黒血の枷-4

よぎる影

 翌日から、私と理衣くんは、登校も一緒にするようになった。
 理衣くんの家の前へ一本になる前に、手鏡を覗いてヘアピンの位置を整えて、色づくリップクリームがはみだしていないかも確かめる。
 そうして角を曲がると、理衣くんはすぐ私に気づいて、あの優しい笑顔になる。
「でも、理衣って実際あんまり咲わなかったよねー」
 学校に着いても、教室まで一緒に歩いた。私の教室の前で立ち止まって、「また帰りに」と人目を気にしながら笑みを交わす。理衣くんは奥の六組の教室へと制服の波に紛れこんで、それを見送って教室に入ると、「ついに同伴かー」とまた冬香や雫に揶揄われた。
 そんなんじゃないとか言っていると、冬香がそんなことをつぶやいた。私がまばたきをすると、雫たちも「確かに」とうなずく。
「クールな感じだからモテてるって感じだったもんな」
「久根ちゃん、意地悪してくる女子とかはいない?」
「いない、けど」
「だったら、久根ちゃんには敵わないのを、みんな感じ取ってるんだと思うわ」
「やっぱり、理衣にはこまゆだよね。ほんと、戻ってきてくれてよかった」
 冬香はそう微笑んだけど、私は曖昧にしか咲えなかった。
 何だか私は、理衣くんのいないところで、理衣くんに期待ばかりふくらませている。きちんと、理衣くん本人に確かめないといけないのに。少しずつ、“ただの幼なじみ”だったときのダメージが大きくなっている。
 その日も、理衣くんと帰路についた。並んで校門を抜けて、人気がなくなると手をつなぐ。
 何だか、ちょっと歩くのがぎこちない。今日はずっと、理衣くんのことを考えていた。そっと上目遣いで理衣くんを見る。すると視線がかちりと合って、お互い慌ててそらす。
 無言で住宅街を歩いて、制服すがたの影はなくなる。
「……あの、さ」
「えっ? うん」
「もうすぐ、連休だな」
「あ、ゴールデンウィークだね」
「俺は、その……どこも行かないんだけど。こまゆは?」
「私も出かけずに部屋の片づけかな。まだ段ボールがたくさん」
「そっか」
「うん」
「いや、……一緒に出かけれるかなとか思ったけど」
「えっ」
「いいんだ、気にしないで。そうだよな。片づけ大変だよな」
 咲う理衣くんを見つめる。一緒に出かける。私は、理衣くんの気持ちを「そう」だと見ていいの?
「それなら……お菓子よりお弁当がいいかな」
「えっ」
「あはは、お弁当のほうが助かるかな、男の子が食べたいお菓子ってむずかし──」
 理衣くんは立ち止まって、私の手を強くつかんだ。少しびくっとして、でも、まばたきながら理衣くんを見上げる。
「お菓子とか弁当とか、気は遣わなくていいんだ」
「え……」
「俺はただ、こまゆと、ふたりきりになりたい。というか、連休とか、ただ男と約束入ってないか聞きたかっただけだし」
「え、えと……」
「こまゆ、かわいいから、もう、告られたりしてるだろ?」
「してないよっ。そんな、されたこともないよ」
「でも、俺の友達がこまゆを紹介しろとか言ってくるし。そんなん断りたい。でも、断れる立場じゃないんだよな。俺は“幼なじみ”だから」
 理衣くんは顔を伏せている。
 幼なじみ。幼なじみかな、私たち。
 もう違う、って言っても何も悪いことじゃないでしょう?
 私は、理衣くんといると、こんなに心臓が苦しく暴れる。
「……やだ」
「え」
「私、他の男の子なんていらない。理衣くんがいいよ」
「……こまゆ」
「理衣くんのことしか、考えられないよ」
 理衣くんの手を強く握った。自分の頬が、上気していくのが分かる。
「俺のこと……考えるの?」
 言いまわしにどきんとしても、何とかうなずく。理衣くんは短く沈黙してから、「俺も、こまゆのことずっと考えてるよ」と言った。
 私たちは、ゆっくり視線を重ねた。ぎこちなかったものが、緩やかに溶けて、微笑になる。
「ぎゅって、していい?」
「……うん」
 理衣くんはつないだ手を引いて、私を抱き寄せた。理衣くんの胸の早鐘が、鼓膜をたたく。理衣くんはつないだ手も放して、両腕で私を抱きしめた。
「こまゆ」
「うん」
「このまま、俺の家に来れるか?」
「えっ」
「……ダメ? 怖い?」
 考えたけど、首を横に振った。理衣くんは私の名前をささやいて、頭を撫でてくれてから、軆を離した。艶やかな目が私を捕らえている。「じゃあ行こう」と理衣くんは私の手をつなぎ直して、私はそれに引かれて歩き出した。
 理衣くんの家は、もうそんなに遠くなかった。
 そういえば、私たちは子供の頃はいつも公園で遊んで、お互いの家を行き来することはなかった。だから、理衣くんの家に入るのは初めてだ。理衣くんのおかあさんがいたら挨拶しなきゃ、と思ったけど、玄関に踏みこんだ理衣くんは「今みんないないや」とつぶやいた。
「理衣くんのおかあさんは、私のこと憶えてるかな」
 私が言うと、一瞬、理衣くんの表情が硬くなった。私が首をかしげると、理衣くんは弱々しく咲って、「かあさんはもういないんだ」と思いがけない言葉を返してきた。
「いない、って」
「死んだんだ」
「えっ」
「もう何年かな。俺が小二のとき」
「あ──ご、ごめんね。私、知らなかった」
「いや。そっか、手紙でも伝えてなかったよな」
「うん……」
 理衣くんはスニーカーを脱いで、私はそれに続いて家に上がる。
「こまゆも、この町には帰ってこないのかなって。そう思うと、俺は大切な人をふたりも失くしたみたいでつらかった」
「理衣くん……」
「だから、こまゆが帰ってきてくれて、すごく嬉しいんだ。やっとひとりじゃなくなったみたいだ」
「でも、おとうさんとか……」
「あんまり仲良くないから。いいんだ、別に。こまゆが俺のそばにいてくれれば」
 持ち上がった理衣くんの指が、私の頬のふくらみをたどる。頬の熱が上がって、私は濡れそうな瞳に睫毛を震わせる。
「……こまゆ、かわいい」
 そう言って、理衣くんは私の顔を覗きこむ。瞳がぶつかり、吐息が絡む。近づきかけた唇に、さすがにちょっとすくんでしまう。
「り、理衣くん」
「ん?」
「お部屋……は」
「今、誰もいないから」
「でも」
「……部屋行ったら、何してもいい?」
 理衣くんは妖しい瞳で私を捕まえて、私はとまどいながらもうなずく。理衣くんは息をついていったん姿勢を正し、「じゃあ部屋に」と奥の階段へと歩き出す。私はそれを追いかけて、喉にせりあげそうな搏動を飲みこむ。先走りそうな想像ははらって、理衣くんの黒い学ランの背中を見つめた。
 理衣くんの部屋は、つくえの上はPCで雑然としていても、ベッドやフローリングは綺麗に整えられていた。背後で理衣くんがドアを閉めて、私は落ち着かずに窓や本棚を見渡す。
「重いだろ」と私の荷物を取った理衣くんは、自分の荷物と一緒にベッドのかたわらに置いた。
「こまゆ」
 理衣くんはベッドサイドに腰をおろし、呼ばれた私は、その隣にそろそろと座った。視線が触れあうと、理衣くんは左腕で私の肩を抱き、首をかたむけて顔を覗きこんでくる。
「怖い?」
 理衣くんの瞳を見つめて、小さく首を横に振った。理衣くんはほのかに微笑んでから、私の膝の上で私の手に右手を重ねる。そして、そっと、唇に柔らかい温もりを伝えてきた。
 キス、してる。私、理衣くんとキスしてる。
 こみあげる夢のような現実に、閉じたまぶたの奥が潤みそうになる。恐る恐る口を開くと、舌の感触が入りこむ。その深さに思わず理衣くんの制服をつかむと、理衣くんはかすかに唇を浮かせた。
「……舌」
「え……」
「舌、出して」
 よく分からないまま私が出した舌を、理衣くんの舌は優しく絡め取る。口の中を理衣くんの舌がなぞる。
 頭の中が混乱で沸騰して、私からは何もできない。ただ理衣くんにしがみついて、上顎をたどられるとときおり走る、くすぐられるような感覚に理衣くんの手を握り返した。
 やがて静かに唇が離れると、楽になった息に軽く深呼吸した。そんな私に理衣くんはくすりと咲ってから、耳元に口を近づけてくる。
「ほんとに、いい?」
「えっ」
「何しても、いい?」
「え、あ……」
「今、こまゆをめちゃくちゃにしたい」
 理衣くんの瞳が切ないほどまっすぐ私を見つめる。めちゃくちゃ……に、私──も……
 そのときだった。ばたんっ、と大きな物音がして、私たちははっとそちらを向いた。この家の中だったような──。
 理衣くんは仕方なさそうに息を吐いて、軆を離した。私は理衣くんを見上げる。
「隣だな。にいちゃん帰ってきたのかも」
「おにいさん……」
「ごめん、やっぱ今日はやめよう。聞かれたくないし」
「……びっくりした」
「え」
「理衣くん、その……」
 何と言えばいいのだろう。キス上手だね、は私は初めてのくせに上から目線だし、経験あるんだね、はひがみっぽいし──
 でも、私が言おうとしていることは理衣くんは察したみたいで、「初めてだよ」と言った。私は、理衣くんに眉を寄せる。
「……ほんと?」
「当たり前じゃん。俺は、ずっとこまゆだったんだ」
「私……も、ずっと、理衣くんだった」
 理衣くんは微笑み、今度は軽く短く口づけてきた。私は理衣くんの首に抱きついた。すると、理衣くんも私をきつく抱いて──
 突然だった。その体温、硬さ、匂いに、息苦しさを感じた。自分でその感覚が信じられず、震えそうになった。
 何、と自分の感性をかえりみたときには、不穏な影は消えていた。
「こまゆ……」
 理衣くんが幸せそうに私の名前を呼ぶ。私は理衣くんの胸に顔を埋めた。
 思い出しそうなものがある気がした。でも、それはどうしても思い出せなくて、思い出したくない気もして、何だか不安ばかりかきたてられた。
 理衣くんにしがみつく。すると、今度はちゃんとその軆に愛おしさを覚えることができて、ほっとして、私もすぐに幸せにさらわれていった。

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