非常階段-13

林間学校【4】

 快晴の陽射しが、腫れぼったい目にずきずきする。頭の弛緩に鈍痛が響き、病気の犬みたいに唸りながら膝に顔を埋める。眠たい。眠たすぎる。視界も意識も、流砂に引きこまれているみたいだ。でも、その割りに眼球にまぶたがしっくり来なくて、気に障る違和感に神経が安心できない。
 林間学校の二日目だった。七時の朝食を終えると、例のアスレチック広場で自由時間になる。
 二時間のうち、前半の一時間は、教師命令の遊びをさせられるはずだったそうだが、じゃんけんに負けた実行委員たちが健闘してくれたらしい。二時間まるごと勝手にやっていいそうだ。先生たちはそのへんでくつろぎ、生徒たちは放し飼いの犬のごとく走ったり、昼寝の猫のごとく集まったりしている。
 他校の生徒ももちろんいるので、あたりは余計に騒がしかった。陽だまりをはらんだ暖かい風に、緑に息づく草の匂いが乗る。俺は中腹の隅にぐったり座りこんでいた。はたから見たらハブにされているようだろうが、体調がひどすぎるだけだ。
 昨日は結局、ひとかけらも眠れなかった。当然、怪談に興じていたわけではない。怪談は聞いたけれど、聞きながら聞いている自分にぱさつきを覚えて、単に疲れた。
 そもそも、興奮に目が冴えていたわけでもない。本当はめまいがぐらつくほど眠くてしようがなかった。でも、眠ってから寝首を取られるように起こるかもしれない命取りが怖くて、安心して眠ることができなかった。
 これから歩いていく道に、どろどろの油を引っくりかえされるのはごめんだ。この変なのがばれるのは、それに等しいと思う。何かにつけては転び、笑われ、疎まれ、汚いと唾を飛ばされる。受け入れられるはずがない。絶対にばれるわけにはいかない。ばれたら天罰より確実にやってくるさまざまな攻撃に、自分が耐えられるとは思えない。怯えて偽って無理をして──引き換えに、使いすぎた機械のようにひびわれていく感性は痛感している。
 雑談に飽きて、起きていた人間は二時過ぎにみんなベッドに入った。それでも、空中を介した会話は断続した。三時か四時頃に静かになったものの、ついに眠れなかったのは俺ひとりでもなかったと思う。たぶん。
 この時期、夜ならまだ涼しく、冷房がついていなくても肌はそんなべたついていなかった。おろしたてのシャツのように糊がきいたシーツで、うっすら蒼さが溶けていく闇を見つめていた。頭痛の上に、少し胃痛を感じる。
 眠たい。眠ってしまいたい。でも、この気持ちが賢司にとって大迷惑なのは分かりきってしまった。
 鳥の声が聞こえ、隣の部屋で物音がしはじめ、この部屋の中でもあくびしたり背伸びしたりしながら寝ていた人間が起き出してくる。そして、朝陽がカーテンを通して部屋を映しはじめた頃、堀川が起床を知らせにやってきた。
 顔を洗っても歯を磨いても食事をとっても、覚醒に切り替わらない。洗顔時の鏡の中に見た隈は、まるで殴られたかのようだった。「保健医一緒に来てるはずだぜ」と賢司も言ったほどで、しかし俺は首を振って目につかないようただ顔を伏せがちにしていた。頭が痛い。胃も痛い。関節が重苦しい。そんなわけで、広場に来ると、自由の時間ならとみんなの邪魔もしたくなくてこうしてひとりで座っている。
「塩沢」
 不意にかかった声に鈍く頭をあげると、ちょうど顔が陰って、誰かが正面に中腰になった。かすむ目をこすってまばたきをすると、覗きこんできていたのはジャージすがたの堀川だった。
「どうしたんだ」
「え」
「寺岡たちは」
「え……と。どっか行ってます」
「お前は混じらないのか」
「何か具合悪くて」
「……そっか。昨日から言ってたもんな。眠れなかったのか」
「まあ」
「きついなら中で休んでてもいいぞ」
 思わず揺れる。それは、誰もいないところでだろう。眠すぎて、まともに外界を感受できない。肢体まで飲みこまれている感じがする。いっそ熟睡につき、このもつれる糸のような考えごとも解放されたかった。でも──
「ここにいるって、賢司たちに言ってあるんで」
「先生が言っておいてもいい。ひどい顔色だぞ」
 そうなのか、とつい恥ずかしさの紅潮にうつむいたとき、「先生!」と威勢のいい聞き憶えのある声がした。まばゆさを忌みながら首を捻じると、草原を駆けおりてきているのは賢司だ。緊張に肩をこわばらせた俺には気づかず、「何だ」と堀川はかがめていた腰を伸ばす。
「いや、柊、どうかしたんですか」
「中で休んだらどうだっていってたんだよ」
「あー。俺も言ってんですけどね」
「そんなひどくないよ」
「ひどい顔してんの」
「まあ、無理にとは言わないけどな。無理はせずに、ほんとにつらかったら言うんだぞ。悪いことじゃないんだからな」
 おとなしくうなずくと、堀川は生徒の見まわりなのか、上に行った。鬼ごっこでもしているような生徒たちにその背中が紛れると、賢司は何やらほっと息をついて、俺の隣に腰をおろす。
「みんなは」
「草ぞりの貸し出しが始まってハマってる。で、俺が代表で様子見に」
「気にしなくていいのに」
「林間来るよな、ってやんわり脅しかけてたのは俺だし。これ飲まない?」
 賢司は身を捻じり、スウェットのポケットから水滴の浮かんだ缶を取り出す。
「それ──」
「上に自販機あってさ。買ってきた」
「え、だって金は」
「ちょっと持ってきてた。で、いきなり堀川いるし。ポケットに入ってよかったよ。いらない?」
「買われてきたのに断れないよ」
 賢司が笑ってさしだしたのはオレンジジュースで、受け取ると手のひらがひやりと濡れた。これには、走ってきた賢司の汗も混じっているのだろうか。そんなのを思い、墓穴にまた息苦しくなってしまう。
 寝起きに似て力がこもらない指で不器用にプルリングを抜くと、ひと口喉に通す。すっきりした酸っぱさが冷たく軆に染みこんだけど、どうもまぶたは重く疲労している。
 賢司は草原に筋肉の陰影が現れかけた脚を放り出し、俺はその小麦色から、傷む目とほてる心を背けた。じっと柑橘の香りに視線を落としていると、「柊」と首をかたむけた賢司に覗きこまれ、びくりとその汗がかすめる匂いに心臓のまま肩を打つ。
 賢司は俺を見つめると、身を引いてゆっくり沈むようなため息をついた。
「あのさ」
「ん」
「怒らない?」
「ん、うん」
「柊ってさ、最近、変じゃない?」
 ぎくっと血の気が色褪せ、「何ていうか」と賢司は色違いを継ぎ足すようなつたなさで言葉を吐き出す。
「その──何だったら、はっきり言ってもいいんだぜ」
「え……」
「その、つまり、俺のこと、鬱陶しいって」
 思いがけない継ぎ足しに、思わずきょとんと賢司を向いていた。彼は青っぽい匂いの草にうつむき、自殺でも考えているように思いつめている。
「何で……」
「だって近づいたらよけるしさ。目も合わせないし。そんなふうに体調崩してるし」
「これに賢司は関係ないよ」
「森本が言ってた。俺が来てからの柊って、何か違うって。小学校のときはもっと悪ガキみたいだったって」
「そ、そんな、だって、いつまでも悪ガキでいたって」
 賢司は本当に泣きそうな目を俺に向け、俺は反射的に声を失くして口ごもる。何を言えばいいのか、どうしたらいいのか、苦し紛れにジュースを飲む所作で間合いを埋める。
「俺たち、友達だよな」
「あ、ああ」
「じゃあ、言ってくれない?」
「え」
「聞くから。柊が何かに悩んでるのは言い切れる。俺じゃないなら、何? 好きな奴がいるわけではないんだろ。学校には友達いるし、家だってこないだ行って普通だった。何にそんなに悩んでるのか、俺、ぜんぜん分かんないんだ」
 何にそんなに悩んでいるのか──球体のようにどこをどう見てもそうである事実に、俺は立ちすくむようなショックを覚える。そうだ。俺はじゅうぶん満たされた環境にいる。
 なのに、どうしてこんなに路地裏の苔みたいに陰気臭いのだろう。恋はまだ知らない。友人はたくさんいる。家庭だって凡庸ながら平穏だ。なぜこんな良好な環境で、ホモなんてものが発芽するのだ。不安はいくらでも見つかる。理由はいつまでも見つからない。
 やはり、これは何かに影響されて作られるものでなく、初めから存在の一部として備わっているのか。だとしたら、その“一部”はどう呼ばれるべきなのだろう。
 障害か? 異常か? 病気か? “何でもない”って、それが“俺”だって──どうしてちっとも思えないのだろう。

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