逃げるみたいに
茉莉紗さんは、紅磨くんのことどう思っているのだろう。紅磨くんは茉莉紗さんをそんなふうには見ていないようでも、茉莉紗さんは違うのかな。だとしたら、私なんて目障りすぎてしょうがないだろう。紅磨くんも、本当なら私より茉莉紗さんのほうがお似合いなのに。
そんなことを思って勝手に落ちこんでいると、「あれ」と声がしてはっと顔を上げた。
「こないだ紅磨と帰ってた──」
どきんと声のしたほうを見ると、綺麗な黒髪を伸ばした女の子が歩み寄ってきていた。茉莉紗さんだ。私は小さく会釈して、「紅磨くん、表で待ってますよ」と言った。
「あ、そうなんですか。今日は別々なんですか?」
「いえ、送ってもらいます……けど」
茉莉紗さんは私をじっと見つめてくる。圧迫するような視線に息苦しさを覚える。
「送ってもらうだけなんですか?」
「えっ」
「家に上げたりとか──」
「し、してないです。そんな、……犯罪なので」
「ふうん……自覚はあるんですね」
どことなく口調にトゲがある。ついうつむいてしまうと、「あんまり、紅磨に踏みこんでこないでくださいね」と茉莉紗さんはスマホを取り出す。
「年下だからって、ナメて遊ぶとか最低」
私は茉莉紗さんを見た。何。遊ぶ、なんて。そんなつもりはない。でも──はたからは、そう見えるのだろうか。
私が紅磨くんに本気になるなんて、やはりおかしい? 年下の男の子なんて、適当にあしらっておくべき?
通話を始めた茉莉紗さんは、「今裏口みたいなとこにいる」と言っていて、相手は紅磨くんだと察した。駆け足が近づいてきて、「何でこんなとこいるんだよ」と紅磨くんの声がかかる。
「裏から出てくると思うじゃん」
「変に気いまわさなくていいし。すみません、悠海さん」
「………、」
「悠海さん?」
私はバッグの持ち手を握りしめ、「ええと」と顔を上げられないまま言った。
「私、やっぱり帰るね」
「俺も帰りますよ。茉莉紗、ほら、菓子」
「ここまで来たんだから、何かおごってよ」
「何でだよ。俺は、」
「紅磨くん、私……大丈夫だから。今日は茉莉紗さんとごはん食べていったら」
「いや、でも──」
「邪魔しないから。ごめん、私帰る」
「悠海さん、」
「ごめんねっ」
そう言って、私は紅磨くんの脇をすりぬけて駆けだした。「悠海さんっ」と聞こえても追いかけてこないのは、茉莉紗さんが引き止めているのだろうか。
やっぱり、茉莉紗さんは紅磨くんのことを想ってるんだ。それは、私が邪魔者だなんて納得いかないよね。こんな、年上の、あの子たちから見たらおばさん──
ずき、ずき、と心臓が鼓動に合わせて痛む。嫌だ。こんなのは嫌だ。
心が痛む恋なら、私はしたくない。紅磨くんとなら幸せな恋ができるかなと思ったけど。こんな些細なことで心が痛くなる。やっぱり、私はもう、恋なんてダメなんだ。恋では泣きたくないなら、恋なんてしないほうがいい。
翌日はめずらしく出勤する気が重かったけど、サボるわけにもいかない。もう紅磨くんとしゃべったりしないほうがいいのかな、と思いつつ部屋を出ると、小雨が降り出していた。
傘をさして、跳ねる雨音をぼんやり聴きながら歩き、職場に到着する。「お疲れ様です」とすれちがう朝番のメンバーに挨拶して店内を横切り、バックの傘立てに傘を預け、少し濡れたな、と肩の水気をはらってテーブルにバッグを置く。
すると、「お疲れ様」と声がかかって、振り返ると、仕切られた店長スペースから真垣さんが顔を出していた。「お疲れ様です」とほっとして私は微笑む。
「雨ひどい?」
「小雨です」
「そっか。でも、今日は売り上げ伸びないかな」
「雨の日は、お店静かになりますよね」
「雨宿りしてくれる人もいるんだけどね」
真垣さんはくすりとしてから、「少し休憩しよ」とマグカップを持って電子ポットの前に行った。私も十二時まで余裕があったので、椅子に腰かけてため息をついた。コーヒーを淹れた真垣さんは私の隣に座り、「大丈夫?」と尋ねてくる。
「えっ」
「少し疲れてる?」
「いえ。別に」
「そう。いつも週五で出てくれてありがとうね」
「それくらい出ないと、ひとり暮らし成り立たないんで」
「バイトだもんね。就職とか考えないの?」
「考えますけど、あんまり具体的には」
「ふふ、まあまだ綾川さんは若いしね」
「若い……ですかね」
「二十四じゃなかったっけ?」
「来月、二十五です」
「若いよ。僕なんてアラサーって奴だよ」
「真垣さん、大学生に見えますよ」
「はは。これでも、木ノ村くんとは十歳も違います」
「二十八でしたっけ」
「うん」
真垣さんはコーヒーに口をつけ、真垣さんはブラックなんだなあと思った。紅磨くんは、苦いのは無理だと言っていた。
「真垣さん」
「ん?」
「真垣さんは、その……店内恋愛って、どう思いますか」
真垣さんは私をちらりとして、「周りに迷惑をかけないなら自由だと思ってるけど」とコーヒーをすする。
「かけないつもりでも、無意識に迷惑になってる場合もあるよね」
「……そうですね」
「木ノ村くん?」
「えっ」
「最近、特に仲がいい感じだから」
「……つきあっては、ないんですけど」
「うん」
「まあ、お店以外で会うことはあります」
「そっか。木ノ村くん、綾川さんに懐いてるもんなあ」
私は少しうつむいてから、「紅磨くんには、同い年くらいの彼女が似合ってるのも分かってるんです」とつぶやく。
「私が、紅磨くん好きになったって……」
「まだ好きではないの?」
「よく分かんないです」
「そう。じゃあ、間に合うのかな」
「え」
「僕、綾川さんのこと頼りにしてるし、頑張ってるすがたで励まされてるし、好きだよ」
私は真垣さんを見た。真垣さんは微笑んで、「知らなかった?」と訊いてくる。
知らなかった、というか……え?
「え、え……真垣さん、」
「僕たち、同じ時期からこの店舗で頑張ってるでしょう。僕が一番信頼してるのは綾川さんだよ。だから、自然と好きになってた」
「好き……って、え、私──」
「木ノ村くんがうらやましいな。そんなに綾川さんに気にかけてもらえて」
真垣さんはおっとりした表情を崩さず咲って、「大丈夫だよ」と私の肩を軽くたたく。
「綾川さんが木ノ村くん気になるなら、邪魔はしないから」
「気になる、というか」
「綾川さんは魅力的な人だよ。木ノ村くんも、それは分かってる──」
「真垣さん」
「うん?」
「真垣さんは、私とつきあいたいとかは考えないんですか」
「無理にそうなろうとは思わないけど」
「じゃあ、私が紅磨くんとつきあっても平気なんですか」
真垣さんはやや考え、「多少つらいかもしれないけど」と答える。「じゃあ」と私は真垣さんを見つめた。
「私とデートしてくれませんか」
「えっ」
「このままじゃ、紅磨くん好きになっちゃうから……でも、そんなのたぶんダメなんです」
「何でダメなの?」
「……分からないけど。でも、真垣さんだったら、私も怖くないとは思うんです」
真垣さんはまばたきをして、首をかたむけてからマグカップを置いた。そして、「綾川さんがそう言ってくれるなら、僕はデートは歓迎するよ」と言った。私は真垣さんと目を合わせ、「じゃあ」とじっとその穏やかな瞳を見る。
真垣さんは苦笑のような笑みをこぼすと、「どこ行こうか」と言ってくれて、これは逃げてるのかなと考えながらも、私は真垣さんと恋ができるならその恋のほうがいいと思った。
【第八章へ】