Koromo Tsukinoha Novels
夕食前に、かあさんは遥を部屋に案内して、リビングには僕ととうさんが残った。
遥が出ていくと、ふっと空気が軽くなり、遠慮ないため息を肩から抜いてしまう。するとこめかみを小突かれ、「痛っ」と僕はとうさんを向いた。
「何?」
「もっと愛想よくできないのか」
「したつもりだよ」
「お前は役者にはなれないなあ」
「別にならなくていいよ」
とうさんはかあさんよりふたつ年下で、三十台なかばだ。すらりとした体質で、僕がかあさんに似たのは、そのあっさりした顔立ちのせいもあるのだろう。
「いきなりは無理でも、徐々に仲良くなってくれよ。悠芽が砕けないと、遥くんも心を開きにくいだろ。兄弟なんだ」
兄弟ね、と絨毯の起毛に爪先をにじる。僕は長年、ひとりっこをやってきても、兄弟が欲しいと思ったことはない。だから、その言葉で遥に嬉々と努力しようとは思わなかった。
僕だって、遥に砕けてもらわないと心は開けない。遥より僕のほうが、人間関係を円滑にする能力があるのは事実だろうが。「悠芽ならできるよ」ととうさんは僕を励ます。
「希摘くんとも仲良くやってるじゃないか」
「希摘は希摘だよ。それに、希摘って行動ほど性格は変わってないし」
「そうか?」
「そうだよ」
本当はけっこう変わっている親友を想う。ただし、希摘と親しくできるから、遥にも応用できるとはやはり思わない。そもそも、希摘は心を閉ざしたりしていない。心を開く人間のふるいが異常に厳しいだけで、開いてもらえば一緒にいて居心地のいい奴だ。
「どうやってつきあったらいいのか、分かんなくて」
「それは、とうさんたちだってまだ同じだ。これから見つけていくんだ。避けてたら分からないままだろ」
「近づいたら、嫌がられそうだよ」
「悠芽は、遥くんと近づきたくないか」
「………、分かんない。あいつが、どんな奴なのか知らないし。何も変えないほうが、無難だったとは思う」
「同い年の子供がいるのはむずかしいって、施設の人にも言われたけどな。でも、放っておきたくなかったんだ」
消えたテレビに白熱燈が映っている。落ち着いてきた心臓で、夜の静けさに気づき、初めて遥について聞かされた夜が何となく脳裏をかすめた。
ネクタイを緩めるとうさんを見て、「いいんだけどさ」と僕は言う。
「僕、この家の王様ってわけじゃないし。とうさんたちがそうしたかったなら、それでいいよ」
とうさんは微笑み、「お前なら遥くんと仲良くなれると思ったんで、引き取らせてもらったんだ」と僕の頭に手を置いた。僕が曖昧に咲って、何も言わずにいると、かあさんがひとりで戻ってくる。
遥は部屋を片づけているそうだ。遥の部屋は、今年に入った頃に作られはじめ、あとは暮らす人間が来るばかりになっていた。
僕は夕食まで部屋にいることにして、ベストの中に身を縮めて、寒い階段をのぼる。
僕なら仲良くなれる。どうだか、と閉まった遥の部屋のドアに息をつくと、僕はドアノブをおろして、部屋にすべりこんだ。
法的にも遥がこの家に来ると決定したのは、去年の暮れだった。僕がうなずいて以降の半年、遥は施設で社会に出る心理的なリハビリを行なっていたらしい。それがどんな内容かは知らないけど。
遥は、ただの親に死なれた少年ではない。それを僕が聞かされたのも、遥と暮らすのが確定した連動で、年の瀬だった。
遥はずっと、両親に虐待されていた。
僕のとうさんは、親との確執に負けずに、満たされた家庭を持てた。遥の父親は負けて、弱い人間に堕ちた。不安定な精神に働きもできず、いらだちのはけ口に酒を飲んでは、妻や遥に暴力をふるった。遥の母親は、夫の暴力に疲れ果て、息子をかばうどころかやつあたりに利用した。
遥が両親にどんな虐げを受けたのか、その詳細は僕は聞かされていない。ただ、とうとう切れた母親が、父親を包丁で殺すのを眼前で見た上、近くの海で心中させられそうになったのは聞いた。そして母親は息絶え、遥は命を取り留めた。
映画みたい、とそのへんに疎い僕は不謹慎な感想を持った。心を閉ざし、口もきかなかったのは、分かる気もする。とにかく遥は、僕の想像を絶する環境で育ち、めちゃくちゃに心を殺傷されているのだ。
その話を聞かされ、僕はいっそう遥とのつきあいに糸口をつかめなくなった。どうつきあえばいいのか、見当もない。たぶん、遥の神経は、ものすごく鋭利になっている。のんきに生きてきた僕には、分からない理由で、いらついたり傷ついたりする。
どうやってその微妙をつかみとり、親しくなれずとも、逆撫でずにいられるのだろう。遥の気持ちが分からない。たとえば、遥は親が死んでどうだったのか。嬉しかったのか。哀しかったのか。ほっとしたのか。そんなのも読めないのだ。
あるいは、感情など吹っ飛び、何も感じなかったのだろうか。それはそれで、つかみどころがなくてやりづらい。
自己投影するには、想像力が不足する。僕だって、人並みに親を疎んだりしても、最終的には、あのふたりは自分の味方だと信じている。頭の中で虐待されてみても、ふたりに分別や愛情があるのをよく知る認識が、光景を空々しくさせる。
僕には、遥の気持ちが分からない。僕と彼は、根本が違うのだ。どんな思索も決まってそこに行き着き、でも彼と出会うのはもう避けられなくて、僕はしょっちゅうベッドにぐったりしていた。
今日、実際に遥に会ってみても、取っかかりはなかった。逆に、親しくなれない実感は強くなった。あそこまで、はっきり相手に壁を感じたのは初めてだ。
きっと、遥にも僕と仲良くなる気なんてない。何もつかめなかったことで、拒絶はきっぱり伝わってきた。逆らって馴れ馴れしくしたら、遥の機嫌を損ねるし、僕自身、彼に近づきたい情熱もない。ここは素直に放っておくのが適当でも、この先、何年も同居するのを想うと扞格もつらい。
親しくなってみるか、無視を決めこむか、そんな大まかな方針も決まらない。
きしめきと共にベッドに仰向けになって、耳を澄ますと、隣の部屋の物音が聞こえる。初めから来なきゃいいのに、という思考の中断は、もうできない。
遥は実際ここに暮らしはじめた。どうつきあうか、方針は決めないと、家庭がわずらわしい場所になって最悪だ。
僕は、どうしても仲違いしていたいわけではない。ただ、遥が僕に心を開きたくないと思う。僕相手じゃなくても、たぶん、遥には他人に心を開くということが困難だ。
仮に開かれても、僕はそのぼろぼろの心に、どんな態度を取ればいいのだろう。持て余してもっと傷つけるなら、隔絶の気まずさがマシな気もする。
分かりきっているのは、僕には遥の傷を癒したりできないということだ。しかし、黙殺ばかりだと親に小言をもらいそうだ。唸って、まくらに顔を伏せる。
あいつが来なきゃ、こんなの考えずに済んだのに。今日もやっぱりそう思ってしまい、僕は気分を切り替えようとベッドを降り、本棚に並ぶ本でも読むことにした。
そうして、遥と同居する毎日が始まった。僕と遥の関係は、同じクラスでも交流がないクラスメイトに似ていた。必要となれば口をきいても、なるべく避けて、関わらない。特に遥にその傾向が強く、僕がときどき笑みを作っても、彼はそっぽを向いて、すぐ部屋に閉じこもった。
僕も、そう寛大な人間ではない。行き場を失くした笑みと取り残されてばかりいたら、取り合う気もなくなってくる。虚しさにいらだたしくなり、遥と暮らしはじめてたった三日目で、彼の存在が忌ま忌ましくなってきた。
心に傷がある人間とつきあうには、根気がいる。どこかで聞いたが、遥はまさしくそうだった。フィクションの登場人物みたいに、たやすく寄りかかってきたりせず、心を閉塞させることにひどく狡猾だ。
表情がない、目を合わせない、口をきかない、気配がない、何しろ、人間として欠落だらけで得体が知れない。何を考えているのかいっさい読めず、不用意に背中を向けるのは怖い感じだ。
僕は遥に対し、親近より警戒が先決なのではと思うようになった。遥は冷淡さで外界を排斥し、イガの深奥に心を押しこめ、生身の自分をさらさなかった。
両親は、しばらく遥はそういう状態だろうと鷹揚にしている。そうかなあ、と僕は夕食の醤油をかけた焼き魚を箸でほぐしている。遥は食欲がないとかで、降りてこなかった。
彼には疎外感もあるのだろう。あとで仲間入りするというのは、かなりいたたまれない。
けれど、僕は遥に同情はなかった。僕たちは、確かに遥に満足な受容を与えられていない。だが、それ以前に遥が受容されるのを拒んでいる。この状態には、遥の非もあると思う。
だいたい、嫌ならこの家に来なければよかったではないか。彼には、施設に残るという選択肢もあった。
このままだったら、永遠にこのままだ。それで僕は、「ごはん食べなくて平気?」とか、けっこう頑張って遥に愛想良くする。だけど、せいぜい返される反応は、眉間の皺だ。見え透いた自分を反省もするけれど、遥と親しくなることに、僕は嫌でも徒労を覚えるのだった。
そういう態度を保たなければ、殺されてもおかしくなかった環境にいたのは分かる。場所が変わったといって、不信感が容易に解けないのも分かる。心を開く価値がないと、僕たちを見限っているのも分かる。
だが、僕はそんな遥の心に、同情することはできるかもしれなくても、理解はできなかった。同情は勝手にやれても、理解は心に触れないとできない。独断で理解したつもりになるなんて、それは最低だろう。遥は、ひとりよがりにこの家を嫌悪している。拒絶さえ、僕たちと分かちあわないのだ。
話しかければ切り上げ、咲いかければそっぽを向き、顔を合わせれば目をそらす。遥はひたすら、僕たちを拒絶する。その拒絶をやわらげる術があるとしても、遥が僕たちに味方になってほしいと思わない限りは、時間さえも解決にならないように思えた。
遥とのつきあいの絶望性に、僕はうんざりした。断絶が明白なのに、なおも彼と心を共有しようなんて思えない。僕はそんなに優しくないし、ヒマじゃないし、そもそも、そこまで遥に誠意を尽くすなんて理不尽だ。
遥は僕の何様でもない。形式的な愛想は、一縷の義理と一抹の期待で続行する。けれど、僕は本質的には遥によそよそしく、親しくなれる日が来るなんて、本気では思わなくなっていた。
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