塚というその女子は猫のように飛びのいて虎のように笹原を睨む。
「もうっ。履き替える靴もないのに」
「ほんと。最っ低」
「大丈夫? つかなかった?」
女特有の異様な連帯に笹原と森本はあきれた目を交わし、その脇で俺たちは苦笑いを噛む。
「もう最悪。何でこんなのと同じ班なの」
「こいつって、小学校のときからこうなんだよね」
笹原は舌を出して賢司の隣に並び、「あいつだって小学校のときからああなんだよね」と声色を真似て言う。賢司は笑って振り返り、「山降りたら洗えばいいじゃん」と無造作にリュックの肩紐をかけなおす。
「先生がさせてくれるわけないでしょ。キャンプファイアのとき、また履かなきゃいけないのに」
「そんな、びしょ濡れになるほど洗えとは言ってないけど」
「ほっといてよ」
賢司はこちらに向き直り、「ほっとこう」と言った。俺たちは笑いながらうなずくと、まだぶつぶつ言う彼女たちは無下にして、取りとめのない話を再開する。
こういうとき、自分はやっぱり男だと思う。女の子たちのリズムが不可解で、こちらの感覚のほうが理解できる。同性の賢司に今もちょっと肌を警戒させていて、いよいよ自分はゲイなのではないかとめまいがする。
でも、感覚にも言葉にも女っぽいものはぜんぜん出ない。つってもゲイって女っぽいとかいうよな、と自分の軆に起こる事実と、テレビや新聞での生噛りが錯綜して、だんだん自分が何なのか分からなくなってくる。
こんなことなら、例えゲイだろうと、どちらかはっきりしているほうがマシだ。意思、感情、反応、すべてが噛み合わなくてばらばらだ。俺はストレートでいたい。でも賢司にどきどきする。とはいえ聞くところによるゲイっぽくない。
何だというのだ。自分のしっぽを追いかける間抜けな犬のようだ。空まわりするちぐはぐな精神性に、自分をまとまった存在として感じられなくなってくる。
しかし、自分のしっぽに咬みついてしまうのもつらいだろうか。女みたいなものが自分に流れていて、確かに自分はゲイなのだと観念する。いったいどちらがマシなのだろう。樹海を彷徨い続けるのと、越えられそうにない壁に行き当たるのと──
「柊っ」
突然はじかれた鼓膜にはっとしたのと同時に、腕を汗ばんだ体温に強くつかまれた。一瞬引いた血に心臓が断崖に堕ち、一気に頬を染めながら左を向くと、賢司がほっと息をついている。
「あ……、」
「そこ、溝があるっていったのに。聞けよ」
「へ」とほうけた声で足元を見ると、むきだしになった岩が手荒にひびわれていた。隙間には心細く水も流れていて、「どっかに川があるんだな」と岩の向こうの福井が上を見やる。
「ったく。気をつけろよ」
「ご、ごめん」
賢司は手を離すと、鹿みたいに身軽に岩を飛びこえた。必然的に続くのは俺だけど、すくむ膝に躊躇ってしまう。転びそうになった恥ずかしさや、賢司に触られた緊張がぐちゃぐちゃに窒息し、頭から全身が真っ白に発火していた。膝なんか動かせば、騒ぐ心臓に合わせて震えそうだし、流れる水で岩は湿ってさえいる。「塩沢」と背中を江崎という同じ小学校出身の女子に突かれ、何だか泣きそうに踏み出しかけると、賢司が手をさしだしてきた。
「ほら」
熱に湿りかけた目で賢司を見る。賢司は悪戯ににやりとした。
「相変わらずお水が怖いのね」
彼なりの気遣いに、むっとした顔で応えることはかろうじてできた。本当は、そんなのは心臓が爆発しそうで嫌だった。けれど、捨て鉢な手つきで賢司の手を取り、俺は溝に踏みだす。やっぱり膝が腑抜けて均衡を崩しそうになったけど、賢司がぐっと手をつかんでくれて、何とか越えられた。彼の手の感触が食いこんだ手を自分から離すと、「ありがと」と泣き面をふくれ面に繕って、賢司に鼻で咲われる。
「水が怖いって」
続いてくる女子を横目に森本がにやにやとし、「昔、こいつ水恐怖症で泳げなかったんだぜ」と賢司はいらないことを暴露する。まあ、それでみんなの目が男同士で手をつないだことに向けられないのならいいか。
しかし、賢司は手をつかんで俺の奇妙に高い体温を変に思わなかっただろうか。確かめたくても、万一訝る白眼が来たらと盗視も怖い。タバスコみたいになっているだろう熱い顔も、どうせ上げられない。
女子がみんなこちらに来ると、賢司にとんと肩を押される。「ほんとごめん」と上げられない顔に上目遣いでながら、今度は素直に小さな声で言う。賢司は応えて穏やかに微笑むと、歩き出すみんなを顎でしめす。賢司の隣でみんなに続きつつ、本音では今すぐ首でもくくって何も分からなくなりたかった。
また勝手に鼓動が木々のようにざわめき、関節が溶けそうに痺れている。微笑まれたぐらいでこうだ。これからどんな瑣末なことで過剰反応するようになるのだろう。死ぬ勇気がなければ、引きこもりにでもなりたい。
賢司に接するのが怖い。賢司に接しているところに誰かいるのも怖い。こんなざまではきっといつか誰か感づく。そしてすべて失うのだから、いっそ初めから全部切り捨てておきたい。この言うことをきかない軆は、連続殺人鬼みたいに、死ぬか閉じこめられるかしないと本能に走るばかりなのだ。
もっと普通にしなきゃ、とリュックの肩紐を握り、ほてった頭を無理にもたげる。転ばないように、考えごとはしないで、適当に話に混ざり、ぼやきつつも楽しんで──そうだ、結局自殺どころか引きこもりもできない。健康なのか憶病なのか、どんな神経がそんなことに走らせるのか、まったく分からない。しょせん、日常生活にいつづけるのだろう。だったら、不自然にはみださないよう、普通にしていなくてはならない。
変わったことはしてはいけない。いつもどおりでいなくてはならない。そうしないと、この間違ったものがばれる。ばれたら、俺の人生は終わりだ。だから、もっと、外側と内側を絶ち切り、心に何が起きても軆には出ないようにしなくてはならない。
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