H2O-6

彼じゃない人

 あたしたちは、懲りずに喧嘩と仲直りを繰り返した。水琴はさまざまな女と寝るのをやめなかった。
 あたしはそれを認めつつ、私情が絡むと聞き分け悪くなじった。コンドームを使わない彼に、妊娠させたらどうするのかと喧嘩で持ち出した。水琴は中では出さないからで済ます。だったら病気を移されたらと問うと、リオも道連れにすればいいとのたまう。冗談じゃないと激怒したあたしに、その喧嘩は長引いた。そんなことばかりしていた。
 喧嘩、仲直り、安泰、空白。あたしたちは回流する。本当のところ、喧嘩より空白が嫌いだった。水琴が訪ねてこないあいだ。
 水琴は日々あたしを訪ねてくるわけではない。だいたいは数日、たまには一週間以上音沙汰がないときがある。
 はたから見たら、あたしはさぞ滑稽な女だろう。ひたすら待って、待ち続けて、待つだけで。今度来たら怒鳴りつけてやる、と心に決めるときもある。しかし、あんまり来ないと、怒りは冷め、早く会いたいと泣きたくなってくる。
 あたしから彼を訪ねることはなかった。彼の部屋、学校、まして遊んでいる街なんて行けば、彼は絶対誰かを連れている。そんなのとかちあえば喧嘩になるのがオチで、願い下げだった。
 空白のあいだ、講義やバイトのとき以外は、部屋でぼんやり座っていた。こうしてただ水琴を待つときは空っぽになる。感覚だけ鋭敏になる。ホコリのざわめき、陽射しの煌めき、部屋に染みこんだ自分の匂い。そういう些細なものを、静けさの中でくっきり感じる。
 過敏な知覚を持て余し、脚のあいだに指を這わせるときもある。知覚を外部でなく、内部に向ける。水琴の残像を探る。空白が長すぎて残像もなければ、幻覚に頼る。彼の顔、声、匂い、味、感触をかたちづくり、五官にそそぐ。あたしは指先を濡らし、渦巻く靄を吐き出していく。
 吐き出さないと、鋭すぎる知覚は気をふれさせそうだった。あらゆることに影響されやすくなる。したあとには自己嫌悪になるけれど、寂しいとしてしまう。目を閉じ、軽く喉を喘がせ、水琴を狂おしく求める五感をひとりでなだめる。
「今日はした?」
 水琴はあたしの“処理”に感づいている。久しぶりに会うとき、意地悪くそう咲ったりする。あたしは彼を睨んでやりたくても、頬が染まっていては怖い顔もできず、そっぽを向いた。
 あたしたちの関係は、二年を越えていた。いろいろと危ういながらも、こんなに続くなんて、二年前には思ってもみなかった。すぐ捨てられると思っていた。
 彼は“あの”水琴なのだ。“あの”水琴が、誰かと二年以上も関係を続けているなんて奇跡だ。その上、相手があたしだ。誰もが認める才色兼備の人でも三日持ちそうにない水琴が、地味な自分を手放そうとしないのは、あたしにはいつまでも驚きだった。
 一生、こうなのかもしれない。水琴を待って、喧嘩して、仲直りして戯れて、また待つ。水琴に出逢っていなければ、こんなに親しくなっていなければ、あたしはきっといまだにじめじめした毎日を送っていた。水琴との回旋した単調と、誰もいない一本道の単調─―どちらがマシかと考えて、やはりあたしは水琴との日々を選ぶ。
「水琴は、あたし以外の人とつきあったことあるの?」
 子犬の兄弟みたいにベッドで一緒に毛布に包まっていて、自然とそういう会話になったことがある。
「ないよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「みんな寝るだけ?」
「うん」
「どうして」
「一回でいいから」
「………、水琴って、何でそんなふうに、いろんな人と寝るの」
「リオにやきもち妬かせたいから」
 あたしが眉間に皺を寄せると、水琴はげらげらと笑い出した。
「嘘だよ。何でだろうな」
「寂しい、とか?」
 水琴は噴き出した。
「援交みたいだな」
「援交」
「何となく。満たされた奴はしないじゃん。金にしても、精神にしても」
「……はあ」
「俺は別に寂しくはないよ。リオがいるし。いてくれるだろ?」
 あたしがこくんとすると、水琴はにっこりしてあたしを抱き寄せた。冬だったから、彼の体温が伝う感触は幸せだった。
 けれど結局、はっきりした答えは聞きそびれてしまった。なぜ、彼は、いろんな女と交わりつづけるのか──
 やがてあたしは大学二年生になり、水琴は専門学校を卒業した。彼は知り合いの先輩のツテで、映像系の仕事の見習いとして働いているようだった。
 ぽかぽかした陽気が初夏に移った頃だった。大学を出て駅への道のりを歩いていた。水琴との空白が長びいて、心が重たくなりはじめていた。陰気を発するには至っていなくても、もうじき来るかな、と公園沿いを歩きながら期待を抱いていると、ふと背中に声がかかった。
 振り返った。背後にいたのは知らない男の子だった。髪を深い茶色に染め、小動物みたいなぱっちりした瞳を持った、同い年くらいの男の子だ。ごく薄いグレイのTシャツに、インディゴのジーンズ──足元はスニーカーだ。ぱっと見かわいいといった感じでも、さすがに背はあたしより高い。
 誰、と本能的に畏縮した。「こんにちは」と彼のほうはにっこりする。あたしの人見知りは健在で、どもりそうになりつつ同じ言葉を返した。
 誰、この人? 旋回する疑問は引き攣った作り咲いにも表れていたのか、彼は少し首をかたむけた。
「僕のこと、知らない?」
「えっ。し、知らないです……けど」
「……そっか。講義、よく一緒なんだけどな」
「え。あ──そう、なんですか」
 あたしは大学にも友達らしい友達はいなくて、基本的にひとりだった。私生活でも、瞳を重ねるのは水琴ひとりだけれど。
 彼は希里きさとという自分の名前を名乗り、ついで、あたしのフルネームも言い当てた。きょとんとしたあたしに、希里くんはちょっと逡巡したあと、まっすぐ言ってきた。
「ずっと見てたから。僕、君の友達になりたいんだ」
「はっ?」
 声が裏返って、あたしはぱっと頬を染める。希里くんは咲った。
「ダメかな?」
「え、いえ。別に」
「ほんと?」
「まあ……」
「よかった。じゃあ、今日ヒマ?」
「えっ。いえ、今日は」
 水琴が顔を出すかもしれない。水琴に会う時間は、何にも譲れない。
「そう。じゃあ今度、時間ちょうだいね」
 希里くんは再びにこっとすると、あたしを追い越していった。残されたあたしは、ぽかんと彼の背中を見つめた。グレイのTシャツの背面には、英文字の落書きプリントがあった。
 その日を切っかけに、希里くんはあたしに親しく接ってくるようになった。最初はとまどったものの、徐々に希里くんの視線が含むものに気がついた。
 けれど、応えられなかった。希里くんが、浮気相手でもいいと思っているのは分かった。できなかった。あたしの心は水琴でいっぱいで、目移りする余裕はなかった。喧嘩だって愛情の裏返しだったし、二年以上のつきあいだろうと、あたしは水琴に夢中だった。
 希里くんはあたしに恋人がいるのは知っていた。相手が水琴であることは、あたしの口から知った。希里くんも水琴のうわさは耳にしていた。話してみると、彼もこのあたりの人間で、最寄りの駅まで一緒だった。
 その日、あたしと希里くんはその最寄り駅内のファーストフードにいた。水琴が好きなのかと問われ、気恥ずかしくてやや躊躇ったものの、はっきりうなずいた。希里くんはあたしを見つめ、カフェオレを飲んだ。
「僕、ずっと思ってたんだ。相手があいつだって知って、もっと思うようになった。君は、きちんと想われてるのかな?」
「えっ」
「もう分かってるよね、僕は君が好きなんだ」
 面と向かって口にされると、ついまごついて、手元の烏龍茶に視線をそらしてしまう。
「その気持ちをさしひいて見ても、だよ。誰が見たって、彼にとっての君は、都合のいい存在だ」
 希里くんを見た。彼はまっすぐあたしを見ている。
「いい逃げ場だよ。だいたい、何で君とつきあってることだけはさらさないんだろう。君っておとなしいから、つけこまれて利用されてる気がするんだ」
「利用……」
「相手があいつだって知る前から、彼氏に幸せにしてもらってないみたいだなって感じてた。あいつだって知って、なるほどって思った。僕は彼が君を想ってるとは思えないよ」
 あたしは平静を繕い、冷たい烏龍茶に口をつけた。水琴はあたしを想っていない──
「あなたが、知らないだけで。あたしと水琴は恋人としてちゃんとしてるよ」
「ちゃんと? 僕の女友達にもいるよ、彼と寝たって子は」
「それは──水琴が、そういう人だから」
 あたし自身、水琴にそう言われても納得しないのに、希里くんが納得するわけがなかった。
「そんなの、詭弁にもなってないよ」
 あたしもそう思う。だけど、あたしは水琴を信じているのだ。
「君はそれでいいわけ? 悔しいだろ」
「あたしのとこに帰ってはくる」
「すぐ出ていくんだろ、どうせ」
「いつかは帰ってくる。あたしは待てる」
「あいつがそれを嗤ってても?」
 希里くんと睨みあった。あたしの目はとげとげしかったが、彼の目は真剣だった。けして浮気心をあおろうとしているだけではないようだ。希里くんの気持ちが、心配してくれる真摯なものであるほど、かえってどうすればいいのか分からなくなってしまう。
 外は暗くなってきていた。夕方のラッシュに合わせて、店内のざわめきも広がっていく。
 あたしと希里くんは店を出ると、別れ道まで並んで歩いた。水琴以外の男の子と並んで歩くのは、希里くんが初めてだ。景色の陰影が深まっていく。
「希里くんは、水琴をよく知ってるの?」
「え」
「ずいぶん水琴を深く分かってるみたいに言うから」
 彼はばつが悪そうに、「話で聞くだけだけど」と口調を濁す。
「君のことはよく見てた。いつも哀しそうだった」
「あたしの性格だよ」
「恋愛してるのに」
「恋愛してたら、幸せそうじゃなきゃいけない?」
「そうじゃないけど」
 話しているうち、あたしの部屋が近づいてくる。だけどその前に、十字路で赤信号に引っかかった。
「君が落ちこんでるのは嫌なんだ」
 希里くんを一瞥した。彼はやはりまっすぐ見つめてくる。
「彼はいろんな人と寝てるんだ。君もすれば?」
「………、でも」
「じゃなきゃ、彼はつけあがるよ。対等になりたくない?」
「別に、いいよ。浮気したって虚しいし」
「言い切れる?」
 口ごもった。その考えが、頭をかすめるときはある。
 だけど、あたしには男の子を引っかける勇気がないし、万が一、水琴を失ったらという恐怖にも耐えられない。隠せたとしても、あたしの中には虚しいやましさがわだかまる。水琴の瞳を見つめるのがつらくなるのは嫌だ。
 不意に希里くんの手があたしの手をつかんだ。はっとしたけれど、彼の握力が意外に強くて、振りはらえない。
「僕は君をそんな気持ちにはさせないよ。させたくないから」
 あたしはうつむいた。足元には、宣伝ポケットティッシュの空が転がっている。
「あいつはじゅうぶんだろ。僕とつきあって。君もそっちのほうがいいよ」
 彼の手の熱が指先に流れこんでくる。あたしは頬をほてらせる。恥ずかしかった。駅前の交差点で、周りにはかなり人が行き交っている。
「別れなよ」
 熱が過ぎて、瞳が潤んでくる。希里くんが何を言っているのか分からなくなってくる。
「それで僕とつきあって。僕は君を大切にするよ」
 希里くんの手に力がこもる。少し汗がすべった。希里くんの汗なのか、あたしの汗なのか、ふたりの汗なのか。
「あいつみたいに、自分の都合で行動したりしないし。会いたくなったらそばにいるよ」
 希里くんの指があたしの指に絡みつく。
 水琴とも、こんなふうに手をつないだことがある。初めて寝た日だ。あのときはすごくどきどきした。今は恥ずかしくて頬は熱くなっていても、胸はただ困惑している。
「彼は君を愛してないんだ」
 希里くんを見た。
「別れたほうがいいよ」
 希里くんもあたしを見た。視界の端で、横断歩道の信号が青になる。歩き出せなかった。じっと視線がぶつかりあっている。彼の手があたしを引き寄せる。
 あたしは、自分がどうしたいのか混乱した。このまま希里くんの腕を受けるのか。押しのけるのか。手は振りほどくのか、彼の腰にまわすのか。水琴に駆け戻るか、裏切るか──

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