Koromo Tsukinoha Novels
音夜はラストまで店にいて、ママの誘いを断って、あたしを「ふたりっきりのアフター」に連れ出した。その先は居酒屋でもファミレスでもない。何度も来たことのある、店から近所だけど、電車の高架下でうるさくて家賃が格安だという音夜のアパートの一室だ。
もちろん、午前三時に電車の轟音など走っていないから、隣に声は筒抜けだ。喘ぎ声はごまかせない。
「わっ、すごい紙……」
音夜の部屋の床は、暗闇でも分かるほど紙に埋もれている。
音夜は、アナログの物書きだ。だから、へらへらした奴のくせに、初めて軆を見たときは筋肉質で驚いた。腱鞘炎にならないはずだ。もしかしたら、それほど書いていないだけかもしれないけど。
「踏むなよ。ネタのメモもあるから」
「いい加減、作業デジタル化しなよ」
「んなもん、データ飛んだら死ぬだろ」
言いながら、音夜は明かりをつけた。冷えた髪をはらって改めて部屋を見たあたしは、目に入ったものに、思わずびくっと固まる。
「えっ、ちょっ……」
「あー、やべ、勃ってきた」
「お、音夜さん、誰かいるんだけど」
あたしが柄にもなく身を寄せてきたから、音夜はそれにはおかしそうに噴き出したけど、真正面の窓辺で膝を抱えている男にはそっけなく肩をすくめる。
「あいつはダチ。気にしなくていいから」
「いや、気にしないって」
男は長い前髪越しに床を見つめて、一応、起きている。けれど──
「ほっとけって。こっち来いよ」
音夜はあたしの手をつかんで引っ張り、あたしは前のめりになりながら、ピンヒールを脱いだ。
奥に連れこまれながら男を振り返る。男もこちらに一瞥くれた。その瞳の生気のなさに、つい目が迷う。
ふすまを開けた音夜に「凪子」と呼ばれて、あたしはとまどいを残すまま、マットレスで面積が埋まる寝室に踏みこむ。
「ひゃー、もう冬だな。十一月終わるもんなあ」
言いながら音夜は上着は脱ぎ、あたしもコートとバッグを部屋の隅に投げながらつぶやく。
「……あの人、すごい目してたね」
「あ? あいつがお前に気を持つことはないぜ」
「そういうのじゃなくて、その……。……何でも」
「何だよ」
「何でもないよ」
あたしはそっぽをして、自前のマーメイドドレスの裾を気にしながらマットレスに座りこんだ。音夜も腰をおろしたけど、なぜか、押し倒さずにこちらを眺めてくる。
……やばい。また何かネタにされる。
音夜はいつも、書いて初めて、こう見ていたということを相手に明かす。こちらにそういうつもりがなくても、自分にはこう見えていたと。
あたしは息をついて、音夜に向き合った。
「しないの?」
「あいつはやめとけ」
「は?」
「お前は、俺を見とけばいいんだ」
「……見てるよ、じゃなきゃ部屋になんか──」
「凪沙」
あたしは肩をこわばらせた。音夜は意地悪に笑った。
「愛してるよ、凪沙」
「……やめて」
「凪沙を突き落とすのは俺だ」
「やめて」
「凪沙が俺に惚れて、金目当てに野郎のもんをしゃぶったりできなくなるんだ」
「やめてよっ、本名嫌いなの知ってるでしょっ」
「知ってるよ。ヒモの上によそに女がいる父親も、そんな旦那のためにいまだにデリヘルやってる母親も、殺したいぐらいに──」
あたしは、音夜を引っぱたこうとした。けれど、あっさり抑えこまれて、そのまま抱きしめられる。何だかそれにいらいらがこみあげて、もがいたけど、相変わらず硬い筋肉の胸と腕からは逃げられない。
音夜はあたしのうなじに顔を埋め、頭を優しくさすってきた。
「凪子はかわいいなあ」
あたしは、少し息が荒くなっている自分に気づいた。唇を噛み、仕方なくぎゅっと音夜にしがみつく。
正直、音夜と寝るのは嫌いじゃない。彼女、妻、あるいは娘がいる男よりは──。
音夜はわずかに軆を離して、あたしを覗きこんで唇に軽く唇を重ねた。
「音夜さ──」
「俺、Sじゃないのにな。今のプレイは勃起した」
「……もうしてたでしょ」
「好きな子をイジメるのは永遠のプレイだな」
音夜はあたしの腕を引いて、仰向けに倒れた。あたしは音夜にまたがって軆を重ねる。勃起が本当なのは、太腿の感触で分かった。
「凪子、手貸して」
「え」
「手」
あたしは眉を寄せながら、音夜の脇腹に置いていた右手をさしだした。音夜はそれをつかみ、「あったまってる」と指を恋人つなぎに絡める。
「え……」
「さっき、すげえ手が冷たかったから」
「………、……ふとんかぶりたい」
「ん。俺も」
音夜はもう一方の手で、そのへんに敷きっぱなしの冬のぶあついふとんをたぐりよせた。あたしたちは身をよじって、そのふとんを頭までかぶる。
音夜が軆をかたむけ、あたしはマットレスに横たわった。脚が絡まって、勃起のかたちが腰に押しつけられる。近い吐息が熱くて、ふとんの中はすぐにほてってきた。
「凪子……」
「……ん」
「俺と気持ちいいこと、する?」
甘えた声で言って、音夜はあたしの口元に唇と舌を這わせて、ぎゅっと抱きしめてくる。この男は、こういうとき、女をたまらないほど愛おしくさせるのがうまい。あたしが素直にこくんとすると、音夜はあたしの首に指をすべらせて、ホルターネックをほどいた。
あふれた乳房を吸いながら、恋人つなぎはそのまま、音夜はマーメイドドレスの裾をたくし上げて、ショーツの湿り気を確かめた。触れてほしい場所には触れない。あたしは乳首から小さく痙攣しつつも、その焦れったさに泣きそうになって目をつぶる。
その場所が求めて、切ないほど疼いて、余計に脚のあいだは濡れてくる。あたしがむずがるように何度も腰をひねっても、音夜の指は何も与えずに内腿を撫でる。
ああ、ちきしょう。何がSじゃないだ。自称ドSでも、そこはよく分かっていて、逆にかきみだすように刺激してくるのに。
「腰、動いてるぜ」
音夜は飄々とそんなことを言って、一瞬、そこに触れるような、触れずに空を切るような、意地の悪い指をちらつかせる。膣が耐えがたさに引き攣って、そのたび熱く熟れて、愛液が滲む。
稀に昼間にこういうことをするときは、電車の轟音があるから高い声も上がってしまう。でも、たいていこの時間帯だから、いつも我慢してしまう。ただ、息が荒くなり、鼓動が速くなって、伏せた睫毛が涙で震える。
もう嫌だ。欲しい。早く欲しい。
ぐちゃぐちゃに動いて、軆の中を引っかきまわしてほしい。とっととめちゃくちゃにしてよ。何も分からなくなるなるほど、この男に突っ込まれたい。
言えばいいわけ? 口にすればやってくれる? だったら──
そう思って、まぶたを押し上げるのに、出逢った瞳が優しくて、びっくりして言葉すらちぎられてしまう。音夜はあたしのぱっくりした瞳が涙を流すのを穏やかに見つめたあと、やっとジーンズのファスナーをおろしてボクサーをずらした。
「いい?」
音夜は、あらわにしたものをあたしの入口にあてがった。あたしは何度もうなずいた。
硬い軆が、柔らかい軆に密着する。つらぬかれる安堵と期待に、あたしの核はさらに甘く痺れる。そして蕩けあうように、音夜はあたしを犯した。
奥まで届いたとき、思わずもれた自分の声がみだらすぎて、反応してしまったように膣がきゅっと締まる。でも、まるで口をふさがれて息ができないように、音夜が太く突き刺さっているから、それが処女みたいに痛い。
構わず音夜が動き出して、その腰がふくらむ核に低音のように響く。痛みなどすぐに溶けて、あたしの声は快感にとがって堰を切ってしまう。
ああ、この声、隣に聞こえてるかな。どこまで聞こえちゃってるかな。この声で抜く人もいるかな。
もうどうでもいいや。おかずにするならすればいい。我慢できない、気持ちいい、すごくいい、もっと、あたしをぐちゃぐちゃに気持ちよく──……
終わって、初めて、隣ほんとにいるじゃん、と思い出した。
隣というか、同じ部屋のふすま越しにあの男がいる。あたしを腕に抱くままうとうとして、何かむにゃむにゃ言ったかと思うと、寝てしまった音夜に、やっといらっとした。
別に、あの男を気にするつもりなんかなかった。ちゃんとやらせるつもりだった。わざわざ、あんな、焦らした甘さなんかいらなかったのに──
「……死にたい」
つぶやいても、音夜は本気で寝ていて反応しない。
あたしは緩んだ音夜の腕から逃れると、腰にまとわりつくままのマーメイドドレスを、いい加減に着直した。うなじの蝶結びは適当、皺もそのまま、スリットの位置もきわどい。
酒の名残も、ふたりぶんの体温も、薄れて寒くなってくる。さすがにエアコンは買えよ、とため息をついてコートも羽織ると、あたしはバッグを手にして寝室を出た。
男は、酔った勢いの幻覚ではなかった。窓辺でカーテンに背を向けて膝を抱え、うつむいている。起きてはいるけど、あれから一ミリも動いた様子はない。明かりもついたままだ。
あたしは内腿に放たれた射精が乾いていくのを感じながら、ふらふらとその男の前にしゃがみこんだ。
思ったより、若かった。あたしと同じか、もしかしたら下か。何だかんだ言っても、さすがに目元には小皺がある三十路前の音夜とタメではなさそうだ。
なめらかな肌をしている。すごく華奢で、喉には蒼い血管が走り、脈打っているのが浮き出ている。目には、どう見ても生きている潤いがない。でも、ぴくりと動いてあたしを映すと、小さく唇が開いた。
「……何?」
酒にも煙草にも穢れていない、透明な声だった。少年の高い声ではないのだけど、何だか、天使のような──天使になったような、虚ろで、もう魂を失った声だ。
「聞こえてた?」
彼は目線を脇から床へと泳がせる。
「まあね」
「そっか」
あたしも紙だらけの床を見た。右側は文章なのに、左側は変な落書きだらけの原稿用紙が落ちている。
「何かさ、バカだよね」
「え……」
「死にたくなる。ほんとに、……頭落ち着くと、嫌になるの」
「………」
「もう……死にたいな。何で、生きてんのかな……」
「………、」
「ここまでして、生きなきゃいけないのかな……」
彼は、何も言わずにうつむいた。
あたしはしばらく泣きそうだったけど、ふと、わけの分からない自分に気づいて嗤ってしまった。何を、見知らぬ男相手に、カウンセリングもどきを始めているのだ。アドバイスどころか、意見も薬ももらえないのに。
そうだ、薬だ。薬を飲まないと。薬を飲んで、麻痺して、平然と生きないと。
何で生きなきゃいけないかは分からない。でも、死ぬのは痛くて面倒だ。楽を取って、あたしはぽっくり逝くまで生きていく。痛みをかき消すほど薬を飲んで、生きていく。
「音夜さんが起きる前に帰るね」
彼はうつむくままだったけど、小さくうなずいた。あたしは立ち上がって、玄関でピンヒールに足をさしこむ。
「あたし、凪子っていうんだけど」
足の具合を整えながら、振り向きもしないで訊いてみる。
「君は?」
沈黙だった。まあ、いいけれど。
あたしはドアを開け、隙間から出ていこうとして──そのとき、彼はぽつりと答えた。
「……僕は、信野」
「ふうん」とだけ言うと、あたしは、まだ日の出前の、一番暗く冷えこむ外へと出ていった。
【第三話へ】