非常階段-14

林間学校【5】

「俺には言えないことなのか」
 はっと賢司を向く。賢司は眉を切迫させ、息を殺している。言えない。言えるわけがない。ただ男に惹かれるというのならまだしも、俺は賢司に惹かれているのだ。
 賢司は俺を嫌いになるに違いない。気持ち悪くて避けるようになるに違いない。軽蔑して同じ人間とは思えなくなるに違いない。
 だけど、賢司がこちらに顔を上げ、その瞳の銅のような重たさに瞳が触れた途端、俺の唇はこぼしていた。
「俺……」
 賢司がつぼみのようにわずかに瞳をひらく。俺は目線を草の合間にさげて、硬くさせる。
「……お、俺……さ、その、何というか」
「うん」
「おどろ、かない?」
「うん」
「軽蔑しない?」
「うん」
「………、俺──」
 気まずい電話をかけようとして最後のボタンが押せないみたいに、最後の言葉が声に羽化できず喉につっかえる。とどこおる言葉に息も詰まり、うるさい心臓ががんがんと頭痛を打ちのめす。にぎやかな笑い声をかけはなれて、沈黙がはりつめる。言葉が喉ではちきれそうにふくれあがり、ついに亀裂が入りかけたときだった。
「……柊、」
 硬直する俺に賢司がそう細い声をかけ、瞬間、腫れあがっていた言葉が日暮れの朝顔のようにしおれた。糸が切れ、何かが宙ぶらりんになり、うなだれて香ったオレンジジュースに、夢が冷めたように気の抜けたため息がもれる。
「……ごめん」
「えっ」
「ごめん。賢司は悪くないんだ。ほんとに悪くないんだ。気にしなくていいよ」
「柊──」
「ほんとに何でもない。ていうか、今、何かいろいろ考えてはいる。すぐ片づく。心配されるほどのことじゃないよ」
 賢司が暗い顔でうつむきかけ、「ほんとに」と俺は急いで言葉をつなげる。
「賢司が頼りないとかじゃないんだ。このぐらいの悩み、ひとりで解決できなきゃ俺が情けないよ」
 賢司は俺に視線を取り留め、一度草を見つめていたものの、「そっか」とうなずいてこちらに微笑んだ。
「じゃあ、もし片づかなくて頼りたくなったら言えよ。いつでも聞くから」
「うん」
「俺はいつも柊の味方だから」
 俺も微笑んでうなずき、その裏ではひりひりと喉を焦がしていた。言えそうだったのに。そんな後悔もちらついても、いや、言わなくてよかったのだ。こんなのは、俺がひとりで悩んでおけばいい。賢司も巻きこむ必要はない。
 そうだ、こんなのを知れば、賢司だって悩むようになる。いつも柊の味方。そう言ってもらえただけで、じゅうぶんではないか。
 こんな気持ちは、ただの貪欲だ。俺は存分に賢司に想われている。これ以上欲しがるのは欲張りだ。変なかたちにまで成長した高望みは、ちょうどよく切り落とし、鉢に品よくおさめる。それは賢司のためでもある。
 力いっぱいの笛が風をつんざき、賢司と顔を合わせた。腕時計を見ると、十時が近い。次は飯盒炊爨だ。生徒たちが面倒そうな足取りで降りてくる。
「大丈夫か」と立ち上がりながら気にした賢司に俺はうなずき、缶はどうしようもなくて脇の花壇に放置する。そして柔らかな草に手をつくと、目に刺さる陽射しの中に立ち上がった。
 小学校のときもそうだったけど、飯盒炊爨でこしらえるものはやっぱりカレーだ。班の中で役割分担し、野菜を切ったり、薪を運んできたり、米を炊いたりする。できあがった班からそれが昼食で、食べ終わって片づけも済めば、十二時半まで自由時間だ。逆に、手間取った班は十二時半までにかっこむハメになる。そうして、三十分で荷物をまとめて点呼を受けると、十三時には全員バスに乗りこんで、学校に帰る約五時間の道のりに入る。
 席は帰りと同じで、俺は今回も窓際を譲ってもらってシートにぐったりした。眠気は通り越し、乾からびた脳がずきずき重苦しい。眼つきはきっと悪酔いでもしたかのようにぼんやりしている。
 軆がくらくらしているわりに、賢司に心配そうに覗きこまれると、それどころでなく血管が痺れにほてった。ちぐはぐな統覚に、気紛れな風に投げこまれた凧みたいに心身を翻弄され、もうやだ、と俺は毛布を頭まですっぽりかぶってしまいたい気分だった。
 だんだんひどくなっている。心臓も発熱も、頭痛も虚脱も、考え事も物思いも。嘘だって演技だって、この林間学校でだいぶ進行した。何もかも後ろめたい。
 初めて“自分に閉じこもる”という感じが分かりかけている。どうしてこうなのだろう。いったい何をどうすればこんなことにはならなかったのだろう。何かすればよかったのなら、しておけばよかった。何かすればいいのなら、何だってしよう。左腕に賢司の素肌が触れそうで、そこから甘い麻酔がかかっていく感じを覚えたり、狼狽える頭が白熱に捕らわれたりしないようになるのなら。
 これ以上、賢司を不安にさせたくない。こんなのでは、いずれにしろ賢司を失う。嫌われていると思いこんで賢司が俺を離れたら。それも──また、いいかもしれなくても、どうせ観念論だ。
 賢司を失くせば、俺はいよいよ罠にハマり、この本能を憎むようになる。これのせいで賢司を失くした。本能をかきけすため、血迷って自分自身もろとも刃にかける。
 賢司のために、こんなのは殺したい。仮に俺がゲイで、賢司を愛しているのだとする。だとしたら、一刻も早くこんな気持ちはへし折るのが何にも勝る愛情表現だ。彼には女の子もいる。こんなのは、同性間でなくたって最低の問題だ。恋人のいる人間に惹かれる。頭では分かっているのに、何でばらついた集中は賢司にばかり流れるのだろう。
 旅行の用意みたいに、重なれば重なるほど抑えつけられなくなり、むしろ彼を失う。この認識が聞こえないのだろうか。勝手な本能に振りまわされ、最後に立ち尽くすのは俺の感情でもある。
 視線を感じて左を向くと、賢司が気がかりそうに俺を見ていた。ちょっとだけ咲うと、賢司も咲い返し、「気分悪ければ言えよな」と言ってくれる。行きですっかり賢司と打ち解けていた補助席の六組の奴が、「病気?」と首をかたむけ、賢司はそちらを向いて俺のことはそっとしておく。
 本気で狂ってきた体調に、本当は車のこもったようなにおいで吐き気に誘われていた。冷房がきいてきた車内には、雑談やお菓子を食べる音がざわめき、まだ映画なりカラオケなりは始まっていない。肺を丁重にあつかって息を吐くと、ワイン色の天井に、調律されない目を泳がせる。
 賢司を失くしたくない。傷つけたくもない。この綱渡りみたいな危なっかしく揺れる気持ちが何なのかはよく分からなくても、その意志が本物なのは分かる。彼が親友であることに変わりはない。
 だから、その揺るぎない事実に見合わないこんな気持ちは抹殺してやる。おかしな本能もろとも断ち切って、接続しなおし、いつか女の子にこんなふうになってみせる。今はまだ演技で抑えることしかできないけど──
 窓に透ける賢司に目を移してそう誓うと、腫れあがって瞳をからからに傷ますまぶたを少しおろし、バスの振動に身を任せた。

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