非常階段-18

嘘つきの答案

 嘘を知ってから、周りの反応は秘匿された部分を容赦なく傷つけた。ほっとした笑みに圧迫され、気さくな言葉に卑しめられ、ショックなぐらいの正当性に呼吸が締めつけられて、ひりひりしている。真実に皮を被せただけで、こんなにうまくいくようになるとは──。やっぱこんなのは覆い隠して正解なんだ、という現実の確信が、内面の一部にもう一枚閉じこめる板を打ちつける。
「やっと心身症が治ったんだな」
 そう笑いながら、肩をたたかれることもあった。ということは、思っていたより、みんな俺の不自然に感づいていたのか。知らなかった。もともと俺を知る奴は「戻った」とか「治った」とか言い、中学で俺を知った奴は「人見知りだと思ってたのに」と驚く。「この頃、柊が考えこんでるのが多くて、おとうさんと心配してたのよ」と安堵の笑みを添えてかあさんも言った。
 悩みの内容まで察している人は、いなかったようだ。単純に喜んでいいのか、ゲイなんて日常には浸透していないという証拠で警戒すべきなのか。
 まあ、要するに誰にもばれなかったのだ。完全犯罪だ。俺はみんなを騙した。このままこんなふうにいて、慣れて、何も感じなくなれば、この俺がいつも通りの俺になる。思い通りにうまくいったはずなのに、何だかしっくり来ない。
 嘘をついて、演技して、自分を偽って、本来は卑怯者だと白い目で見られて当然だ。なのに、なぜみんなそんなに安心するのだろう。俺がホモじゃなくて、そんなにほっとするのか。いや、だれもホモどうこうなんて知らないけど──そう、知らないのだ。けど、何だか、つらい。結局は、唾を吐かれるのと同じぐらい、拒絶されている気がする。
 ゲイかも、なんて告白したらどうなっていたか、それはどんな占い師より的確に予言できる。だから、嘘をついた。そうしたらうまくいった。みんな、本当のことを言う俺より、嘘をついた俺を受け入れる。その暗黙が導くところは、軽蔑と同じなのだ。
 被害妄想だろうか。同性にときめくと打ち明けられるぐらいなら、騙されておいたほうがいいなんて、誰も思わない? 何が正しいのか、自分がどうしたいのか、よく分からなくなっている。
 霧がうつろう樹海で、方位磁石を失くしてしまったみたいだ。ばれたくなかったのではないか。うまくいっている。喜べばいいのに。
 つらい。演技を見破られて否定されたいみたいだ。でも、俺がゲイだと知れば、嫌な気分になる人もいる。普通に生きていきたければ、ばれないに越したことはない。社会に出れば、前科があるも同然だ。隠していくのが生きていく知恵だ──そんな思考がぐるぐるまわりつづけ、出口だけは絶対に見つからない。
 迷子になれば不安でたまらないのと同じく、俺にはこの嘘が正しいことしか分からなかった。そう、しょせん正しい。善悪や是非は一切抜きにして、周囲や将来を分別すれば、嘘が正解なのだ。隠してみんなに混ざっておくのが賢い。それは分かる。でも、正しくて、自分が嬉しいのかつらいのかは分からない。
 みんなの明るい笑顔が、陰に呪われた視覚にずきずきする。本当に犯罪者になったようだ。違う。俺は戻ったんじゃない。不調を隠すようになっただけだ。何で嘘をついている俺に咲うのだろう。そんなふうにされると、ますます自分をさらけだすのが怖くなる──
 精神患者のように閉じこめられた悩みは、日陰で膿か黴のごとくじめじめしている。ひとりのとき、ときどきその扉の前を通りかかる。板をめちゃくちゃに打ちつけられ、開かずの間になった部屋では、何かがうごめいている。俺は怖くて、居残りして夕闇に飲まれた学校をやっと背にした生徒みたいに逃げ出す。
 自分でさえ、そこに触れるのが恐ろしい。めいっぱいの腐臭に、蛆がたかっている感じを覚える。触りたくない。見たくない。そんなのは俺じゃない。俺は男なんか求めない! でも、べたべたと湿った音は、ブギーマンのようにどこまでも追いかけてくる。
 修整液の臭いがつきまとって離れない。みんなは書き直された見かけだけ見て、臭いになんか気づかない。しかし、修整液をぶっかけたと知る俺は、執拗にその臭いが気になる。何て吐きそうな臭いなのだろう。見て見ぬふりをしようとした冷たい白。その嫌な臭いで俺はひとり息苦しく泣く。
 こんなのは嘘だ。どんな言動にも潜むその事実を、どうしても忘れることができなかった。忘れることがこんなにむずかしいなんて知らなかった。必要なことはすぐ忘れるのに。本当は笑いたくも何ともない。むしろ誰か、泣かせてくれたらいいのに……。
 このじめついた梅雨時に似た、そんな後ろめたい孤立感が深まるほど、友達の幅は広がって、勉強の能率も上がった。やっぱこれが正しいんだな、と思い、それがぱさぱさの感覚で複雑だった。
 賢司の隣にいると、相変わらず細胞がざわつく。表面上では何事もなく咲っている。聖域へと分裂が進むほど、周りは回復し、俺は生贄を捧げるように内面を血みどろに損なって、外面を綺麗に繕った。
「今回はよく頑張ったな」
 期末考査の答案を返しながら、何人かの教師がそんなことを言ったり褒める笑みをよこしたりした。今回は三日間で九科目あった。だいたいが七十、八十点台で、九十点台のも一枚あった。
 俺はあやふやに咲うと、そわついた話し声を縫い、席替えしたての窓際の前から四番めの席に帰る。今日みたいに晴れた日には、日中の鋭いまばゆさがさしこむ、けっこう蒸し暑い席だ。カレンダーは七月にめくれていた。期末が終わればあとは何もない、と雪乃ねえちゃんは言っていた。
 あとは夏休みだ。学校に来なくていいことに、本気でほっとしている。憂鬱は憂鬱だ。不登校児みたいにずっと家にいる。家だって肩身は狭かった。場合によっては、学校より息苦しい。家族さえ信じられず、頼れないことが傷口に重石をつるす。気を遣いすぎて、他人の中にいる気がするときには、絶壁をずんと見くだすように愕然とした。
 賢司を含めた友達と遊びにいく機会も少なくないだろう。ついにナンパとかに連れていかれるかもしれない。女の子は徐々に視野に食いこませていかなくてはならない課題だ。それに、あの異様な夢を見た夜も、夏休みだった。
 いつのまにか軆になじんだ夏服に汗を滲ませ、答え合わせの解説は聞き流して、窓の向こうの青空を裂く強い日射しを見つめる。いろんなものが憂鬱だったり、不安だったり、恐怖だったりする。楽しみなことなんて、どうせ汚染されたみたいに欠片も思いつかない。自分を偽るだけで、こんなに喪失があるなんて──
 適当に自分なんかごまかしておいたほうが楽しめそうなのに、ぜんぜんそんなことはない。不器用なのだろうか。このままどうなってくんだろ、と真っ暗闇に溶けてしまった不確かな自分に、俺は椅子に腰を沈めて赤い高得点をぼんやり見つめた。

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