葬られた夕景
「あ、おかあさんだ。こまちゃん、僕、帰るよ」
蝉の声が響く真夏だった。
いつもの公園で、いつもの夕暮れまで、同じ幼稚園の理衣くんと公園を駆けまわっていた。
ふと名前を呼ばれた理衣くんは立ち止まって、公園の入口におかあさんのすがたを見つけると、そう私を振り返った。私はこくんとして、「こまゆのおかあさんはまだかな」とつぶやく。
「こまちゃんのおかあさんもすぐ来るよ。じゃあね、明日も幼稚園で遊ぼうね」
「うん。明日はプールだから一緒に泳ごうね」
理衣くんもこくんとすると、おかあさんのほうに走っていった。
ほかの友達も、すでにお迎えが来て帰宅していた。さっきまではしゃぐ声でにぎやかだった公園は、オレンジの夕景の中で静まり返っている。今日は、私が最後みたいだ。
影法師が濃く長く伸びている。蒸した空気に汗が流れていく。私はブランコまで歩いて、「おかあさんまだかなあ」とひとりごとをつぶやいた。
ブランコに座っても、小さくしか漕げなくて、つまらなく感じていた。
どこかのごはんの匂いがする。
お腹空いた。お風呂にも入りたい。観たいアニメも始まってしまう。
おかあさん遅いよお、とふてくされてふくれっ面になり、夕射しに脚を伸ばして、ブランコのかすかな軋みを聴いていたときだった。
「ひとりは危ないよ」
私の影に、黒いズボンの脚が踏みこんで、顔を上げた。逆光で顔はよく見えなくても、笑んでいる口元は見えた。
男の人──というか、男の子だ。中学の夏服を着ている。
「おかあさん、来ないの?」
声変わりもしていない、柔らかな声だった。
「………、まだ来てない」
「そっか。じゃあ、俺が一緒にいてあげる」
その人は歩み寄ってきて、私はとまどいながらも少しほっとしていた。確かにひとりは危ないと思ったし、ひとりはつまらなかったから。
「ブランコしたいの?」
「うん」
「じゃあ、背中押してあげるよ」
その人は、私の背後にまわった。私は鎖を握って、反動に備えた。背中の手のひらの熱が伝わる。
地面につけていた足を離した。その瞬間、熱い手は背中をすべって、後ろから首をぎゅっと抑えつけてきた。
息をすくませて、振り返ろうとした。でも、指先が喉に食いこんで首を抑えて、振り返るどころか声も出ない。
その人は、私の影に自分の影を重ね、私の耳元に口を寄せた。
「大丈夫。言うこと聞いたら、痛いことはしないから」
頭の中が、ぐるぐると崩れ落ちていって、言うことなんか聞けなかった。
「おとなしくしてたら」
もがいて、出ない声を上げようとして、影の中から逃げようとした。
「痛くしねえって言ってんだろっ」
怒号に、びくんと軆がこわばった。もう遅かった。その人は私の腕をつかんで引っ張り、植木のあいだの芝生に押し倒した。
スカートがめくれあがって、その人は笑った。
「ピンクの水玉なんて、最近の親はエロい下着を与えるなあ」
かちゃかちゃとその人はベルトを緩め、下着の中に手を入れた。そして、下着の中で何かを動かす。何を動かしているのかは分からない。
その右手を見ていたら、左手にTシャツの上から胸をつままれた。
「このエロガキ、乳首勃ってるし」
そう言ったそばから軆をかぶせ、Tシャツをまくられて、つままれたところをきつく吸われた。よく分からない刺激に、軆がわななく。
「感じてんのかよ。小学生にもなってねえくせに」
相変わらず、その人は右手をしきりに動かしている。左手は肌を舐めるようにさすって、脚を開かせて、そのあいだにもぐりこんだ。
「あー、やべ……痛いけどいい?」
何が何だか分からない。真っ赤な夕暮れに、相変わらず顔が逆光で分からないのが怖い。下着を膝までおろされ、その人は私の脚のあいだに、右手の中のものを腰ごと押しつけてきた。
何? 何これ。何か、硬くて熱い──
その人が右手を引いて、下着からそれを取り出そうとしたときだった。
「こまゆーっ! いないのっ?」
私は、いつのまにかどくどくと涙を生んでいた目を開いた。
同時にその人は舌打ちして、腰を離して、素早く自分と私の服を整えた。おかあさん、と叫ぼうとしたら口をふさがれた。
その人が、ぐっと顔を寄せてきた。血走った眼球だけ、やっと見取れた。
「このことは、誰にも言うなよ」
息が苦しくて胸が痙攣する。
「もし誰かに言ったら」
片手が喉元をつかんで絞めあげる。
「殺すぞ」
何度もうなずいた。おかあさんが呼んでいる。その人が手を離して息ができて、絞られるようだった涙も止まる。私はその軆の下から、影の中から逃げだした。
「こまゆ! 何、そんなところで何してたのっ」
「お、おかあさ──」
ぞくっとした。ちらりと振り返ると、植木の陰に隠れているあの人の血走った目が、私を太い針のように突き刺していた。
殺す。たぶん、ほんとに殺される。
私はおかあさんのエプロンをつかんだ。
「こまゆ? え、ちょっと、泣いて──」
「か、かくれんぼっ」
「かくれんぼ?」
「そう、かくれんぼしてたら、みんな私を忘れて帰っちゃったの。それで、寂しくて」
おかあさんは眉を寄せて、私の目の高さにしゃがんだ。
「……ほんとに?」
「ほ、ほんとだよ。理衣くんも帰っちゃった。明日、幼稚園で怒らなきゃ!」
「そっ、か。そうだね、それは理衣くん怒ってやらないとね」
「うんっ。か、帰ろ。早く帰ろ。暗くなってきたよ」
「ああ、遅くなってごめんね。急におとうさんから電話があったから。今日は早く帰れるから、こまゆにおもちゃ買ってきてくれるってよ?」
笑顔を作りながらも、確かに背中に視線を感じていた。
空はゆっくり藍色に染まろうとしていた。
公園の出口へと歩きながら、おかあさんのいい匂いの温かい手を、血の気のない冷えた指で強くつかんでいた。
蝉の声は混濁する脳に反響していた。
思い出したくなかった。憶えていたくなかった。
それでもしばらく悪夢は続いて、おとうさんとおかあさんを心配させた。けれど、誰にも言わなかった。ひとりであの夕景をすりつぶして、少しずつ、少しずつ、薄めて頭から消していった。
小学校に上がる前、おとうさんの転勤で町を離れることになった。それで記憶は急速に離れていった。
そして私は、何もかもを忘れて、「支社に戻りたい」という嘆願を受け入れられたおとうさんの仕事に合わせて、またこの町に戻ってきた。
【第二章へ】
