雨が降り続く頃
梅雨に入って、雨が続くようになった。緑が目を刺すほど鮮やかになって、湿った匂いが立ちこめる。激しくない、優しい雨音は聴いていると眠たくなってくる。ひかえる夏の気配で、満ちる湿気はむしむししていた。
紅磨くんを避けたりはしていなかったけど、手をつなぐとか瞳を重ねるとか、親密な空気になりかけると、さりげなく手を引っこめたり視線をそらしたりして、近づきすぎないようになった。「悠海さん」とどこか哀しそうに紅磨くんに呼び止められると、「うん」と私はただ咲う。
紅磨くんは私の笑顔に何も言えず、うつむいた。どうしたの、と訊いてあげればいいのは分かっていても、私はあえて鈍感ぶってそれをせず、次のことに移った。
六月の下旬に入った頃、真垣さんとオフを合わせて会うことになった。午前十時、相変わらず景色を霞ませる雨が降っていて、傘をさして駅で待っていると、真垣さんは車で迎えに来てくれた。傘をおろして、「お邪魔します」と身をかがめて助手席に乗りこませてもらう。
車特有のこもった臭いは少なく、かといって芳香剤でかきけしてもいなくて、ただ真垣さんらしい清潔な匂いがした。フロントガラスをワイパーが行き来している。
雨の日でもいいように、映画館か、水族館か、プラネタリウムか、どれにするか決めておくように言われていた。「どこにする?」と訊かれた私は、「プラネタリウムって行ったことないので」と答えた。「了解」と真垣さんはナビに目的地入力をすると、ハンドルを握って車を発進させる。
「真垣さんはプラネタリウムとか行くんですか?」
「いや、雨の日のデート、で検索したら出てきたから」
「映画と水族館も?」
「そう」
「真垣さん、普段女の子とデートとかします?」
「普段からしてるなら、検索しないよ」
私は思わず咲って、「真垣さんはモテるんですよ」とシートに座りなおす。
「そうなの?」
「ほかの店舗の女の子とか、ヘルプで来ると騒いでますから。あと、会議で交流したときも」
「連絡先はよく訊かれるけど」
「アピールされてるじゃないですか」
「社交辞令と思ってた。僕なんて、そんなにおもしろい男でもないのにね」
「安心できるんですよ」
「安心できる男って褒め言葉かなあ」
「褒め言葉です」
真垣さんは咲って、「じゃあ、ありがとう」と駅のロータリーを出て、インターチェンジに向かう車道に乗る。
「最近、木ノ村くん元気ないけど、ほんとにいいの?」
「え」
「お客さんの前では頑張ってる。でも、食器を片づけてるときとか、思いつめた顔してるよ」
「……よく見てますね」
「仕事ですから」
「紅磨くんには、お似合いの彼女がいるんですよ」
「つきあってるの?」
「彼女のほうは紅磨くんを想ってるみたいです。その子にちょっと意地悪言われて、すぐ引っこむ私も情けないんですけど」
「意地悪」
「年下で遊ぶとか最低……だったかな」
「遊んでたの?」
「私はそんなつもりなくても、周りにしてみたら、私が紅磨くんとつきあおうとしてもそう見えるんだなあって」
「周りにどう見えるかで、決めなくてもいいんじゃないかな」
私は真垣さんを見た。真垣さんは正面を向いていて、横顔しか分からない。
「真垣さんって、私が好きなんですよね」
「うん」
「紅磨くんはライバルじゃないんですか?」
「ライバルだね」
「それにしては、紅磨くんのこと応援するんですね」
「うーん、僕といるときの綾川さんと、木ノ村くんといるときの綾川さんなら、後者のほうが幸せそうだから」
「幸せ」
「僕は綾川さんの幸せを自分の気持ちより優先したい」
「………、私には、真垣さんはもったいないですよね」
「そんなことないよ」
「もっといい人がいそう」
「はは、振られてる?」
「いえ。私でよければって思います。でも、やっぱり真垣さんには私は釣り合わないかも」
淡々と運転している真垣さんは、小さく含み咲う。
「意外と、綾川さんは人の目を気にするんだね」
「え」
「木ノ村くんのこともそうだけど、周りにどう見えるとか、釣り合わないとか。そういうこと、恋愛で気にしてたらキリがないと思うよ。好きなら好きで、それでいいんだよ」
「そう、なんでしょうか」
「木ノ村くんといると、楽しいでしょう」
「………、はい」
「それはよく知ってる。見てたからね。僕といても別に上司だって緊張してる感じはないけど、意識はされてないかな」
「……すみません」
「いいんだよ。どっちにもそぶりがあるような人じゃないから、そういうところも好きになったんだ」
私は膝に乗せたバッグを抱いた。何でだろう、と思う。
真垣さんに、どきどきできればいいのに。すごく、優しいことを言ってもらっているのに。鼓動は穏やかだ。紅磨くんとのデートのときみたいに、胸がいっぱいにはならない。
「僕は綾川さんが好きだけどね」
インターチェンジから高速に乗りながら、ふと真垣さんが言った。
「別に、つきあうのが目的ではないんだ。そうなれたら嬉しいけど、それが綾川さんにとっても幸せじゃないなら、意味がないと思ってる」
「真垣さん……」
「好きだから、綾川さんには幸せそうでいてほしいな。僕の隣じゃなくて、ほかの男の隣でもいいから。僕は僕で、のんびり相性が合う人をまた探すよ」
「……何か泣きそうなんですけど」
「今のうちに泣いてすっきりして、木ノ村くんの前でまた咲ってください」
私は顔を伏せ、唇を噛んだ。もう、もうもうもう。本当に、何でこの人にときめくことができないの。最高の男の人じゃない。身を預けて、甘えられる大人の人だよ。私はそういう人がそもそも好きでしょう?
なのに、どうしても紅磨くんの笑顔が今でもちらちらして、真垣さんとデートしたなんてこと知ったら傷つけるかなと不安で。どうしようもなく、私の心には紅磨くんが宿っている。
昼食に和食をおごってもらい、プラネタリウムも普通に楽しんで、紺のガラスに星の砂が入った、星空の雫のようなペンダントをお土産にプレゼントまでしてもらった。「ほんとはもうちょっと口説くつもりだったんだけどな」と真垣さんは困ったように咲った。
「ダメだね、僕も性格。木ノ村くんには勝てないなあって思うから、自分のことを自信持って勧められないや」
私は真垣さんを見上げて、「何か真垣さんらしいです」と微笑んだ。真垣さんはくすりとして、「僕と見たのは作り物の星だったけど、いつか、木ノ村くんと本物の星を見に行っておいで」と柔らかな瞳で言った。私はこくんとして、紅磨くんとちゃんと話そう、と思った。
それからまた駅まで送ってもらって、十八時過ぎ、ちょうど雨が上がっていた。私が助手席を降りると、真垣さんは窓を開けて「まだ明るいけど、気をつけて」と声をかけてくれた。「はい」と私はうなずき、歩道に一歩引いた。
真垣さんは手を振って、窓を開けたまま車を発進させた。私はそれをたたずんで見つめていたけれど、ふと背中に何か感じて何気なく振り返った。
「あ……、」
向けた視線の先には、同じく視線があった。制服すがたの茉莉紗さんだ。自販機のそばで何か飲みながら、こちらをじっと見つめている。
え。ええと。これは──
頭の中を落ち着けようとした。これはもしかして、茉莉紗さんが紅磨くんに、私が真垣さん、もとい、男の人と出かけていたと話されてしまう? 私の口以外から知られると、たぶんちょっとややこしい。かといって、茉莉紗さんに駆け寄って口止めするのも怪しい。
どうしよう、と狼狽えていると、不意に茉莉紗さんは缶をゴミ箱に放り、駅に向かって歩き出して人に紛れこんでしまった。
焦りが湧き起こってくる。どうしよう。茉莉紗さん、絶対紅磨くんに話す。
今、紅磨くんに電話する? いや、十八時ならバイトに出ているかもしれない。それとも、紅磨くんは今日はオフだった? 憶えていない。茉莉紗さんの話を鵜呑みにしないで、とメッセだけしておくのも変だし。だいたい、最近紅磨くんと一歩離れていた私が、急にまた距離を縮めるのも不自然だ。
夜の森の葉擦れのように胸がざわざわと陰ってくる。紅磨くん。話そうと思ったのに。真垣さんに励まされて、やっと、紅磨くんにもう一度向き合おうと思ったのに──
その日、紅磨くんから連絡が来ることはなかった。でも、沈黙がむしろ怖かった。
勘違いされたくない。でも、私から説明していいのかな。かえって怪しくないかな。紅磨くんと真垣さんと両天秤したいみたいじゃない? どうすればいいの、と泣きそうになりながら眠って、翌朝は目覚めが悪くて軆がだるかった。
昼番でよかった、と思いつつ、肢体から重みが流れ出していくのを待った。けれど心の重みだけは離れなくて、憂鬱な気分で着替えて化粧して、また降ってる、と気づきながら傘をさして出勤する。「お疲れ様」と真垣さんがデスクで作業しながら挨拶してくれて、「お疲れ様です」と私は濡れた肩をはらいながら息をつく。
「どうかした?」
「えっ」
「ため息」
「………、ちょっと、紅磨くんとこじれる恐れが」
「え」
私はまたため息をついて、今なら誰もいないので、昨日帰り際に茉莉紗さんを見かけたことを話した。
聞いてくれた真垣さんは、「それでも、木ノ村くんに連絡してもよかったと思うけど」と言った。「男の人って、好きな人がほかの人とデートしても平気なんですか?」と私はデスクのそばにしゃがみこむ。
「平気ではないけど、まだつきあってないなら文句は言えないよ」
「……そんなもんですか」
「その女の子が極端な報告するよりは、直接綾川さんに説明されたほうが、木ノ村くんも楽じゃないかな」
「誰とデートしたのかまで突っこまれませんか。友達の紹介とか嘘っぽいし……」
「僕は名前出されても平気だけど」
「………、それで、紅磨くんにライバル表明になっちゃうんですか」
「木ノ村くんに勝てる気がしないのは、僕が言うよ」
「じゃあ、いざとなったら」
「大丈夫だよ。僕は綾川さんと木ノ村くんを応援することにしたから」
「う……何か、すみません」
「いえいえ。ほら、十二時になるよ」
私は時計を振り返り、ゆっくり立ち上がるとロッカーのほうに歩み寄った。制服になるとタイムカードを切って、「じゃあ出てきます」と真垣さんに声をかけて、「いってらっしゃい」と送られてホールに出た。
紅磨くん今日はシフト入ってたな、とバックを出る前に見たシフト表を思い返す。ということは、今日の夕方には、否応にも紅磨くんと顔を合わせる。
茉莉紗さんが何も言ってなければ一番なんだけどなあ、と思っても、そう都合よくいくものだろうか。昨日の、私のほうを見ていたときの冷ややかな視線がよみがえる。あれは、そうとう私のことを忌んでいる眼に感じる。
ランチタイムに入ってきたお客さんが去って、いったんいそがしさがひと息つくものの、すぐ学生のお客さんが増えてきて店内はにぎやかになる。雨が降っているわりに客足は多い。
夕食の時間になる前に夜番と夕礼を行なって、私は休憩時間になった。まかないを食べながら、真垣さんがキーボードをたたく音と雨の音をぼんやり聴く。紅磨くん来るよね、とまさかの初のサボりも心配していたら、「お疲れ様でーす」と声がして、私ははっと振り返った。
雨の中から傘を下げつつ入ってきたのは、ブレザーの紅磨くんだった。私は声を出そうとしたものの、なぜか息苦しくて声が音にならない。「お疲れ様」と真垣さんが言うと、「お疲れっす」と紅磨くんは笑顔を見せた。そして、私を見ると、「お疲れ様です」と普通に言ってきて、「あ、」と私は引き攣った声をもらす。
「お……お疲れ、様」
完全に無駄に意識している声だ。でも、紅磨くんはそれに何も触れず、「降ってますねー」とテーブルにかばんを置く。
「そんなに降ってる?」
私の沈黙を察したのかどうか、真垣さんが紅磨くんの言葉を拾う。
「降ってますよ。土砂降り」
「売り上げ響くかなー」
「イケメン店長が出撃したら、女子が寄ってくるかもしれないですよ」
「この報告が終わったら出るよ」
「はは、イケメン肯定してるし」
紅磨くんは笑っていて、私はそれを窺って見つめる。
笑ってる。普通に。これは、茉莉紗さん、何も言わなかった? だとしたら、じたばた勘ぐった私はいったい何なのだ。よほど性格が悪いではないか。
そう思ったけれど、紅磨くんは再びこちらを向くことなく、荷物を連れてロッカーのほうに行ってしまった。私がぽかんと座っていると、「綾川さん」と真垣さんに呼ばれてはっとする。
「報告」
そうひと言で背中を押してくれて、真垣さんほんといい人すぎるよ、と思いつつ、私は「紅磨くん」と立ち上がった。でも、返事がない。着替えるからロッカーの手前にはパーテーションがあるし、聞こえなかったのかも。そう思って、私はパーテーションのかたわらまで行って、でも着替え中だったら悪いから覗きこまずに、もう一度「紅磨くん」と呼んでみた。
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