非常階段-20

閉ざす夏

 とうさんが食事したり入浴したりするあいだに、あくびが増えてきた俺は、ゲームのハードごと二階に上がった。
 こんな、ポタージュスープのようにねっとり澱んだ部屋に機械なんて置いておきたくないのだけど、うかつに一階に置いていたら、どうされるか分からない。こいつは誕生日やクリスマスにぽんと買ってもらえたものでなく、節約を重ねて自分でようやく買ったものなので、愛着があるのだ。
 明かりをつけ、宿題はまだかばんの中なのでつくえに置く。
 最後に部屋に来たのは、パジャマを取りにきたときなので、カーテンはすでに閉まっている。静かで、虫の声が聴こえた。隣の雪乃ねえちゃんは、明かりがついていたので、起きていると思う。
 またこの夜中にケータイで長電話始めんなよな、とおとというるさいあまり一階で寝た夜を思い返す。まあ一階の涼風が名残るソファのほうが、蒸されたベッドより快適ではあったけど──ため息を深くついて、ベッドに腰かける。
 俺はケータイは持っていない。「中学生になれば欲しければあげる」と両親には言われていた。入学式の朝までは、もらえるものはもらっておこうと思っていた。
 だが、すべてはあの日、賢司に再会して変わった。一緒にいないときぐらい、あのおかしな反応を体感したくない。始終電話を連れていたら、はっきりいって、気を抜けるときがない。そんなわけで、「今はいい」と春頃に必要かと尋ねてきた両親にかぶりを振った。
 ケータイの次の獲物として、雪乃ねえちゃんがよく両親に欲しいと訴えているものは、PCだ。何年か前、新聞の同性愛寄りの記事で、同性愛のホームページを覗いて初めて友達ができたゲイの男の話を読んだ。PCなきゃ友達できないなんて憐れだなと、そのとき鼻で笑ったのが、今かなり複雑な心境にさせる。
 俺もそんなのに頼ってしか、心を打ち明ける相手は見つからないのかもしれない。それはいいことなのだろうか。いや、別に悪くもないだろうが。そんなに、同性愛は同性愛者にしか理解できない特殊な世界なのだろうか。
 分からない。そんな気もする。同じ感覚の人間が共鳴するのが悪いとは思わない。同じ境遇の人間が合流するのは、何となくみじめだ。それとも、同じ境遇だと感覚も同じになるのか。性格も、考えも、やり方も──だとしたら、やっぱり“症候群”の病気のようではないか。
 俺はいつの日かゲイの特徴を捕らえ、同じ特徴を持つゲイしか友人として持てなくなるのか。その世界に引きこもり、外界には嘘にせくぐまって、自分をおおい隠す。そんなのは虚しく感じるのは、贅沢だろうか。
 ベッドに横たわって、ぐったり毛布に頬を押しつける。全身が汗ばみはじめ、湯上がりみたいにほてった水気が厭わしい。青い宝石のように虫の澄んだ声が、空中に瞳をうつろわせる。
 俺は俺なりに、これまでの人生の中で一番苦しんで悩んでいる。だけど、まだぜんぜん足りないのかもしれない。
 もっと苦痛を感じ、散漫に煩悶し、井戸に堕ちたような猛烈な孤独に侵略される。そうしたら、引きこもりだろうと、自分に似た人間だろうと、分かってくれるのなら何でもいいと思うかもしれない。もっとひとりぼっちになって、孤立して、誰もいなくなったら。でも、そんなの学校で言っていた「自傷」とかいう奴みたいだ。
 どうしたらいいのか分からない。どうしたいのかも分からない。強いて言えば、相変わらず賢司を友達と思えるようになって、好きな女の子を持ちたい。俺は特殊な世界になんて外れたくない。普通に、平穏に、何事もなければそれでいい。
 ゲイばっかりの世界になんか行きたくない。そこに行けば誰かと分かりあえるのかもしれない。それでも、何だか怖いのだ。そんなのに踏みこむのは、棺桶に片足を突っこむのに等しく感じられる。普通に生きる人には踏みこめない世界に、かけはなれるというか。
 これもまた嫌悪なのだろうか。自分がゲイだと認めれば、そんなところに行くのも悪くなく思えるのか。けれど、俺はどうしても、子供に悪いものを見せたくない親のように、心にそれが真実だと言いたくなかった。
 ──友達と遊ぶのは、賢司がいてもいなくても憂鬱だ。紅葉のように話題が徐々に色に染まり、女の子に関する話題への奇妙なばつの悪さがなくなっていく。
 今はまだときどきだけど、高校あたりになれば、話はこれしかなくなるのだろう。周囲がどんどん異性を知っていく中、俺だけ違う。奥手で取り残されるほうがマシだ。俺の嘘咲いの疎外感は、自分の乗る車両だけ岐路で本線を外れてしまった感じだ。
 このまま、どんどん外れていくのだろう。その逆睹がたまらなく怖い。この支線は本線をはずれ、離れ、聞いたところもない別世界へと行き着く。
 でも泣いたり、慌てたり、いらついたりで、そんなところに堕ちているのをみんなに気づかれてはいけない。不安は絞め殺す。順調に軌道に乗っているように咲っている。引き裂かれる布のように、岐路の股が拡がるほどみんなは遠くなり、きっとそのぶん、笑みを絞り出す痛みは心をふれさせていく。
 どうしてだろう。なぜこんなに否定し、嫌悪し、爪が剥げるほど引っかいているのに、こいつは俺を狭い個室に閉じこめて逃がさないのだろう。亡霊の呪いでもかかっているようだ。
 だんだん錯乱してくる。壁の染みからぬうっと伸びてきた血まみれの手が、俺の腕をつかみ、染みの中に引きずりこもうとする。何事もない外に逃がすなんて許さない。遊離した世界へと執拗に引っ張って、言い立てる。
 認めろ、認めろ、認めろ──
 そうなのだろうか。認めるしかないのだろうか。ほとんど死を観念するみたいに思いかけているところもある。そう、みんなが紅葉に染まっていくのと同じように。いくら躍起になって逃げまどっても、背中にかかる影は次第に広く濃くなっている。しょせん俺は、こいつを逃げられないのではないか。
 あの堀川の授業の通り、みんなの視界は男として彩られていっている。そして、男として色づけば対象は自然に女の子のはずなのだ。でも俺は、自然と向かうまでは同じでも、対象として視線の先にいたのは男だった。
 みんなとものすごく違う反面、みんなとまったく同じように賢司に惹かれていた気もする。うまく言えないけれど、みんなが女の子に惹かれるように、俺が惹かれたのは同性だった。
 しかし、薪みたいに両断できるけど、こんなのは誰も理解しない。認めも、信じもしない。同じだなんていえば、引っぱたかれるか、顔面に唾を吐かれるかだ。
 さまざまな断片が、火傷の痕のように焼きついて薄れない。自分の記憶力が、こんなにしつこいとは知らなかった。記憶にともなう湿った痛みが忘れられない。なくならない。あの汗びっしょりの真夏の夢、桜の中で見た賢司の横顔に飛び出した鼓動、性教育で堀川が吐いた冗談への教室の反応──
 些細なひと言で、人を過失で殺したほど落ちこみ、蔦を這う蔦のように被害妄想がもつれ、確信が俺の喉を絞め上げる。
 こんなの絶対、誰も受け入れない!
 疲れるのだ。いつも最後に残るのはそれだ。疲れる。嘘をついても、ベッドで声を殺して泣いても、自分はそんなのじゃない、だから後ろめたくなる必要はないと言い聞かせても。
 どうしてだろう。俺がゲイだとしたら、本当に、何でだろう。なぜゲイだというだけで、ここまで、鉄の槌で呼吸を穿たれなくてはならないのだろう。
 つらすぎる。頭も心ももたない。切り捨てたい。誰も愛せなくなるほど、根っこからでもいい。本当に、腕や脚みたいに切り捨てることが、せめて捻じ曲げることができればいいのに。
 冷房をきかせたリビングのソファに虚脱し、じっと天井に黙りこんでいる。シャワーを浴びる前なので、Tシャツにはくたくたに汗が染みこんでいる。
 匂いを泳がす夕食もまだ作りかけの十九時半だ。八月の長引く夕暮れが映っていたカーテンはようやく陰り、一日ずつ秋へと濾過されていく虫の声が、鼓膜に透き通る。
 賢司を含めた友人と遊んで、帰ってきたところだった。賢司といると、相変わらず不本意な反応が起きる。ごまかしたり話をそらしたりで、もうほとんど表出していないも同然になったけれど。
 本能を操れるようになれば、今度は操って偽っているのが重たくなった。親友に平然と嘘をついている。すれちがった鏡に自分を見るように、ふとその事実に冷静になるとき、自分がひどく卑しく思え、しょせん賢司とは離れたほうがいいのではないかと思う。いずれにしたって、賢司といたってもう二度と楽しくない。
「暗いわね」
 天井の風音に目を任せ、ため息を抜く代わりにソファにへこんでいると、雪乃ねえちゃんがそう脇を通りかかった。俺はかたつむりのような動作で顔を仰がせたが、雪乃ねえちゃんはさっさと通り過ぎてキッチンを覗いていた。
「かあさん、アイスあったでしょ」
「え、もう夕ごはんができるわよ」
「冷たいのがいいの」
「麦茶でも飲んでなさい」
「いいじゃないの、そのぶんごはん減らせば」
 のんきな会話だ。土砂崩れのスローモーションのように黒い革のソファに横倒れる。
 冷蔵庫や食器の物音ののち、雪乃ねえちゃんがカップアイスと正面に腰かけてくる。ちょうど目線がミニスカートの膝だけど、どのみち、こんな女なら興味はない。
 雪乃ねえちゃんはテレビをつけ、バラエティっぽい無神経な爆笑がして、俺はパイル生地のクッションを頭にかぶった。
「柊」
 それでも、そばにいる人の呼びかけぐらい聞こえる。雪乃ねえちゃんをクッションの陰でちろりとする。雪乃ねえちゃんはリモコンでチャンネルをまわしながら、俺を眺める。
「賢司たちと遊びにいったんでしょ」
「……まあ」
「それにしては、追試でも受けてきたみたいね」
「どうだっていいだろ」
「賢司に振られでもしたの」
 とっさに発火した肩の痙攣をこらえ、がばっと軆を起こすと雪乃ねえちゃんをぎっと睨みつける。
「どっからそんな発想が来るんだよ」
「ここから」
 雪乃ねえちゃんがしめしたテレビに首を捻じった。そして、燻っていた目をひらく。そこには、“ゲイ少年”の文字があった。
「こ、これ、何。お笑い」
「あんたこそ、分かんない発想ね。ドキュメンタリーでしょ。毎年、夏になるとやってるじゃない。現代の悩める若者」
 雪乃ねえちゃんは、カップとスプーンが待機する座卓にリモコンを置くかわりに脇の新聞を取り、ばさっと洗濯物の皺伸ばしみたいに広げる。安っぽいインクの臭いがした。
「イジメ、ドラッグ、家庭内暴力、引きこもり、あ、これね。“ゲイ少年の決意”」
 膝にクッションを乗せるまま、テレビを見つめた。素顔を出すそいつは高校生で、今まで仮面をかぶって生活してきたらしい。
 友人や家族には、親しい間柄だからこそ、相手を失うのが怖くて言えなかった。居心地のいい場所が欲しくて、その手の場所につい出入りし、好きでも何でもない中年の男と寝てしまったりした。
 これでは自分がダメになる。そんなふうに感じ、こうしてカミングアウトすることにした──
 イメージ映像が、スタジオのそいつの顔に戻った途端、枝が折れるように腕を崩して、ソファに再び突っ伏した。汗ばんだ背中を、涼風がさすっていく。できかけの夕食の匂いがただよっている。
 みぞおちの重みに、クッションを抱きしめた。何だか、やけにみじめだった。「あんたはこういうのに嫌悪があるのね」と雪乃ねえちゃんの声がして、陰気な目を向ける。
「何で」
「その反応」
「………、雪ねえちゃんはいいんだ」
「自分に関係なきゃ構わないわ」
 俺がゲイだったら、雪乃ねえちゃんには関係あることになるのだろうか。分からない。姉弟。家族。関係、あることになるのだろう。ここは円満な家庭とは言えないけれど、断絶しているわけでもない。
「あとは、援助交際にリストカットか。こういうの観させられたって、滅入るだけなのよね。自分たちだけでやって、テレビなんかに出ないでほしいわ」
 新聞を閉じた雪乃ねえちゃんは、チャンネルをなおも切り刻み、全部まわるとぶつっと黒に切断した。そして、何やら炒める音をさせるキッチンへと軆をねじまげる。
「ねえかあさん、やっぱりケーブルテレビつけようよ。そしたら、衛星放送とか観れるんでしょ。こんなの、十局ぐらいしかない上に全部くだらないわ」
 PCだのケーブルテレビだの、この姉貴は何でもあればいいと思っている。
 俺はベージュのクッションを引き上げて、そこに頬をうずめる。心地よい肌触りには、この家の匂いがする。息苦しくまぶたを緩め、弛緩に犯された軆をずいぶん重たく感じた。憂鬱が残像している。下降するエレベーターに乗っているように、どんどん気分が地下に降りていく。

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