黒血の枷-2

甘く巡り会って

「もしかして、久根ひさねこまゆちゃん?」
 始業式が終わると、担任になる先生に先導されて、今日から中学三年生を過ごす教室に向かった。
 クラス替えがあったとはいえ、慣れた面々なのか、先生がいったん教室を離れた途端、みんなさっそくグループでしゃべりはじめる。でも、今日からこの中学校に通う私に、なじんだ人はいない。
 顔とかもう分かんないしなあ、とおとなしく席に着いていると、突然背中をぽんとされて、振り返った。
 白いヘアバンドで長い黒髪を抑えた、セーラー服の女の子がいた。目尻が垂れたおっとりした顔つきに、見憶えがある。とりあえず「久根こまゆ」であることにはうなずいても、「ええと」とその子の名前が出ずにいると、くすりと咲われた。
「こまちゃんは、あいつのことしか憶えてないかな? 私、相島あいじま冬香ふゆかだよ」
「ふゆか……ちゃん──あっ」
 私は顔を上げ直して、ぱっと笑顔になった。
「ふゆちゃん? みかん幼稚園のれもん組?」
「そう! こっち帰ってきたんだ?」
「うん、三年の新学期に間に合うようには、っておとうさんが頑張ってくれて」
「そうなんだ! こまちゃんぜんぜん変わってないから、すぐ分かったよ」
「変わってないかな?」
「雰囲気もだけど、ここにヘアピン差すのも、おかっぱも、小柄なのも」
「う、何かひどい」
「あはは、ごめん。でも、相変わらずかわいい」
「そ、それは分かんないけど。ふゆちゃん、同じクラス?」
「そうだよ。あと、うちのクラスには──」
 ふゆちゃんは暖房のきく教室を見まわして、「あの子」と後方の席で数人と談笑しているショートカットの女の子をしめした。
「あの子、誰だか分かる?」
「え、顔見えないよ」
「あの髪型でがさつな女の子って言ったら?」
 私がまばたきをすると、「聞こえたし!」とその子がぱっと振り返って、話していた子たちも笑い出した。
 ぱっちりと大きな瞳に、健康的な小麦色の肌──
「しず、ちゃん?」
「ちょっ、こまゆ、もうそれで呼ぶなっ」
 首をかたむけると、「水科みずしなが『しずちゃん』!」と教室の大半が噴き出して、大笑いになった。
 しずちゃんは舌打ちして友達に手を掲げると、つくえを縫ってこちらに歩み寄ってくる。
「よ、こまゆ。帰ってきたんだな。あと、あたしのことは『しずく』でいい」
「雫ちゃん」
「呼び捨て推奨。男子でいるか、みかん出身」
「うーん、男子ではいないかなあ」
 懐かしいふたりを見つめて、よかった、と安堵がこみあげてきた。
 私、ちゃんとまだここに居場所が残っていた。ふゆちゃん。しずちゃん。また会えて、憶えていてくれていた。さらに同じクラスにもなれた。
 九年前まで、私はこの町に暮らしていた。みかん幼稚園という幼稚園に通っていた。ゆず組、おれんじ組、れもん組と四歳から三年間通った幼稚園で、れもん組の冬におとうさんの栄転とはいえ引っ越しになった。
 向こうの街での生活も、もちろん友達もいて楽しかったけれど。心の底では、いつこの町に帰れるかどうかを常に気にしていた。
 だって、それは──
「あ、男子といえば、」
「理衣はいるよ」
 どきっと言葉を切った私に、しずちゃんがにやりとして、ふゆちゃんも笑いを噛んだ。
「やっぱり、こまちゃんが気にするのはあいつだよねー」
「いつも手えつないでたしな」
「も、もうっ。理衣くん──いるんだ、この中学に」
「まだ会ってないの?」
「うん。家の中の片づけが大変で、ご挨拶まわりもできてなくて。理衣くん、家変わってないかな?」
「変わってないと思うぜ」
「私のこと、憶えてるかな?」
「憶えてるでしょー」
「彼女いるって話も聞かないしな」
「か、彼女とかそういう話じゃなくてっ。憶えててくれたら、それで──」
 そのとき、担任の男の先生が、配布するプリントを抱えて戻ってきた。「席つけー」という声にみんな席に戻り、ふゆちゃんたちも「あとでね」と自分の席に走っていく。
 私は、まだちょっとどきどきしている心臓をスカーフの上から抑えた。
 理衣くん。いるんだ。
 早く会いたいな。昔みたいに咲ってくれるかな。
「久根、ひと言挨拶しておくか?」
 ひと通りプリントが乱れるように配布され終わると、解散を言い渡す前に、先生が私に目を向けてきた。
 ざわっと注目されて、え、と私は固まってしまう。すると、先生は笑い、「久根は今日転校してきた奴だから、みんな仲良くしてやるように」と挨拶は免除してくれた。
 放課後になると、好奇心のあるクラスメイトが寄ってきて、どこから来たとかから彼氏はいるかとかまで、あれこれ訊いてきて焦ってしまった。助け出すように一緒に帰るのを誘ってきたのは、ふゆちゃんだった。
「こまちゃん、挨拶すればよかったのに」
 廊下は、もちろん暖房などなくて、放課後の生徒が靴箱へと流れていても、まだ肌寒い気候がただよっていた。
 窓の向こうでは桜が鮮やかにあふれている。
 騒がしい靴箱まで来たとき、ふゆちゃんがそう言ったので、私は首を横に振った。
「ううん、よかったよ。緊張するのってダメ」
「でも、理衣の彼女だって宣言しておいたほうが、よかったんじゃない?」
「ふゆちゃんまでっ。私は、理衣くんのこと、そんなわけじゃないし」
「理衣もそうなのかな?」
「え」
「小学校のとき、理衣と同じクラスになったことあるけど。何かぼーっと考えごとばっかりしてたよ」
「何かあったの?」
「さあ。ただ、どうしたのって訊いたら、たいてい『こまちゃんのこと考えてた』とは答えてた」
 どきんとまた心臓が跳ねて、靴を履き替える手が止まる。
 そう、なんだ。私のことを考えていた。私もよく、理衣くんのことを考えていた。
「だから」とふゆちゃんはにっこりした。
「理衣が、こまちゃんを忘れてないのは絶対だよ」
 どくどく、と胸のあたりが脈打つ。
 どうしよう。そんなことを言われたら、早く会って確かめたくなる。
「え、えと……理衣くんのクラスって、分かるかな」
「しばらくしたら分かると思うけど──」
「六組らしいぜー」
 私とふゆちゃんは振り返った。歩み寄ってきているのは、友達と一緒に靴箱にやってきたしずちゃんだった。
「しずちゃん」
「雫」
「……雫」
「こまちゃん、私のことも冬香でいいよ」
「え、じゃあ、私もこまゆでいいからね」
「分かった」
「雫、理衣くんは六組ってほんと?」
「こいつが言ってたー」
 雫は友達のひとりを指差し、「雫、指さすな」とか言われている。それをあしらった雫は、「ちなみに六組は、うちら四組の教室の隣の隣な」とも言い添える。
 私は冬香と顔を合わせた。冬香はうなずいて、私は脱ぎかけていた新しい上履きを履き直した。
 理衣くん。私のこと、憶えてるよね。私は憶えてるよ。手をつないで、隣にいて、優しく咲っていてくれた。会いたかった。ずっと、私、理衣くんに──
 教室の並びの廊下は、さっきより生徒が減っていた。一番手前が三組、そして一番奥が六組だ。
 帰宅するみんなとは逆流して、六組の教室へと、だんだん駆け足になる。“3-6”のプレートの下にたどりつくと、一瞬がっかりした。窓も扉も閉まっている。
 みんな帰って閉めちゃったのかな、と期待せずに扉に手をかけて──すると、引っかかる手ごたえがなくかった。
 あれ、とすべらせようとすると、あっさりドアが開いて、私は教室の中を見渡した。
「あ……、」
 教室では、男子生徒と女子生徒が、ふたりきりで顔を近づけて話をしていた。そのシチュエーションで、やば、とすぐに思った。
「ご、ごめんなさいっ!」
 急いでそう言って、扉を閉めると身を返そうとした。そしたら今度は誰かにぶつかってしまった。また謝ろうと顔を上げて、はっとした。
 くせっぽい髪。子猫のような目尻の瞳。綺麗な白い肌──
 その人も、私を見つめて固まっている。変わっていない、と冬香に言われた。それは、理衣くんが私を忘れていなかったとしたら、すぐに気づくということで。
「理衣……くん?」
「こまちゃん……?」
 目を開いた。
 声変わりで、もう記憶の中の声ではなかったけど。顎の削りや骨張った肩幅も細身の長身も、ぜんぜん違うけど。
 心臓が高鳴ってくる。私はもう一度口を開いたものの、何だか声にならない。そのあまり瞳が滲んでしまうと、「こまちゃん」と今度はしっかり名前を呼ばれた。
「こまちゃんだよな?」
 私はこくこくとうなずいた。彼は表情を驚きからゆっくりほどいて、「マジかよ」とつぶやきながらも優しく──昔のように優しく微笑んだ。
 理衣くんだ。ずっと会いたかったままの、理衣くんだ。
「こっち、帰ってきたのか?」
「うん」
「家は同じ?」
「うん」
「そう、なんだ……」
「ごめんね、すぐ挨拶行けなくて」
「いや……そっか。こまちゃん、もう帰ってこないのかと思ってた。手紙も止まったし」
「えっ、私から止まっちゃったっけ?」
「あれ、俺だった?」
 私は噴き出した。「何」と理衣くんがしばたくので、「『俺』だって」と言うと、理衣くんはあきれたように笑う。
「『僕』なんて言ってたら、笑われるんだよ」
「そうなの?」
「そうなの。こまちゃんこそ、『こまゆ』じゃなくなってるじゃん」
「そんな、おかしいでしょ。中学生が自分の名前とか」
「俺もそんな感じなの」
「そっか。でも、私のことは『こまちゃん』だね?」
 頭をかいていた理衣くんは、私を見た。その眼の妖しさに、鼓動が大きくなる。子供の頃は、無邪気さがその目をやんちゃに見せていたけど、真剣にされると妙に色気がある。
 理衣くんは私の目の高さに身をかがめて、首をかたむけて軆を寄せると、耳元でささやいた。
「じゃあ、『こまゆ』?」
 頬が熱くなって、胸がどきどきと脈打ち、止まらなくなってくる。こわばってかばんの持ち手を握りしめてしまうと、理衣くんは近づけた軆を離して、楽しそうに笑い出した。
 揶揄われ……た?
 私は理衣くんを見上げて、「もおっ」と学ランの硬い胸をたたいた。
「理衣くん、そんな性格悪くなかったのにっ」
「えー、俺は今でも素直ないい子だよー?」
「今、違ったもんっ。私のこと揶揄っ──」
 言い終わる前に、理衣くんは突然私の腕を引っ張って、抱き寄せた。え、と抱かれた肩がこわばる。柔らかい体温と、筋肉の弾力が伝わる。
「り、理衣く、」
「会いたかった」
 また、低い真剣な声で理衣くんは言う。
「ちょ、揶揄うなら、」
「揶揄ってない。会いたかったよ、こまちゃん」
「理衣く……ん」
「こまちゃんがいなくなって、寂しかったよ」
 私は、腕の中から理衣くんを見上げた。たぶん、廊下にいる人には見られているのだけど、理衣くんは構わずに私の軆を抱きしめる。
 寂しかった。私も、だ。理衣くんと離れて、寂しかった。
 一番仲のよかった理衣くん。私の大切な理衣くん。
 理衣くんが、少し軆を離して私を覗きこんできた。前髪が切り揃った額を優しくさすられて、搏動がどんどんつづまっていく。
「こまゆ……」
 その声で名前を呼ばれると、感じたことのない痺れが軆を突き抜ける。
 動けずにいて、理衣くんの瞳が切なく揺れて、そのまま吸い寄せられるように唇が近づいて──
 ──きたときだった。
「うわっ」
 私と理衣くんは、突然割って入った声を振り向いた。六組の教室から、さっきの男の子と女の子が出てこようとしていた。
 私と理衣くんはぱっと軆を離して、うつむくやらそっぽを向くやら──私も、理衣くんも、耳までほてっている。
真住ますみかよ。ついに彼女作った?」
 男の子のほうが、苦笑しながら理衣くんの肩をたたく。女の子は男の子の陰に隠れている。私も若干、理衣くんの後ろに隠れている。
「香本こそ、柳原やなはらと何してたんだよ」
「俺たちは公認ですしー。お前は彼女なんて作らないほうがいいんじゃね」
「ほっとけ。──こまゆ、俺用事あるし、今日はこれで」
「えっ。あ……うん」
香本こうもと、担任知らね? 俺、プリント一枚もらい忘れてるっぽくてさ」
 理衣くんはここに、担任の先生を探しに教室に戻ってきたわけか。じゃあいそがしいよね、と視線を下げる。一緒に帰れるかも、なんて思ったのだけど。
 というか、さっきのは何かな。唇が近づきそうになった気がする。
 まさか。……まさかね。何か言おうとしただけだ。抱きしめたのだって、よほど私が懐かしかっただけだ。
 階段へと歩き出そうとして、「こまゆ」と声がかかる。私は足を止めて、理衣くんをかえりみた。
 理衣くんは恥ずかしそうに咲ってから、「またな」と言った。私も照れ咲ってからうなずいて、「逢えてよかった」と言う。私の言葉に、理衣くんの笑顔が記憶の中の理衣くんと重なる。
 ああ、帰ってきたんだ。その実感がじわりと広がった。
 この町に。みんなの元に。理衣くんのそばに。
 私、帰ってきたんだ。

第三章へ

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