リビングルーム
どこかの家が、澄んだ風鈴の音をそよがせている。外は人が通れば吠えまくる犬のようにおかしく晴れている。猛暑に流れる汗よりひどかった蝉の声は、ようやく落ち着いてきた。
昼食の素麺を食べたあと、リビングのソファにくたばって、目を空に彷徨わせている。暑かった。クーラーはケチられている。汗ばむ髪を揺らすのは、背後のガラス戸の網戸が招く、だるくぬるい風ぐらいだ。
ぱら、という音は、正面で雑誌をめくる雪乃ねえちゃんがさせている。その奥での水音は、かあさんが洗い物をしている。とうさんは仕事だ。
夏休みに入って三日、くすぶっていた梅雨が明けたのと同時に、一気に季節は空気が肌にまとわりつく真夏になった。焼売や蒸かし芋の気分が堪能できる。
「はあ」と背もたれに頭を預けて喉を剥いていると、雪乃ねえちゃんが目を向けてくる。
「ゲームするんじゃなかったの」
「二階行くのやだ……」
ゲームのハードがある二階はもっと暑い。子供部屋にエアコンはないのだ。だから、雪乃ねえちゃんも反抗期なのに一階にいる。
「砂漠で遭難してるみたいよ」
「何でここぐらいクーラーつけちゃいけないわけ。俺たちの部屋についてるわけでもないのに」
「かあさんに言ってよ」
「──クーラーつけなきゃ死ぬ!」
きゅっ、と水音を止める音に、「我慢しなさい」という非情な声が続く。ここではシンクに立つかあさんのすがたは見えない。
「今年はボーナスもカットされて厳しいのよ。できる限り節約するの」
「命を削るほどか」と低くつぶやいてぐったり膝に上体を折る。水音が再開し、雪乃ねえちゃんは雑誌を閉じてテレビをつける。
「自分たちの寝室のクーラーは毎晩唸らせてるくせにね」
「とうさんがいるからだろ」
「あたし、結婚が男に言いなりになることなら、しないわ」
「どうせ誰ももらわないよ」
雪乃ねえちゃんは、身を乗り出すとメガホンのようにした雑誌で俺の頭をはたいた。唸った俺は、頭を抑えて上体を起こす。
結婚ね、とまたそんな些細なひと言でいろいろ考えさせられる。
テレビに映るのは、どろどろの相姦モノ昼メロだ。生き別れになっていた姉と弟がやる。言い知れない目を交わした雪乃ねえちゃんと俺は眉を顰める。
「どうかしてるわ」
「でも生き別れになってたらしいし」
「何で今つけたのに事情知ってんのよ」
「昨日ゲームつけたとき、言ってた」
「血がつながってるって感覚を分かってないわね」
「血がつながってるから分かりあえるとかも言ってた」
「かばうわね」
即座に首を横に振る。雪乃ねえちゃんは白い指先でとっととチャンネルを変える。
「普通、そういうのって詭弁だって疎まれるわよ。そんなの本気で言うなんて、よっぽどお気の毒なのね」
ソファに腰をどろりと沈ませ、まあ確かに、と思う。血がつながっているんだから分かってくれる。そんな確信があれば、俺もこの悩みをさっさと告白している。むしろ、こんなのを言えば血のつながりを嫌悪されると思うから、家族にも黙って偽っている。
偏見ではないと思う。俺の両親は、どう見ても同性愛なんて受け入れるタイプではない。とうさんは堅実な男だ。かあさんは保守的だ。絶対に無理だ。信じてさえくれないかもしれない。堅実と保守。こんなに子供に突拍子のない問題が起きたとき順応性のない組み合わせもない。まあ、要するに普通なのだ。
たとえば両親に、男のほうがいいかも、なんて告白してみる。どんな反応が返ってくるか、ファーストフードのメニューみたいにいろいろ並べてみる。けれど、どれもこれも答えは同じだ。
とうさんは凍りつく。そして怒る。冗談としか思わず、信じない。あの人には冒険や投機、まして非常識など宇宙人の思惑ぐらい理解不能なのだ。
かあさんは泣く。認められず、俺を治すとか元に戻すとかに躍起になる。同性愛なんて別次元のもので、関わる機会もないと思っているだろう。
十二年以上共に暮らしてきた、自分に影響も与えてきた人たちだ。その感覚は分かっている。深く想われているのは知っている。ただ、それが柔らかいかは分からない。踏み出すのはあまりにも怖すぎる。日本の家族だしな、と洗い物を終えて麦茶を持ってきてくれたかあさんに、ちろりと上目をする。
雪乃ねえちゃんはどうだろ、なんて思っても、音速で却下した。姉弟なんてぜんぜんダメだ。俺と同じ影響を受けてきた人なのだから、みんなと違うのは恥だと考える感覚はあると思う。
それを抜きにしても、雪乃ねえちゃんと同性愛──わりにどうこう言わないかもしれないけど、自分は巻きこむなとか、拒絶的な冷淡をよこす可能性は高い。それもまた、孤立に追いこむ反応だ。
気だるい夏風に風鈴が聴こえる。数学の問題みたいにさんざん考えてきたことだけど、いまだに視点は別の角度に切り替わらない。どう考えても、家族には黙っておくしかない。やっぱ夏休み憂鬱だ、と麦茶を一気に飲み干すと、昨日と同じく、暑さより考えごとへの億劫が勝って、俺は部屋にゲームを取りにいった。
ゲームにハマっていれば、時間は呼び止めたくなるほどあっという間に通り過ぎる。期末考査の点数でもらった小遣いで買ったRPGだ。
こういうとき、雪乃ねえちゃんが男勝りで、コントローラーを奪ったあげく対戦を強要する姉でなくてよかったと思う。「テレビゲームなんか小学生で卒業したわ」とのたまい、雑誌でも読みはじめて、対戦してほしくてもしてくれない。
城をくまなく漁ってボスを倒した頃には、やわらいできた熱気にひぐらしの声が響き、夕暮れがカクテルの色のようにレースカーテンに透き通っていた。
「涼しくなったわね」
休日でもスタイリングされる前髪に軽くなった風でも感じたのか、雪乃ねえちゃんはそう雑誌を閉じた。テレビの前で床にあぐらをしていた俺も顔を上げ、汗ばんだ額にはりついていた髪を剥がす。
時刻は十九時をまわっていた。アイロンをかけたり洗濯物を取りこんだりでいそがしかったかあさんは、今はキッチンで包丁の音を刻んでいる。
「部屋もマシになったかしら」
立ち上がる雪乃ねえちゃんに首を捻り、「さあ」と鮮やかなCGに乾いた目をこする。雪乃ねえちゃんは普通にガラス戸に歩み寄ってレースカーテンをめくる。そして舌打ちした途端、ばさっとカーテンを不機嫌な鳥の羽ばたきみたいに閉めた。
「何?」
「蚊がいっぱいはりついてる。──かあさん、もう暗くなってきたから、クーラーつけていいでしょ。明かりつけると、ガラス戸開けてたら虫が入るわ」
包丁の音が止まり、「そうね」とわりと気さくな声が返ってくる。作りかけの何かいい匂いもただよっている。
「いいわ。つけなさい」
「二階に上がるんじゃないのかよ」
「あ、でも、あたしはシャワー浴びたあと二階に行くし、柊がつけなくていいって言ってるんで──」
「つけるっ。リモコンは?」
「無理しなくていいのよ」
「今のが無理してる」
背中に面する食卓にリモコンを見つけると、頭上のエアコンに向けてボタンを押した。「ガラス戸閉めなきゃ意味ないわよ」と雪乃ねえちゃんは言うだけで閉めはせずリビングを出ていく。仕方なく俺は、自分でガラス戸を閉めて明かりもつける。
街に帰ってイベントを済ますと、セーブをしてソファに仰向けになった。賢司の隣にいるときみたいにほてっていた軆が、風音を立てて室内に染みこむ冷房に冷やされていく。
こんなふうに、賢司への発熱にも冷却できる何かがあればいいのに。この心は賢司を感知すると勝手にはずむ。おかげでこんなに後ろめたく、相手を窺い、ちょうどよく繕い、何でもないことにやたら疲れるようになった。
自分を演じるのが、こんなに窮屈で耐えがたいものだとは。せっかく学校も賢司もない夏休みなのに、ぜんぜん休めない。
今日も遅いとうさんの欠けた夕食後に入浴すると、シャンプーの匂いが濡れる髪のまま、すっかり涼んだリビングでゲームを再開した。
霧が降りたように、少し気分が息苦しい。入浴のたび、あの嫌な夢を思い出す。気にするな、忘れろ、そう言い聞かせるほど頭はかえって爪を研ぐ猫みたいにあの記憶をかきむしり、わざわざ俺を虚ろに滅入らせる。あの夢が俺の本当のすがただなんて言われたら、どうしてもぞっと視界が昏睡して真っ暗に黴びる。
あの夢精以来、射精もしていない。抜かないとやばいかな、と肉体面に関して焦っていても、どうしてもあおるために使う精神面に映るものが怖かった。いきそうなところまでいっても、どうしても最後のひと息が出なくて、つい賢司や男のすがたを思い描がき、途端一気に達してしまったら。そんな邪推に、どうしても健全な程度の自慰もできない。
何かいろいろやばくなってるよな、とフィールドでしばらく経験値を貯めてレベルを上げたあと、新しい街に入ったとき、かちゃ、と玄関に通じるドアが開いた。
顔を向けると、背広で革のかばんをさげたとうさんで、外は夜風もあえなく蒸しているのか汗をかいている。「おかえり」と俺はコントローラーを持つ手をあぐらに下ろした。声をかけられて初めて、とうさんは足元の俺に気づいたらしい。「ただいま」とソファにかばんを置くと、眉間を狭めてテレビを覗きこむ。
「何だ。ゲームか」
「『エバグリーン』」
言われてもとうさんは分からないのか、眉を寄せる。「RPGだよ」と言っても、まだ理解できない。「まあ分かんなくていいけど」でやっとうなずく。
「勉強はしてるのか」
「そう言われるとやりたくなくなるんだよね」
「………、雪乃は」
「デートに行ったよ」
ねじがひとつ飛んだロボットのようにネクタイを緩める手を停止させたとうさんに、この時間帯でこれは刺激が強いか、と慌てて台詞をかえりみる。時刻は二十二時が近い。
「冗談だよ。はは。部屋にいるって」
「……まったく。かあさんは」
かあさんこそがデート、なんてふざけられたら上出来の家庭なんだろうな──そう思っても、無論まじめに、「台所じゃない?」と右手を向く。
同時にかあさんが、「おかえりなさい」と顔を出した。俺の背後を通ってとうさんはそちらに行き、通る隙間を作るため浮かせた軆を戻した俺は、コントローラーを持ち直す。
「そんな近くでやってたら目が悪くなるわよ」とかあさんは今日三度目の注意をしながら、とうさんが脱いだ上着を受け取っている。
「俺に眼鏡って似合わないかな」
「かけないに越したことはないでしょう」
「女の子にモテないぞ」
俺はとうさんを見、俺はモテていいんだ、と言おうかと思ったがやめておいた。ただ肩をすくめ、初耳のBGMと鮮やかなCGのテレビにむきなおる。本当に、ありがたい助言だ。やっぱり絶対、この家族にばれるわけにはいかない。
【第二十章へ】
