非常階段-16

偽った自分

 雪乃ねえちゃんが一年で一番嫌いな学校行事が六月にある。体育祭だ。「あんなの自由参加にすべきだわ」と七時には必ず鳴る目覚まし時計みたいに、小学校のときから毎年言っているけれど、学校に進言して実現させた試しはない。
「何で学校って、生徒が嫌がることばっかり思いつくのかしら」
 体育祭関連が解禁される六月一日の朝、鳥がさえずるよく晴れた窓の向こうとは裏腹に、サボテンのようにとげとげした口調で、雪乃ねえちゃんはミルクティーをすすった。隣でケチャップがばねを描がくオムライスを食べる俺は、「いいじゃん」と銀のスプーンの先で顔を出したグリーンピースをはじく。
「勉強より」
「勉強のがいいわ」
「走ったり踊ったりしときゃいいんじゃん」
「それが嫌なのよ」
「あー、五十メートル十秒かかる人の感覚になって考えなきゃいけなかったな」
「何よ、そっちこそ平均点も取れない空っぽらしいわ」
「朝からやめなさい」とシンクで洗い物をしていたかあさんが眉を顰めて振り返り、「ふんっ」と俺と雪乃ねえちゃんとそっぽをしあう。
 時刻は七時半で、とうさんは出勤してしまい、俺も雪乃ねえちゃんもすでに制服だ。ちなみに雪乃ねえちゃんの朝食は、おやつだとしても物足りなさそうなミルクティーとカスタードプリンだけだから驚異だ。昼まで持つのだろうか。
 俺は湯気ののぼる香ばしいきつね色をスプーンにあふれそうにすくう。
「あんたもあのバカげた練習に出れば気が変わるわ」
「バカげた」
「どうせ終われば何にも残らないのよ」
「そういえばさ、赤と白ってどんな基準で分けられんの」
「席の右半分と左半分でしょ」
「あんがい単純だな。じゃあさ、その合戦の練習とかでの並び方は?」
 まだ前髪をスタイリングしない雪乃ねえちゃんは、変な目で俺を眺め、俺は口に押しこんだチキンライスの甘みを噛みながら引き攣った作り咲いをする。「そんなの」と雪乃ねえちゃんは蕩けそうなプリンをすくう。
「背の順よ。賢司とは、例え同じ組になれても、あんたの背じゃお隣にはなれないわね」
 よし、と内心ガッツポーズをしても、「そっか」と表向きにはチキンライスを飲みこんでおく。
 いい情報だ。体育祭は今月のなかばで、二週間近く賢司と体操服で隣り合うという、また混乱する事態は避けられるわけだ。赤組と白組に分かれたらなおいい。代わりに、着替えがしょっちゅうあるとか落ち着かない不安もあるけれど。
「一学期なんてあっという間よね。そのあとまた試験勉強で、七月の頭には期末考査よ。期末が終われば、さっさと夏休みにしていいぐらい何にもないわ」
「期末はむずかしい?」
「中間であのざまだったあんたは、もう気にしないほうがいいわよ」
「体調が悪かったんだよ」
「その言い訳のセンスさえ零点よ。かあさん、プリン余ったから食べるでも捨てるでもしといてね」
 その上残すのか、と子持ちの魚の腹ほどふっくらしていたオムライスを平らげかけている俺が茫然とすると、「ダイエットは晩ごはんですればいいのに」とかあさんは心配の入り混じった渋面をする。
「朝だって食べないに越したことはないの」
「貧血で倒れてサボる気だ」
「るさいわね。先に洗面台使うわよ」
 雪乃ねえちゃんは椅子を立ってダイニングを出て、水道を止めてエプロンで手を拭くかあさんは、雪乃ねえちゃんの少食に息をつく。
「朝こんなに食べないから、夜食べすぎて太るんだと思わない?」
「思う」
「このプリンいらない?」
「姉貴の食べかけなんかやだよ」
 かあさんはプリンは流しのそばに回収し、ミルクティーさえ残るカップは排水溝に返して水につける。「柊も急いで」と言われてオムライスをオレンジジュースで胃に追いやると、いつもの朝の一連をこなしていく。八時前にリビングに雪乃ねえちゃんのと並べていた手提げを取ると、俺と雪乃ねえちゃんは、家事を中断したかあさんに見送られて家を出た。
 ちらつく雲も白くて淡い青空の元、小学生や車とすれちがう。雪乃ねえちゃんはぶつくさしつつ、学校をサボる勇気はないらしい。別に一緒に登校する気はちっともないのだけど、同じ場所に同じ時間までに着いていなければならないとなると、何だか並行して話している。
 俺がサボりを提案すると、「それができれば苦労しないわ」と雪乃ねえちゃんは妖怪みたいにぎろりとしてきた。俺は鳥がたまる電線に上目をし、やっぱそうだよな、と思ってしまう。普通の生徒にはサボり、まして不登校なんてすごい度胸だ。
「あたしのクラスには、不登校の子がいるわよ」
 俺がそんな話をすると、雪乃ねえちゃんは胸元の赤いスカーフをいじりつつ言う。あの中学の夏服は、男子は開襟シャツで、女子は白に紺襟のセーラー服だ。
「マジ?」
「いまどき、どこのクラスにもひとりやふたりいるでしょ」
「そ、そうかな」
「あんたんとこいないの」
「今んとこ。候補はいるかな」
「あたしもやれるもんならやりたいわ」
「友達に会えないよ」
「友達いなかったらやってるわよね」
「……ふうん」
 胡散臭く答えると、雪乃ねえちゃんは手提げで俺の背中をはたいた。俺はやりかえそうとしたけど、ハイヒールを響かすOLが背後に迫ってきて、そばの壁に引く。
 その背中を見送り、不登校なんて現実感ないや、と暖かな陽射しに半眼になって秘かに息をつく。やはり俺は学校に行き続けるしかなくて、だとしたら、嘘に慣れるしかないのだろう。
 俺が賢司をただの親友としか思っていなければ、俺は賢司とは同じ組になれなかっただろう。運とはそういうものだ。しかし、今俺はできるかぎり賢司と距離を置きたい。だから、一時間目の席替えで、俺と賢司は廊下側の同じ列になったりした。俺は前から四番目で、賢司は一番目、班は違うが、前を向けば賢司がいるわけで、何でこんなに自分がついていないのかよく分からない。何しろ、それで俺も賢司も白組ということになった。
「体育祭なんてうざったいよなー」
 また午後に授業をつぶし、応援団に駆りだされる犠牲者なんかを決めたりするそうだが、二時間目から四時間目は通常授業だった。
 この学校は、昼食には弁当を実施している。弁当がない生徒のため購買部もあるが、かあさんに弁当を持たされる俺は、どんなものが売られているのかも知らない。
 食べる場所も自由で、いつもの面々とこんな晴れの日なら教室の窓際の席を勝手に使わせてもらう。今日森本が窓際の席になったので、自然と溜まり場はそこになった。俺は空いていた隣の女子のつくえに腰かける。箸を噛みながらそう言った席に着く森本に、みんな銘々に同調する。
「でも、勉強よりよくない?」
 俺がそう言うと、「授業のほうが寝れるからいい」と森本の前の席の椅子にまたがる笹原が、おなじみの発言する。ちなみに、彼はいつも購買でパンを買っている。
「あー、はいはい。俺はあの体育教師が嫌なんだよな」
「あ、それは俺も嫌かも」
「雪乃は二年で去年体育祭出たんだよな。どんな感じだったって?」
 森本のつくえに座る賢司の問いに、俺は朝や去年に雪乃ねえちゃんが語っていた通りを述べる。「はあ」という炭酸の抜けたサイダーみたいなみんなのため息が、失望を物語っている。
「俺の兄貴も、耐えきれずにサボってたそうだからな」
「え」と賢司は口の中を飲みこんでまばたきする。
「笹原って兄貴いたんだ」
「わりと不良のが」
「森本は」
「妹が二匹。寺岡は」
「俺はひとりだよ」
「ひとりっこっていいよなー。妹なんか親離れしてないひよこ買ってるのと同じだぜ。うるせえの」
「俺も兄貴のおさがりばっか」
 賢司はこちらを向き、「俺のねえちゃんは知ってるだろ」と俺は苦笑を噛んで、硬くなった一口カツに箸を刺す。それでも賢司は、「そうかなあ」とひとりっこの自分に首をかたむけて天井を仰いだ。ちなみに林間学校で同じ班だった福井は、今日の席替えでもともと仲のよかった奴と席が前後になって、そちらにいる。
 俺が腰かける女子の席の列は窓辺に面していて、降り積もった陽だまりに背中が暖まっている。自分の教室で食べる必要もない今、教室はほかのクラスなり屋上なりに出かけた生徒も多くて、意外と落ち着いていた。
 陽のあたる教室の窓際で脈絡のない雑談に笑って──どこかでは、ほんのかすかな静電気のように違和感を感じている。
 朝に雪乃ねえちゃんとやりとりしているときもそうだったけど、本当は、よく分からない。俺は、うまくできているだろうか。白々しくないだろうか。自分では、子役の一生懸命すぎて自然じゃない演技みたいにしっくりきていない感じがする。
 笑いながら、揶揄いながら、言い過ぎだったか、継ぎ足すべきだったか、台詞の調整に追われて居心地が悪い。賢司に接近なんてされれば、すぐ計算が崩壊してぜんぜんダメだ。
 いつも通りにしてなきゃ、なんて思っても、意識すればするほど“いつも”なんてどうだったか遠ざかってつかめない。自然とか普通とかは、やろうと思ってやるものではないのだ。そうといってやらないわけにもいかないが、日常ってこんなにいろいろやってたんだ、と初めて気がついたりする。
 毎日何にもない、と思っていた。そんなことはない。話したり笑ったり、毎日やることが多すぎる。やることがある限り、それを“普通に”やるため演じなくてはならない。
 だんだん、自分の心が信じられなくなっている。こんな中でも、たまに思わず噴き出してしまったりすることはある。だけど、ふと猜疑している。
 俺は本当に心から楽しいのだろうか?

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