Koromo Tsukinoha Novels
自然と眠ることができなくなったのは、いつからだろう。
それは憶えていないけど、高卒まで保険証もなかったから、適当なバイトに受かるとまず保険証を作って、近所にあった心療内科に駆けこんだ。
心療内科に関する知識なんてなかった。けれど、いい先生だったと思う。あの先生にかかったままなら、違うあたしがあったかもしれない。
でも、バイト先で店内恋愛が起きてからスタッフがぎすぎすして、あたしも嫌になって辞めてしまった。そして次のバイトが決まらないまま、お金がはらえなくて通院が途切れてしまった。
友達だった子は、大学でできた彼氏と結婚するとか。就職して仲間ができるとか。そんな道を歩んでいるのに、あたしはひどい自殺願望に口を犯されている気分だった。
いらつく相手なのに、うまく舐めてやらないと、喉を詰められて息もできなくて、怖くて気持ち悪くて──
バイトがあまりにも決まらなくて、あたしはついに水商売を始めた。
先生にまた話を聞いてもらえると思った。一年ぶりにあの心療内科を訪ねたら、違う病院になっていた。その先生を探す努力をすればよかったのだろう。けれど、気分がどろどろすぎて、ヤケで隣の駅にあったクリニックに行った。
何しろ気持ちが落ちていたから、初めは何でもよかった。でも、診察を重ねるうち、それは何症とか何病とか、病名を羅列して症状を語られることにうんざりしてきた。昨日は何のテレビを観たかとか、そんな話題に食いつかれるので、診察の前日はテレビなんか観なくてはならなかった。
そのくせ、あたしが本当に訊いてほしい悩みや痛みを訴えると、その医者は笑うのだ。笑って、そんなにネガティヴに考えるな、もっと明るく楽しく人生に向き合おうとか言うのだ。くそくらえ。金を取って、昨日観たテレビを語らせる診察なんて、あったものか。
次に行ったのが、駅前に戻った神経科だった。最悪だった。クラブに来たどこかの社長でもないのに、ふんぞり返って話す医者に、あたしは診察中に切れて、かたわらのつくえに合ったものを投げつけ、そのまま窓から飛び降りようとした。
取りおさえられて、滑稽な話だが、その病院は救急車を呼んだ。あたしは救急車で、家庭のこともくそくらえな医者のことも、もちろん今ムカついた医者のこともわめきちらした。結果、連れていかれたのが、今通っている総合病院の精神科だった。
それからは、ちょっと遠いけど、その精神科に通っている。くそ医者に紹介状も書いてもらい、正式にそこが通院先になった。
今の先生は、話を聞いてくれる先生だと思う。何かアドバイスしろよと思うときもあるくらい寡黙だけど、「聞く」ということに関しては忍耐がある。
今日は通院日だったから、診察を受けて、かなりふくらむようになった薬のふくろを提げて帰宅した。
もう行方の分からないあの先生は、薬を出すのに慎重だったなあと思う。十代のうちは軆によくないと処方せず、二十歳を過ぎてやっと処方しても、半年に一度は血液検査をして、異常が出ていないかを確認していた。
今は別にそんなことをされなくても薬が出ているから、あの先生は、あたしを薬物よりカウンセリングで治したいと思ってくれていたのだろう。
夕方になると、出勤の支度を始める前に、残機切れで飲めていなかった薬を流し込んだ。それで多少気持ちが落ち着くと、スマホのメールに目を通す。
昔はガラケー、今はスマホだけど、携帯電話は水商売では必須で、すぐ持つようになった。でも、客からのメールはいまだにかなり気丈になって読まないといけない。玄人ぶる客ほど、接客のミスや落ち度をねちねち語る。いざ店で会ったら、触ることしか考えていないくせに。
そういう客とは、やらない。やっても、ママにチクるだけだろう。あたしを見て、褒めて、かわいがってくれる客の下心にだけ応える。今日もメール全部に返信しつつ、やりとりするのはひとりで、ホテル込みで同伴することになった。
眼鏡からコンタクトになったあたしは、鏡台の前に腰をおろし、髪を梳くのから始める。
──先日、めずらしく音夜がスーツで店に来た。それはもうママが食いつこうとしたけど、音夜はやっぱり「凪子」とひと言だけ指名して無視していた。
後輩がヘルプでつこうとしたら、それも追いはらっていたから、何となく信野の話がしたいのだろうと分かった。それでも、あたしは「スーツだね」と当たり障りなく言った。「ああ」と音夜はタイを緩める。
「エッセイストのババアと対談してきた」
音夜は、あたしが飛んだどのママのことも「ババア」と呼ぶ。
「音夜さんには、年上の女はみんな『ババア』なの?」
「別に。尊敬してる女は、俺には目もくれないだけだよ」
「そうかな」
「凪子も俺を眼中に入れないだろ」
「あたしのこと尊敬してんの?」
「おもしろいと思ってるよ」
「……褒めてる?」
「つまんねえ女なら、こんなに通うかよ」
「じゃあ、ありがとう」
紋切り型の答えに、からから笑った音夜が煙草を取り出したので、条件反射で火をつける。音夜は煙をふかすと、ソファにもたれかかった。
「あいつも、俺に目もくれなかったな」
「え」
「凪子、お前、秋に出た俺の書きおろしなんか読んでないだろ」
少しぎくりとしても、読んだのは読んだので「読んだよ」と言い返す。
「へえ?」
「落差がすごかったよ。初めは甘酸っぱいのに、途中で女の子が自殺とか」
「ラスト言える?」
「オチなかった。後半ひたすら暗いだけだった」
音夜は楽しそうに笑い、「そんなもんなんだよ」と目を細めて煙草を吸う。
「俺、ずっと好きだった女がいたんだけど」
あたしは烏龍茶を飲み、「初耳」と笑う。音夜も笑うまま、けれど、うつむいて冷たく吐く。
「死んだんだ」
「え」
「自殺だった」
あたしは目を開く。音夜の大きな瞳があたしを映す。
「理由は知らねえ。信野は知ってるかな」
「え、信野さん」
「その女、信野の恋人だったから」
ぎょっとして烏龍茶を落としそうになった。
「えー……と、」
関係性が飲みこめず、とっさに憶測しか湧いてこない。
「浮気相手、だったの」
「いや、女は俺には目もくれなかった。三人で幼なじみだったんだ。女は俺のひとつ上だったな。生きてたら三十路だ」
「……はあ」
何だその泥沼、とグラスを持ち直して冷えた烏龍茶を飲みこむ。音夜は煙草の灰を灰皿に落とし、「あーあ」とつぶやく。
「俺、また信野に女取られんのかなあ」
「えっ」
「気になってるだろ、あいつのこと」
「な、なってないよ」
「どうだか」と音夜はにやにやして、煙草をつぶして水割りを取る。
「あの書きおろしは、信野がモデルだ。俺の感情も混ざってるけど──それは信野も感じてたことだし。あれは信野の話だ」
「……じゃあ、音夜さん、その女の人が自殺した理由知ってるじゃん。そこはフィクション?」
「いや、だいたい事実だ」
「………、おにいさんに、レイプされたって書いてあったけど」
「レイプされた、にしたけど。実際は、されてる、だったな」
──化粧を終えて、ホワイトの上下に金のチェーンベルトのカジュアルスーツをまとうと、あたしは枕営業の同伴に向かった。
時間的に、食事にまで行っているヒマはない。食事に連れていく枕の客もいるのだから、驚きだけど。そして、いつも通り同伴出勤をしたあたしは、店では無感覚ににこにこ嘘咲う。
接客中のメールチェックは、トイレに立って行なう。枕している客は、たいていちゃんと返事をよこして、今日行けるか行けないかを伝える。音夜から来てるかな、と思ったら来ていた。
『しばらく作業。
レス遅れる。』
しばらく──って、今夜は、ということだろうか。あるいは、期間だろうか。でも、そんなわずらわしいことを執筆中の作家に訊けるわけがない。
ノックがして慌てて謝りながら、あたしは短い返信をしてトイレを出た。
『頑張ってください。
またいつでも来てくださいね。』
十二月もなかばになって、でも街みたいにクリスマスに浮かれることもなく、あたしはただ同伴してくれる客をかきあつめられそうでほっとしていた。
ちなみに音夜は、自分からクリスマスイヴの同伴を予約してきた。家族と過ごしたり、友達と過ごしたりで、嬢なんかと過ごす日ではない。一番むずかしい日でありがたいので、お言葉に甘えて予定に入れさせてもらった。
けれど、つまりあたしは、聖夜はあいつとやっているということか。別にもうどうでもいいんだけど、と同業者の香水がぶつかる電車を降りると、人混みを縫って店へと歩き出す。
すっかり寒くなった。空気は凍っているように肌に刺さり、日が暮れると吐息はうっすら白い。ざわめきが逃げていく空を見やって、初雪も近いかなあ、と月のない曇り空に気分も重たくなる。
あれから、音夜の本を読み返したり、信野の言葉を思い返したりしている。
死んだ。恋人が自殺した。読み返した本も合わせると、信野は、あの日、あたしにこう訊きたかったのだろう。
僕がいるのに──なぜ死んだのか。
僕は心の支えにならなかったのか。
君を失ったら、僕までも「死にたい」と思うほど、僕には君がいたのに。
んなこと訊かれたってなあ、とあたしは憂鬱な息をつく。あたしも、死にたい……けれど。こんなに頭がずきずきしながら、心が不安でいらいらしながら、どうして生きているのか。
けれど、そんなのは逆にあたしが訊きたいくらいだ。
どうして、生きなきゃいけないの?
こんなに痛いのに、死んじゃいけないの?
薬がないとおかしくなりそうな奴なんか、消えたほうがマシなんじゃないの?
きらきら降りそそぐイルミネーションの色が、目になじんだ色になっていく。キャッチや笑い声が交錯する。こなれないと、踏みこめない空気になる。
だから、二度目とはいえ、そうとう勇気を出して来たのだろう。茶色のコーデュロイのミニワンピースにコートを羽織ったあたしは、いつものビルの前で立ち止まった。
「……凪子さん」
信野、だった。スーツではなくとも、黒のコートとグレーのスラックスはフォーマルっぽい。あたしはバックの持ち手をぎゅっと握った。
どうして、だろう。なぜかあたしは、この男の前では表情が麻痺しなくて、うまく笑顔が出せない。
「ええと……」
信野は視線をとまどわせたものの、黙っているくせに素通りもしないあたしをそっと見る。
「その……今日は、僕の誕生日で」
あたしは睫毛を伏せ、「ああ……」と声をもらす。年末だとか言っていたっけ。
「じゃあ……おめでとうございます。あの、あたし仕事、」
「ちゃんとっ」
さえぎった信野に、あたしは眉を寄せる。信野は真っ白な深呼吸をする。
「カズには、断ってきたんで」
「……ホテル行きたいの?」
あたしの味気ない言葉に、信野はちょっと咲った。それにあたしは目を開く。この男、まだ──
「ホテルには、行かなくていいんだけど」
あたしは、ヒールのブーツの爪先を見た。だからといって、立ち話をする気温ではない。
「そこに、落ち合うだけの同伴に使う茶店あるから」
信野は、気まずそうにあたしを見た。まるで生きていない目をしていたくせに、その目は子犬みたいで、あたしはついくすりと咲ってしまう。そして同じことに驚く。あたし、まだ──
咲えた……のか。
「じゃあ、そこから……」
嬢を誘ったことなどないらしい信野は、まるで恋人にするように手をさしだす。
「同伴、しませんか」
【第五話へ】