雪の十字架-1

彼女との夏

 高校三年生のとき、入学式から秘かに憧れていた女の子と、同じクラスになった。新しい教室に彼女のすがたを見つけたときは、派手に二度見してしまった。
 いる。雪舞ゆまいがいる。え、教室間違えてないよな。俺、三年四組だったよな。
「ちょっと、早く」と後ろに続いていた女子生徒にせっつかれて、慌てて教室に踏みこみながら、俺は心臓がどきどきと高鳴ってくるのを感じた。
夕彩あかね、やばい、同じクラスに雪舞がいた」
 帰り道、中学時代からの親友である音瀬おとせ夕彩あかねと合流すると、真っ先にそう報告した。夕彩はきりっとしている眉を寄せてから、「ああ、あの雪舞な」と肩をすくめる。
 夕彩は昔からモテるし、わざわざ高嶺の花を想うより、手近な女とつきあうタイプだ。だから、誰がかわいいとか誰がモテるとかには疎い。
「どうしよう、隣の席とかになったら、俺、死ぬかもしれない」
「死にゃしねえだろ……」
「だって、しゃべったこともないんだぞ」
「なのに、よく好きになるよなあ」
「彼氏も作らないんだよなー、雪舞って。あー、何とか仲良くなれねえかな」
「雪舞の友達から近づけば?」
「雪舞って誰と仲いいの?」
「知るか」
「ミステリアス。それもいい」かない
 俺がひとりうなずいていると、夕彩は苦笑して、「まあ頑張れ」と俺の頭を小突いた。「頑張る」と答えた俺は、「で、夕彩は彼女とクラスどうなった?」とやっと尋ねる。
「俺は別れたなー」とか言っているけど、夕彩に落ちこんでいるふうはない。こいつそういうのにドライだよなー、なんて思いつつ、俺は教室でちらちら盗み見てきた雪舞の容姿を思い返した。
 雪舞は黒髪のウェーヴを肩まで伸ばしている。どこか気だるげなまなざしと長い睫毛が縁取る二重の瞳、しっとり白い肌にいちごみたいな瑞々しい唇が映えている。細い肢体がすらりと伸び、量感があるというよりは、しなやかな体型だ。
 かわいいというか、美人というか、美少女というのがしっくり来る。
 雪舞はどういう女の子なのか。俺はそれすら知らず、二年間、ルックスだけで彼女に片想いしてきた。いざ同じクラスになってみると、雪舞は──
 イメージ通り、品行方正な優等生だった。いいなあ、と見つめていると、ときおりその視線に気づかれてしまうことがあった。雪舞はこちらを振り向き、首をかたむける。俺は慌てて視線をそらし、やばい恥ずい、と頬に熱を散らした。
「そこは笑顔くらい向けとけよ」と夕彩にアドバイスされても、気恥ずかしいものは気恥ずかしい。それに、しょっちゅうじろじろ見ていて、気持ち悪くないかなと心配にもなってきてしまう。
 そんな俺に、雪舞のほうから話しかけてきたのは、一学期が終わりかけた七月の昼休みのことだった。
 空気が熱にむせかえる猛暑、外では蝉が狂ったように鳴いていた。空の澄み切った青が、目に沁みる。窓は開けられていても、抜ける風もなかった。
 夕彩と弁当を食ったあと、俺は自分の席でケータイをいじっていた。「金居かないくん」と名字を呼ばれて顔を上げた俺は、どきんと心臓を跳ね上げる。俺のつくえの脇に立っていたのは、夏のセーラー服を着た雪舞だった。
「えっ、……な、何。雪舞──さん」
 変かな、と思っても、初めてしゃべる女の子を呼び捨てにするのも気が引ける。
「金居くんって、ひとりっこ?」
「はっ?」
「兄弟はいるの?」
 初めての話題にしては謎だったが、雪舞と話が続けられるのなら、俺に答えない選択などなかった。
「弟が、いるけど」
「そうなんだ。同じ部屋?」
「部屋……は、別というか、弟まだ幼稚園なんで、夜も親と寝てるし。ほぼひとり部屋、だけど」
「そっか。じゃあ、ゆっくりできる感じ?」
 ゆっくりできる感じ──だったら、どうなんだ。これはどういう話の流れだ。
 どぎまぎと狼狽えていると、「やっぱり、弟さんが急に入ってきたりする?」と雪舞は首をかしげる。
「えっ、あ──いや、ぜんぜんっ。幼稚園だぞ、家では母親にくっついてるだけだよ」
「そうなんだね。じゃあ、その……金居くんに、お願いがあるんだけど」
「な、何?」
 どもるな俺、と内心自分の頬を引っぱたきつつ答える。
「夏休みになってからでいいんだけど、金居くんのお部屋に、お邪魔してもいいかな?」
「はっ?」
 無意識に期待から除外していた爆弾に、俺は固まってしまった。
 何。何だって。俺の部屋にお邪魔する? 雪舞が?
 何だそれ。そんなの、普通は……どうでもいい奴の部屋には来ないよな。しかも、ゆっくりできることを確認して。ええと、これはつまり、雪舞も俺のことが気になるとか、そういう展開なのか。
「え、と……」
 返事を言う前に、まずその言動の意味を訊きたいと思ってしまったが、「ダメなら無理しなくても」と思いのほかすぐに雪舞が引きの態度を見せたので、俺は慌てて食いついた。
「構わないよっ。そ、その──うん、ゆっくりできるし、俺も構わないし」
「本当?」
「うん。夏休みでも、いつでも、来ていいよ」
「よかった。ありがとう。じゃあ、住所訊いておいていい?」
「放課後、そのまま案内していいけど」
「一度帰りたいから」
「そ、そっか。そうだな。ごめん、はは……」
 一度帰るって、それは私服になって会いたいということか。あるいは、夏だから汗を流したいのか。
 どれだけ期待させるんだ。いや、もうたぶん期待じゃない。これは確実に、雪舞は俺と親密になりたいと思っている。
 俺はノートのページをちぎって、住所とケータイの番号をメモした。「もし近くに来て、家分かんなかったらこれに電話して」と言うと、「ありがとう。助かる」と雪舞はこくりとした。雪舞のほうも、着信時に気づくためにと電話番号を俺に教えてくれる。
「じゃあ、夏休みになったら行くね」と雪舞は俺の席を離れていき、俺はぼうっとその背中を見送った。ほうけていたので、こんな浮かれた話題だったのに、雪舞にひとかけらも笑顔がなかったことには気づかなかった。
 夕彩にさっそく報告しようと思ったものの、万にひとつ、この会話だけで雪舞が訪ねてこなかった場合も想定した。とりあえず、雪舞が実際に部屋に来た日に伝えよう。それまでは、どんな相手にもこのことは黙っておく。
 雪舞は俺の部屋でふたりきりになって話せばいいと思っているのか、それ以降は俺に教室で近づいてくることはなかった。席が隣になったらどうしようレベルだったのが、いきなり、つきあうことになったらどうしようレベルに引き上がって、俺は始終そわそわしてしまった。だが、こちらからも特に馴れ馴れしく雪舞に話しかけることはしなかった。
 夏休みは、すぐ始まった。弟の初栞はつりはまだ五歳にもなっていなくて、心配しなくても、かあさんのあとをついてまわってばかりいた。雪舞のことでふわふわしているとはいえ、俺は今年は受験生でもあるので、勉強という名目で初栞の面倒を押しつけられることもなかった。
 部屋で参考書と向き合いながら、かたわらのケータイに着信がつかないかに気を取られる。昼食にはそうめんを食った昼下がり、昼寝に入った初栞の隣でかあさんもうたたねをしていた。俺は勉強を再開しようと部屋に入り、そうしたら、ケータイに着信のランプが明滅しているのに気づく。
 青のランプだから通話着信だ。まさか、と慌ててケータイを手にして開くと、雪舞からの着歴が一件残っていた。まだ五分くらい前だ。
 俺は急いで折り返しの電話をかけた。コールのあと、『もしもし』と耳元で響くのがくすぐったい感じの、雪舞の声がした。
「あ、ごめん。昼飯食って、ぼんやりしてて」
『そう。今から行こうと思うんだけど、いい?』
「もちろん。ちょうど今、親も弟も昼寝してる」
『そっか。じゃあ、起きる前に早く行ったほうがいいかな』
「俺もそう思う」
『ありがとう。今は駅なんだけど、金居くんの家まで何分くらいなんだろう』
「十五分くらい歩くよ。駅、迎えにいこうか?」
『ううん、平気。暑いしね。すぐ行くから』
「おう。麦茶か何か淹れとくわ」
『うん』と雪舞は答えると、電話を切ってしまった。俺は緊張していた心臓が、今度は熱っぽく速足になっていくのを感じる。
 雪舞がいつ来てもいいように、部屋はすでに片づけていた。クーラーも入っていて、ばっちり涼しい。キッチンから、俺と雪舞のぶんの麦茶のグラスを持ってきておいた。
 迷ってから来るかもな、と思っていたので、また雪舞から着信があったときは迷子の相談かと思った。しかし雪舞は、『金居くんの家の前に着いたよ』と言った。
「えっ。あれ、チャイム壊れてた?」
『弟さん眠ってるなら、起こしちゃいけないかなと思って』
「なるほど。はは、気遣いありがと。すぐ玄関開ける」
 俺はケータイを持ったまま、二階の部屋を出て、むっとした階段を降り、玄関に出た。一度大きく深呼吸して、いよいよ雪舞とふたりきりだ、と覚悟を決めてドアを開けた──

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