男心は謎である
だって、夢見がちな少女漫画じゃないんだから。
そんなの、当たり前だよね。分かっていた。十八歳だった私が、二十八歳の彼に振り向いてもらえるなんて、そんなのはありえなくて当然だった。
十歳差。それでも好きだったよ、奈木野さん。あなたに失恋したことは、私にとって死んでもいいくらいの痛手で、あれから七年経って、今年二十五歳、私は完全に恋愛音痴な女になっている。
男の人との距離の取り方が分からない。男の人が何を考えているのかも分からない。
私のこと好きなのかなとか、好きになってもいいのかなとか思ったら、まったくの勘違いで彼女がいたり。かと思えば、実際私を見ている男の子の視線には、人に言われないと気づかない。そして、それにどう応じればいいか分からないから、どんな人か知ろうともせずに、さりげなく避けはじめる。
だから、この歳になって彼氏がいたこともない。同級生の友達には、結婚する子だって現れているのに、私はこのまま一生ひとりなのかなと憂鬱に襲われる。
結婚願望が強いわけじゃない。イメージが湧かなくて面倒そうだとさえ思うけれど、一生独り身で孤独死したら、とまで考えると怖い。
恋愛が嫌だとは思わない。わずらわしいわけでもない。といって、彼氏が欲しいと飢えてもいない、そばにいたい人がいたら、幸せだろうなあとは思う。
ただ、そんな人とどうやって出逢うのか、どんな話すきっかけを持つのか、どう関係を発展させるのか、まったく何も分からない。
奈木野さんは、高校の美術部のOBで、よく顧問の先生と一緒に私たちの面倒を見てくれていた男の人だ。美術部、といっても、実際はお茶を飲みながら雑談しているような部だった。引っ込み思案でクラスではおとなしいけど、部活ではリラックスできる──そんな部員が多かった。
その中にも入れずに迷っている子を、奈木野さんがよく助けて輪に入れてくれていた。私もそのおかげで、クラスでは目立たなくても部活では友達ができた。「彼女いるの?」と女子生徒に訊かれると、「どうかなー」なんて奈木野さんははぐらかしていたっけ。
卒業式、必死の想いで連絡先の交換をお願いしたら、「ほんとは後輩を贔屓しちゃいけないから、みんなには内緒だよ」と言われて、連絡先を教えてもらえた。それから、メッセしたり、通話したり、会うこともあって、私はどんどん奈木野さんが好きになっていった。
頭を撫でる手、身を預けた腕、肌をたどった指──戻れないところまで来ていたのに、晩夏の頃、奈木野さんは私からの誕生日プレゼントを受け取らなかった。
「いや、誰からもらったかって彼女がうるさいからさ」
私は、ぽかんと奈木野さんを見つめた。
何。今、何て。彼女? 彼女って言った?
あ、……れ、そういえば、私はいつから、自分が奈木野さんの彼女の席に一番近いと思っていたのだろう。
連絡先知ってるけど。デートみたいに会ってるけど。軆も重ねたけど。私、奈木野さんに「好きだよ」ってキスされたことは、一度もない──
あとは、単位を落とさないようにぎりぎりの精神で、勉強ばっかりしていたことしか憶えていない。四年経って卒業したら、一年間はレストランのバイトに実家から通ってお金を貯めて、去年からは同じ店でバイトを続けるままひとり暮らしを始めた。
連絡先のアプリは、一度アカウント削除して変えたから、奈木野さんとは現在は何の接点もない。それでいい、と思えるようにもなった。
けれど、新しい恋を手に入れる努力には、踏み出せていない。
「悠海さん、お疲れ様です」
いつも私は、十二時のランチタイムからバイトに入って、夕方にまかないを食べながら休憩し、二十時に上がる。お店は深夜二時まで営業していて、夜番で入ればラストまでいるけれど、たいてい私はお昼からの中番だ。
今日も二十時過ぎにタイムカードを切って、そのまま制服を着替えもせず、疲れた、とバックヤードのテーブルに伏せっていた。すると不意に背中にそんな声がかかって、目をこすって顔を上げると、高校生バイトの男の子が覗きこんできている。
「あ……うん、お疲れ様」
「寝てました?」
「うーん、一瞬」
「危ないなあ。あ、俺も上がったんで、今日も送ります」
紅磨くんという彼は、去年の夏からこのレストランでバイトしている高校生だ。上がる時間が同じくらいだからと、夜道を一緒に歩いてもらうのがすっかり習慣になった。
けれど、去年高二だったから、この春に受験生になったはずだ。バイトなんてしていて大丈夫なのだろうか。
「紅磨くん」
「はい?」
従業員の冷蔵庫から、名前を書いたコーラのペットボトルを取り出し、ごくごく飲んでいた紅磨くんが振り返ってくる。しっかりした眉、人懐っこい瞳、大きな口、何だか子犬っぽいよなあと思う。
「今月、高三になったんだよね」
「なりましたね」
「バイトしてていいの? 進学って話してたような」
「勉強を手抜きしないなら、バイト続けていいとは親に言ってもらったんで」
「ふうん……」
それってなかなか、大変な気がするけれど。まあ、私が細かく口出しすることでもないか。「あんまり無理しないようにね」と言うと、「悠海さんも寝るのは帰ってからにしてください」と笑いながら返され、「はあい」と私は肩をすくめて椅子を立ち上がった。
制服から私服になるあいだに、バックに夜番の子が休憩に入ってきた。鍵はその子たちに任せ、高校のブレザーすがたになった紅磨くんと裏口から店をあとにする。
四月になって半月が過ぎたけれど、夜風はまだひんやりしている。厨房の匂いがただよう小道を抜けると、足元は暗くても車道沿いで、飲食店がちらほらしているから前方は明るい。車のヘッドライトが交差する車道に沿っているあいだはすれちがう人もいるけど、脇道に入って住宅街に入ると、ぐっと暗く静かになるので、正直、紅磨くんが一緒に帰ってくれる日は心強い。
「悠海さんは、あの店で何年目でしたっけ」
「ん? ちょうど三年目だよ」
紅磨くんとは七歳離れているけれど、職場の同僚なのであんまり年下という感覚がない。私は実際にはひとりっこだけど、たぶん気の合う弟のようなものだ。
「就職ってしないんですか」
「痛いとこ突くなあ。そうだね、しなきゃいけないけど」
「じゃあ、いつか辞めるんですか」
「あんまり古株になりすぎるのもうざいでしょ」
「そんなもんっすか」
「何となく。就職かあ。やりたいことないなー」
「大学は出たんですよね。何専攻でしたっけ」
「心理学とか……そういうの」
「カウンセラーとかなりたかったんですか?」
「なりたかったのかなあ。高校時代、何考えてたのか忘れちゃった」
私はあやふやに咲って、まさか、失恋で何もかも吹っ飛んだとは言えないなと思う。
「紅磨くんはなりたいものとかあるの?」
「俺も、わりと心理学とか興味あります」
「レポートえぐいよ」
「はは。でも、それで人の助けになれる知識がつくなら」
「………、私も、昔はそんなこと思ってたのかなあ」
すうっと風が抜けて、私のショートボブの髪がなびく。
夜闇にそそぐ月明かりに、通りかかる公園の葉桜が浮かぶ。その公園の向こう側が、私の暮らす三階建てのアパートだ。明かりのついている窓のほうが多い。
手前の駐輪場で「今日も送ってもらってありがとね」と言うと、紅磨くんは笑顔で「悠海さんに何かあるよりは」と言ってくれる。
「紅磨くんも気をつけて。じゃあ」
「はい。おやすみなさい」
「ん。おやすみ」
私は手を振ってアパートの中に入り、郵便受けにつめこまれたチラシを、設置されているゴミ箱に放って、二階に上がった。
紅磨くんに彼女いるなら悪いことしてもらってるな、と思う。そういう立ち入った話はしたことがないけれど、まあ紅磨くんならいるだろうかと思っている。確か共学とか話してたしなあ、とドアの鍵を開けて真っ暗な部屋に入ると、明かりをつける。
バイトには基本的に週五出ていても、やはり正社員ではないので、贅沢に暮らせるわけではない。ワンルームだし、クローゼットはないし、洗濯機は外置きだし。それでも、気楽に自由に暮らせて満足している。本当に困ったら、実家も三駅先くらいでそんなに遠くないし。
明日も出勤だから、早くシャワー浴びちゃって寝よう。そう決めると、スマホを充電につないだり、PCに来ているメールをチェックしたりして、着替えとタオルを抱えるとユニットバスに向かった。
職場には徒歩十五分くらいだから、朝はかなり寝坊できる。洗濯や買い物をすると決めた日は、頑張ってベッドを這い出すけど、そうでなければ、ぎりぎりまでふとんの中で、スマホでSNSを見たり電子書籍を読んだりする。
このだらける時間、ベッドの上で動画を観れたら最高だから、タブレットを買おうか迷っている。携帯ショップにゆっくり行ける日が欲しいなあ、とか思いながらあくびを噛んで、十時半を過ぎてやっとベッドを降りる。
背伸びをして、まくらもとのペットボトルのお茶を飲むと、よし、とまずは洗顔することにする。
朝ごはんはいつも手軽にトーストだ。毎日バターは飽きるから、チーズの日もあれば、チョコスプレットの日もある。今日は甘い香りのいちごジャムにして、コーヒーミックスで手軽にカフェオレを作ると、それを飲みながら衣装ケースから服を取り出す。
どうせ仕事中は制服になるので、飾らずにボーダーTシャツとレギンスパンツとかになる。接客業だから化粧はわりとしっかりやる。身支度が整うと、バッグの中身を確認して、鍵をつかんで部屋を出る。
雲もなく青空が広がって、よく晴れていても、陽射しはそんなに強くない。今が一番、いい気候の時期だ。連休過ぎるとすぐ暑くなるんだろうなあ、と思いながら、犬の散歩やベビーカーが集う公園沿い、騒々しい車道沿いを歩き、裏口の鍵は持っていないので正面からお店に入る。
朝番の同僚に「お疲れ様でーす」と挨拶しながら、バックヤードに素早く消えると、「綾川さん、お疲れ様」と穏やかな声がして私は「あ、」と顔を上げる。
「真垣さん。お疲れ様です」
バックヤードには、仕切られて店長のスペースがあるのだけど、そのPCの前から立ち上がってシフト表を眺めているこの男の人が、このレストランの店長で、同時に社員である真垣さんだ。
おっとりした物腰で、顔立ちも優しく、この店舗に限らず、研修などで交流する近隣店舗の女子にも人気がある。今年確か二十八歳だけど、見た目は大学生でも通用しそうだ。
「シフト、何か変更ですか?」
「いや、休んでよさそうな日を探してて」
「あー、みんな、真垣さんのオフに当たると不安そうですもんね」
「僕がいなくても大丈夫な子たちなのにね」
「私も真垣さんいると安心ですよ」
「うーん、綾川さんはさすがに自立しようか」
「はあい」と私は咲って、奥のロッカーへと歩いていく。
基本的にシフトは開店前の午前十時から入っている朝番と、十七時から入る夜番で構成されていて、私のような中番は少ない。だから、誰かと一緒に仕事に入ることも少なく、ひとりで制服すがたをチェックして店内に出る。
十五時までは、ランチタイムでとにかく目まぐるしく、ドリンクバーを利用するお客様とぶつからないようにしながら、店内を歩きまわる。十六時を過ぎて、ちらほらやってくる夜番の子たちと十七時の夕礼に参加するとそのまま休憩して、厨房のバイトの子に声をかけてまかないをもらう。そのときに学生バイトの紅磨くんなども駆けつけて、バックは一番騒がしくなる。
私は二十時まで頑張って、やっと一日が終わってくたびれていると、高校生で長時間働けない紅磨くんが上がってきて、「帰りますよー」と揺さぶってくる。「はいはい」と私は何とか立ち上がり、私服に戻ると、紅磨くんと帰路に着く。
ちなみに紅磨くんは、私の夜道のボディガードにちょっとした使命感があるようで、オフの日でも私を送るためにお店に来てくれたりする。「王子様だねえ」とみんなに揶揄われると照れているけれど、「俺が休みの日に限って、とかあったら嫌じゃないですか!」と言っている。
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