Koromo Tsukinoha Novels
わけもなく、急に、怖くなるときがある。
何がこんなに怖いの?
分からない、でも恐怖がひどい騒音のように頭で暴れている。むっと押し寄せた吐き気にえずいて、あたしは目を開いた。
眼球が空気に触れる痛みにしばたきながら、ベッドを転がり落ちる。
やばい。変なの来た。ムカつく。いらいらしすぎて、死ぬほど怖い。
あたしは無意識につくえまで這いずり、椅子を伝って立ち上がろうとした。でも、回転椅子だから、体重をかけすぎるとくるりと裏返って、むしろ転んでしまう。
「くそっ! 何だよっ……」
無駄に毒づいて、今度はつくえの角をつかんで、何とか立ち上がる。
指や爪先が、ぼやけて感覚がない。唇も膝も不安定におののいている。息が苦しい。心臓が生々しく吐血している。
太陽に透けた手のひらのように、意識が赤い。目は泳ぐどころか溺れて、白い視界がはっきりしない。その白さに、黒い線がぶれて入って、焦点が定まらない。
一瞬、細い脚が、足早にいつもの玄関に向かうのが見えた。
途端、虫が群がるような嫌悪が起きた。わっと無重力に頭がぐらつき、あたしは唇を噛みしめて踏ん張る。
そして、がくがくと震える手を薬に伸ばそうと──
『おかあさん』
はっと振り返った。
『おかあさん、まって』
え?
『またおでかけなの』
何、やだ──
『なぎさ、いやだよ』
もうお願い、
『おかあさんがおでかけしたら、
「や……めっ、」
『おとうさん、しらないおんなのひとつれてきて──
「『うるさい黙れ‼』」
自分の絶叫と脳内再生が重なり、おぞましい虫唾があたしを一気に引き裂いた。引き裂かれて、荒い息遣いが残って、それ以外は静かだった。
今日も星空のカーテンが白昼の空を拒絶している。ぶあついフリーツのルームウエアを着こんでいるのに寒い。
吐き気といらいらは、くすぶって絡まって、悪臭のように立ちこめている。ぞっとした名残が、皮膚をざらざらに粟立てる。
不意に、小さなノックが聞こえた。金髪を振り乱すあたしは、のろのろと髪の隙間から板張りのドアを見た。薄暗い視界は、眼鏡がなくてぼやけていても、ぶれてはいない。
「凪沙ちゃん──」
「……うっせえ消えろっ」
「っ……」
「失せろ!」
「……もう許し……」
「あたしに近づくな、病気が感染るっ! 気色悪いだろ、消え──っ‼」
ばたんっ! と悪意をこめて強くドアを閉める音がした。あたしはびくんと口ごもり、でもすぐ、その弱さが情けなく耐えがたくなり、苦く眉を寄せる。
ノックの主も、ぱた、ぱた、とのろまな足取りで遠ざかっていった。たぎっていた脅威が、初冬の室温まで冷めると、あたしは虚ろになった目でつくえを見て、散らかる薬の個装の銀色に睫毛を狭めた。
「……夢……かな」
あたしは椅子を引き寄せて腰をおろすと、眼鏡をかけ、肘をついて額を抑える。
「うざい……。何で、……こんな、クズ共」
息遣いが鳥肌をかする。
「死にたい……もう生きてんのやだ……」
涙が出なくなったわけではない。でも、こういうとき、絶対に出ない。出たら楽なときなのに、瞳は乾燥して、きっと鏡を見たら、くだばったような目なのだ。生気なんか、ひと筋もない目。
あの男みたいな目だろう。信野、だったろうか。名字か名前かも分からない。
あたしはうなだれるまま、ペットボトルをつかんだ。ちゃぷ、と水分が揺れた音がした。ふたを開けて、馥郁とお茶の香りがただよう。ねばねばした唾を飲みこむと、乾いた喉が痛んだ。
「……たくさん飲んでも、死ねないし。何なんだよ。毒薬も処方してくれよ」
ぶつぶつつぶやきながら、安定剤も頭痛薬も吐き気止めも多めにはじき出す。
「安楽死……とか、……させろ」
やはり、涙は出ない。代わりに言葉がぽろぽろとあふれる。薬を手のひらからこぼれそうなほどつかむ。
「あたしは死にたいんだよ……っ」
薬を口に放り、瑞々しいお茶で流しこむ。閉じていた目を天井に開いたあたしは、小さく嘲笑をもらし、その拍子から笑い出していた。その声はしわがれて乾燥していた。
でもやがて痺れ、おぼつかなくなり、取り留めなくなってきて──自分ではつかめないほど安らかになると、ようやく、あたしは、ほっとする……。
──その日、音夜からのメールには、アフターの誘いがなかった。なくて誘ってくることもあれば、とっとと帰ってしまうこともあるから、気にもしていなかったけれど。
『ビル着いた。』というメールのあと、『待ってます。』と返してしばらく、『まだ?』という件名の空メが来た。何、と思ったものの、酔ってやってくる奴などめずらしくない。
青と白のボーダーミニワンピのあたしは、ママに断って一階まで迎えに行った。そして、扉が開いて踏み出したエレベーターホールにいた人に、「……え?」と声をもらしてしまった。
「……どうも」
夜のざわめきと冷気が入りこむそこで、案の定酔っ払った音夜の腕を肩にまわして支えているのは、信野だった。思いがけなくて突っ立ちそうになったものの、あの夜を思い出して赤面して背を向けるどころか、歩み寄らないわけにもいかない。
「ええと……」
とっさに、営業用の笑顔が出ない。出していいのか分からない。
「どう、も」
そう返すしかない。
信野は音夜を揺すって、「凪子さん来た」と言った。唸っている音夜は、相変わらずラフな服装だが、信野はスーツだ。目はやっぱり、生きていない。
あの夜を思って気まずくなりながらも、あたしは音夜をもう片方から支える。
「一緒に飲んでたんですか」
「……敬語はいいよ」
「そ、そう……、じゃあ──え、まさか担当編集とか」
「幼なじみ」
「凪子ー。寒いー」
音夜は信野の腕をはらい、あたしに抱きついてきた。あたしがその重さにうめいたのに、信野は無表情に離れて、『△』を押しにいく。
「凪子お」
「はいはい。店でママも待ってるよ」
「ああ? いらねえ、あんなババア。お前店持てよ……ババアにもいい顔しとくの疲れるんだぜー」
あたしが降りてきたままだったから、エレベーターの扉はすぐ開いた。その中に音夜を引っ張りこむのは、さすがに信野も手伝ってくれる。
酒臭い音夜に絡まれながらも、ちょっと明るすぎるエレベーターの中で、あたしは意外と長身な信野を盗み見た。質素な黒髪、蒼い頬、無機質な口元、黒のかばんを提げて、すらりとした脚に茶色の革靴を履いている。
「信野さん、は──」
ちか、ちか、と数字が上昇していく中、あたしは沈黙よりどうでもいい会話を選んで、信野の目を引いた。
「お仕事帰りとか」
「……どうして」
「あ、スーツだから」
「………、辞めた」
「え」
「今日、最後の給料もらいにいっただけ」
「辞めた──って、やっぱ、人間関係とか」
「もう働きたくなかった」
あたしは『5』が点滅している上へと目をそらす。音夜の周りは、そんなのばっかりか。
「その僕の給料で、カズは昼から飲んでる」
あたしは、同じく数字に目をやった信野に視線を戻す。
「昼……からで、信野さんは飲んでないの」
「お酒、好きじゃないから」
「じゃあ、こんな店、無理にでも飲まされると思うよ」
「凪子さんに会いたかった」
「はっ?」
声が裏返りかけて、頬が熱くなってうつむく。信野からの視線は感じない。
「酔わせれば、カズが案内すると思って」
「……あ、会いたいって、……ああ、やりたいとか?」
「話したかった」
「え……」
「誰にも訊けないことを、訊けると思って──」
ベルが鳴って、七階に到着した。あたしはその言葉の続きを聞きたかったけど、尋ねる前に信野は口をつぐんで、音夜をホールへと引っ張った。
会いたかった。話したい。ただの淫乱女と思われていても、仕方ないのに。誰にも訊けないこと、って、何だろう。
音夜は店に着くと、あたしの肩まくらで本格的に寝てしまった。重いなといらつきながら、後輩に音夜からのボトルで水割りを作らせる。
乾杯の前に、素早く自分の烏龍茶と信野の水割りを入れ替えた。おとなしそうだし、咲わないけどそこそこ美青年だし、後輩は信野に肉食系の目をしていた。さすがに心細くなったのか、信野がこちらを見たので、あたしは後輩に音夜の膝まくらを押しつけた。
後輩はむっとした顔をしたものの、あたしの客の前で、あたしには逆らえない。奥の席に信野とちょうどふたり並ぶと、あたしは水割りに口をつけた。
「カズ、って呼んでるんだ。音夜さんのこと」
「カズサっていう読みは本名なんだ」
「……へえ」
「いつも、僕を気にかけてくるんだ。仕事辞めて、寮にいられなくなってたから、部屋に来いよって」
「何の仕事だったか、訊いていいの?」
「広報だよ」
「広報って、何か宣伝してたんだ」
「レコード会社だった。頭下げて、新人アーティストのステッカーを一枚でも多く貼ってもらってた」
「うわ。新人はそんなこと知らないんだよね」
「たぶんね。『売れる』って、そんなものだよ」
信野は断って、烏龍茶を飲んだ。意外としゃべるなあ、と思いながら、あたしは好きとか嫌いとか思ったこともない水割りを飲む。喉を熱がすべる。
「音夜さんは、売れないよね」
「売れる気がないんだと思う」
「文はそんなにひどくないのにね。読んだことある?」
「カズが作文嫌いだった頃から知ってる」
「え、書くの嫌いだったの、あの人」
「好きだから──書けなくて、思うような文にならなくて、嫌いだったみたいだよ。読める字もある程度揃って、語彙も増えた小学校の高学年あたりから、小説を書くようになってた」
「ふうん」と後輩の膝で寝ている音夜をちらりとする。
「信野さん、音夜さんと同い年ではないよね」
「僕は二十六だよ」
「あー、やっぱ年下か。あたし二十七なんだよね」
「もうすぐ二十七になるよ」
「じゃあ、タメか。誕生日近いの?」
「年末」
年末、か。少し、私情で頭が痛くなった。クリスマスイヴから大晦日にかけて、この店は同伴がノルマになるのだ。
七日間、枕をやったあとに出勤ということになる。疲れるというか、めんどい。
家族サービスとはあまり関係のない客に、早くから都合をつけておいてもらわないといけない。一日二日は音夜もつきあってくれるだろう。
「信野さんは、ちゃんと恋人いそうだよね……」
音夜を眺めながら、深い意味もなくぼんやりつぶやくと、少し信野の軆が硬くなった。あたしはそのうぶな反応に少し笑って、信野を見て、ぎくりと笑みを止める。
目が──
「……凪子さんは」
そのとき、ほかの席がわっと騒いでカラオケを始めた。ひび割れそうな音量のイントロに、一気に声が聞き取りにくくなる。
「……たい』って」
「え」
「『死にたい』、って」
一瞬、口元を凍らせた。とっさに後輩を盗み見たが、さいわい身を起こそうとしている音夜に水を飲ませている。
「何で、そんなの……」
「……あの、」
「どうして、そんなことを思う?」
「そ、その話は」
「僕には分からない。僕も死にたいけど、分からないよ」
「し、信野さん、」
「僕がいたじゃないかっ──」
突然肩をつかまれて声を上げそうになったけど、すぐ、信野を誰かが乱暴に引き剥がした。信野はそちらを見て、あたしも見る。
音夜、だった。こいつ、泥酔して──そこまで思いかけて、初めて音夜がそんなに酔っていない、酔ったふりだったということに気がつく。
信野もそう気づいたのか、なぜかがっくりとうなだれた。あたしも後輩も困惑していると、とりあえず音夜は、後輩を席からはずした。
「信野」
相変わらずカラオケが騒々しく、このテーブルの会話がほかのテーブルにもれることはなさそうだ。ここだけ隙間風でもあるように、水色に塗った指先が冷えてくる。
「凪子に気があるなら勝手だと思ったが、そんなくだらねえこと訊くためにここに来たのか」
信野は顔を上げ、「くだらないって、」と言いかけたが、音夜は吐き捨てるように繰り返す。
「くだらねえ。その女が、桜美の代わりに答えるのか?」
「……だって、死にたいんだろ? この人も同じなんだろ?」
音夜は舌打ちすると、口を挟めないあたしに目をやった。見たこともない真剣な目だった。
「凪子、答えられるか?」
「えっ。えと……」
「恋人が答えねえからって、こいつはお前に訊きたいんだよ」
「それ、は……本人に訊いたほうが」
「ああ。でもな、こいつの恋人は──」
「カズ!」
信野が、大きくはなくても強い声でさえぎる。そして目をつぶって頭を振り、初めて瞳に苦しげな色を浮かべた。
「……悪かったよ。どうかしてた」
音夜は信野を眺め、息をつくと立ち上がった。
「音夜さ──」
「悪い、凪子。今日は、こいつ連れて帰るから」
「あ、うん。じゃあ、ママ呼ぶね」
「いや、マスターにできるか? こいつを早く帰したい。いつもみたいにだらだら口説かれてるヒマはねえ」
「そう、ね。分かった」
あたしも立ち上がり、カウンターに向かおうとした。が、ぐいっと腕をつかまれて振り返る。一瞬、信野かと思った。けれど犯人は、いつも通り軽薄ににやにや笑う音夜だった。
「凪子。俺には、恋人なんか本気でいねえからな」
「え……」
「俺が落とすのはお前だ」
音夜の大きな瞳の中にいる自分が少し驚いたのち、なぜか安堵を浮かべて笑った。
「落としたら捨てるくせに」
「お、捨てられたくないから落ちないのかな」
「どうだろうね」
あたしは音夜の手から逃げると、マスターにお勘定を頼んだ。もちろん、まずはママに声をと言われたけれど、首を垂らして心身症気味の信野をしめし、音夜の弁を借りると納得して、代理勘定をしてくれた。
あたしは、ふたりをビルの外まで見送った。今度は逆に、音夜が信野を支えて、ふたりはネオンと喧騒の中に消えていった。
その日、めずらしくアフターがなかったので、ラーメンを食べて二時前には帰宅できた。化粧を落として、シャワーを浴びて、温かく着こむと部屋にこもる。ドライヤーを一気に髪に浴びせ、保湿液を顔になじませると、本棚から一冊選んでベッドに転がった。
音夜にもらった、読みかけの音夜一紗の書きおろし長編だ。発売されたのは十月だったから、そろそろ感想を伝えないと読んでいないと思われる。
音夜にしてはめずらしいラブストーリーだったけど、途中で女のほうが自殺して、病んだ展開になってきた。ほんとこういうネタあいつ好きだな、とあたしは純粋な読者になりきれない。
小説は嫌いではない。けれど、読みたいと自分で選んで読むわけではない小説は、どうしてもきつい。
音夜の文章が下手だと思わないし、まあ、うまいとも思うのだけど。あたしの趣味ではない。
でも、ぱらぱらと斜め読みでめくっていて、その作品の最後の一行にたどりついたときには、思わず眉が寄った。
『もう俺だって死にたいのに、みずから逝ってしまったあいつの気持ちは、俺には分からないままだ。』
【第四話へ】