角砂糖、もうひとつ-9

君と出逢ったときのこと

 すると突然ぐいっと手首をつかまれた。「え、」と声をもらすとパーテーションの内側に引っ張りこまれる。そして背中をロッカーに押し当てられ、上半身がはだけた紅磨くんが至近距離で私を見下ろしてくる。
「茉莉紗に聞きました」
 私は紅磨くんを見つめ、ああ、と一気に気まずくなった。やっぱり。茉莉紗さん、言ったんだ。
「俺のこと、揶揄ってたんですか?」
 紅磨くんは苦しく押し殺した声でそう言って、私は慌てて首を横に振る。
「じゃあ、昨日一緒にいた男を揶揄ったんですか?」
「紅磨くん、私、」
「茉莉紗に、悠海さんのことはやめとけって言われました」
 目を開いて、紅磨くんと見合った。紅磨くんは私の瞳を見つめて、ふと急に泣きそうに表情をゆがめると、「でも」と私の肩をつかんで引き寄せてくる。
 紅磨くんの素肌に頬が触れて、鼓動が止まりそうにつづまる。雨に濡れた洋服の匂いがする。
「無理って、言いましたけど」
「紅磨くん……」
「俺はどうしても、悠海さんが好きだって」
「………、」
「好きでいて無駄でも、それでも、悠海さんが好きなんです」
「……ご、ごめんなさい。その、違うの。昨日のは、ほんとに……」
「男じゃないんですか?」
「男の人……だけど」
 この状況で、真垣さんだとは言いづらい。言ったとしても余計こじれる。というか、そこにいるし。そこにいるから言えば助けてもらえる? いや、助けてもらってばかりいてはダメだ。私は真垣さんを振ったのだから。そう、紅磨くんのために、私は真垣さんを選ばなかった。
「す……好きって、言ってくれる、人だった」
「じゃあ、」
「でも、振ったの。一度しかデートしてないけど、振ったから」
「振った……?」
「そ、その、私……私は、」
 紅磨くんが。
 そう言おうとしたときだ。「お疲れ様ですーっ」と朝番が上がってきたのが聞こえた。私はタイミング悪く言葉を飲みこんで、パーテーションのほうを見てしまう。紅磨くんも息をついて、「着替えるんで」と私と軆を離した。
 私はまだどきどきしていて、頬も軆もほてっている。それでも、「ごめんね」と言ってパーテーションをまわってテーブルのほうに出た。
「綾川さん、何かしてたの?」と朝番の子に言われると、「スマホ鳴ったからロッカーに見に行っただけ」と椅子に座りなおして食べかけのサンドイッチを頬張った。
 それからすぐに、「お疲れ様でーす」と着替えた紅磨くんも現れて、私たちは一緒にホールに出た。
 さっきまで触れていた紅磨くんの肌の体温や筋肉の硬さに、くらついてしまいそうに、なかなか心臓が落ち着かない。紅磨くんは、平静で仕事に集中している。そんな紅磨くんをちらちら見てしまうのに、視線は返ってこない。私が距離を置いているあいだ、紅磨くんもこんなふうに寂しかったのかな。そう思うと、いっそう自分がひどいことをしていたのだと感じた。
 二十時に仕事を上がってバックに戻ると、PCに向かっていた真垣さんが「そろそろ出撃しますか」と作業を保存して立ち上がった。「さっきはすみません」と消え入りそうに言うと、真垣さんはくすっと咲って、「素直になるだけでいいんだよ」と私の頭をぽんぽんとしてくれた。その真垣さんの優しい声に、図らずも涙が滲んでしまう。
「綾川さん──」
「すみません……ああ、もう、やだ」
 言いながら指先で涙をはらっても、次から次へとほろほろ雫が落ちてくる。真垣さんは私を見つめて、「しょうがないなあ」と軽く抱き寄せて温かい胸を貸してくれる。
「木ノ村くんとうまくいかなくてつらそうなら、僕は今度こそ容赦なく口説くよ?」
「私とか趣味悪いですよ……」
「そういう完璧じゃないところが好きだよ」
「何か……もう、私も真垣さんを好きになれてたらよかった」
 ついそんな不用意なことを言うと、「じゃあ」と真垣さんは私の肩に手を置く。
「今からでも、僕を選びますか?」
「えっ」
「それでもいいんだよ」
 私は真垣さんを見上げた。真垣さんの匂いは柔らかい。
「……私、最低にずるいじゃないですか」
「僕もなかなか狡猾だからお互い様だよ」
「………、真垣さんとつきあったら、痛くないでしょうか」
「え」
「気持ちが痛くなる恋はしたくないんです。そういうのは、前にやったから。もうしたくない……」
「僕は綾川さんには咲っていてほしいから。そうであるように努めるつきあいはするよ」
「真垣さん……」
「ほんとに僕でいいなら、……もちろん、選んでもらえたら嬉しい」
 私は真垣さんをじっと見つめた。真垣さんも私を見つめてくる。
 ああ、この人を好きになれていたら。そう思う。この人が好きだったら、私は、きっとすごく幸せだった。分かっているのに。そんなこと、よく分かっているのに──
 紅磨くんの無邪気な笑顔を思い出している。
「……めんなさい、」
 そう言って顔を伏せて、キスできそうな距離を拒んだ。やばい。やっちゃった。さすがにここまで期待させて拒否るのはダメだったかな。
 そう思ったけど、聞こえたのは軽く噴き出した笑い声で、また頭をぽんぽんとされて「しないよ」と優しい声も降ってきた。私は真垣さんを見る。真垣さんは穏やかに微笑むと、「僕こそごめんね」と軆も離した。
「やっぱり、綾川さんには彼だね」
「……彼」
「そこの彼」
 私はきょとんと真垣さんにまばたきをしてから、はっと振り返った。そこでは、紅磨くんがドアを開けたまま固まっていた。私たちの視線を受けて、紅磨くんは一気に狼狽を見せたけど、「逃げなくていいよ」と真垣さんが言ったから、おずおずとバックに入ってきて、私と視線が合うと具合悪そうにうつむいてしまう。そんな紅磨くんに真垣さんは私の肩をたたき、「僕はホールに出るね」と言って、紅磨くんの頭もぽんとするとバックを出ていってしまった。
 私はゆっくり顔を上げて、紅磨くんを見た。紅磨くんは顔を伏せ、かすかに震えている。
 紅磨くん、と呼ぼうとした。そのとき、紅磨くんは私に一歩踏み出すと強引に抱きしめてきた。
「紅磨、く──」
「やだ」
「え……」
「ま、真垣さん……とか、勝てないかもしれないけど。でも、やっぱり嫌だ」
「紅磨くん、」
「負けたくない。俺のほうが悠海さんのこと好きだ。負けてない」
「あの……」
「嫌だよ。悠海さんのことは、絶対、俺が幸せにするんだ。俺が悠海さんを守るって、あのとき決めたんだ」
 あのとき。あのとき、って、いつだろう。分からない。分からないけど──
 私は紅磨くんの背中に腕をまわして、ぎゅっとしがみついた。雨がまとわりついていたさっきより、紅磨くんの匂いがした。
 紅磨くんは、私の髪を撫でて問いかけてくる。
「真垣さんと、デートしたんですか」
「……うん」
「………、よりによって真垣さんかよ」
 悔しそうにつぶやいて、紅磨くんは私をより抱きしめる。捕まえなきゃ、と思った。今ここで、この男の子を捕まえなきゃ。そうしないと、彼は自信を失くしてしまう。
「紅磨くん」
「……はい」
「その……今度は、私からデートに誘っていいですか?」
「えっ」
 驚いた紅磨くんの声に、私は頬を熱くしながら言葉を続ける。
「紅磨くんと、またデートしたい」
「俺と……」
「紅磨くんとのデートは、すごく楽しかったから」
「真垣さん、は」
「真垣さんとのデートも、楽しかった。けど、どきどきはしなかった」
「悠海さん……」
「紅磨くんとのデートは、心臓すごかったんだから」
 言いながら心臓が脈打って、痛いぐらいだ。紅磨くんが私の顔を覗きこんで、「ほんとに?」と確かめてくる。私はうなずいて、ゆっくり笑顔を作った。すると、それを映したように、紅磨くんにも笑顔が浮かぶ。
「悠海さんっ……」
「えと……私、紅磨くんのこと、好きになって大丈夫だよね」
「いや、もう、なってくれるなら。好きになってください」
「じゃあ、好き……です。紅磨くんのことが、好き」
 瞬間、紅磨くんは「うわーっ」と声を上げて、私を抱きすくめた。「やばい。マジでやばい」と繰り返し、私は笑ってしまいながら「紅磨くん」と呼びかける。
「はいっ」
「紅磨くんは、私のこと──」
「好きですっ。ほんとに、めちゃくちゃ好きです。当たり前じゃないですか」
「はは、そっか」
「大切にします。俺のそばにいてください」
「うん」
「泣かせたりとか、しないから」
 紅磨くんの腕が私を包みこむ。この腕は、きっとその約束を守ってくれる。そう感じた。
 あの恋とは違い、この男の子なら私を愛してくれる。傷つきたくなくて臆病になっていた私でも、紅磨くんのまっすぐの愛情なら、素直に信じることができた。
 ──けれど、ひとつ気になることがあった。「あのとき」と紅磨くんは言った。そして、デートのとき「初めて会ったとき」という言葉も口にしていた。私は紅磨くんとはこのレストランで知り合ったと思っている。
 違うのだろうか。もっと前に、私たちはとっくに出逢っていた?
 過去はあんまり思い出したくない。以前の私は、重たく奈木野さんの想い出ばかり引きずっていた。でも、そこに紅磨くんとの原石があるなら、振り返ってみたほうがいいのだろうか。
 死んでもいいと思った、あの初恋について。
『あんまり気にすることないんじゃない?』
 紅磨くんとつきあうことになったのは、その日の夜に南乃に通話を持ちかけて報告した。そして、紅磨くんとの出逢いが、奈木野さんのことしか考えていなかった頃に、埋もれているかもしれないこと。
 そんな相談も併せてすると、南乃はやや考えてから、そう言った。「えー」とルームウェアになってベッドサイドに座る私は、不満な声を上げた。
「出逢いだよ? 出逢いを分かってないかもなんだよ、私」
『あたしも旦那との出逢いとか忘れたわ』
「嘘……」
『ヒカないでよ。つか、たぶん憶えてるけど、順番が分からない。あの人との想い出で、どれが出逢いだったかなんてもはやどうでもいい』
「どうでもよくないの、私は」
『めんどくさいなあ。今はバカみたいに幸せ味わってりゃいいのに』
「幸せは幸せだよ。でも、紅磨くんとの出逢いがはっきりしたらもっと──」
『欲張らなくていい』
「欲張りなの?」
『じゃあ、さくっと本人に訊けばいいじゃん』
「デリカシーないよ!」
『忘れてる時点であれだから、気にすんな』
 私は唸って、スマホを耳に当てたままベッドに転がる。シーツがひんやりと素足に触れる。
「紅磨くんは、私の初恋とか知りたくないだろうしさ」
『そうだろうね』
「訊けないよ。過去の話が、そういう話込みになるなら」
『まあ、そうだねえ……』
「私、一時病んでたからなあ。ほんとに心当たりなくて。それが何か悪いし。紅磨くんはよく憶えてるみたいなのに」
『同じ職場に来る前から好きだったとは言われたんだよね』
「うん。いつの話なんだろ。もやもやする……何で思い出せないかなあ」
『ま、思い切って全部正直に話すのもありだけど。ただ、話しながら湿っぽく泣いたりしたらダメだよ。勘違いされるから』
「勘違い」と私は首をかしげる。
『泣いてしまうような初恋と較べたら、自分との恋は二番目なんだって彼に思われたくないでしょ』
「あー、そっか。なるほど」
『だから、泣かない。それを覚悟して、初恋の話も、何もかも全部話して、だから過去を思い出せないけど、あなたとの出逢いだけは知りたいんだって言うの』
「過去を思い出せないって、記憶喪失ではないんだけど」
『全部思い出すのを拒否してるんだから、似たようなもんだよ。その拒否してる中に、彼との出逢いがあるかもしれなくて、それを知りたいんでしょ』
「うん……」
『ひとりで思い出すのが怖いなら、彼と思い出せばいいじゃん。恋人ってそんなもんだし』
「恋人か……はあ、初めてだ。私、彼氏って初めてだよ」
『どうでもいいけど、寝るのは彼が十八になるの待ちなよね』
「そこは承知してます……」
『よし。じゃあ、出逢いについては彼本人に訊くこと! あたしに訊いてても答えられないからね、当然』
「だよね……。ん、分かった」
『はい。あたし寝るよ。ぼーっとしてきた』
「遅くにごめんね。聞いてくれてありがと」
『いいよ。とりあえず初彼おめでとう。大事にしてもらいな』
「ん。おやすみ」
『おやすみー』
 スマホを耳元から離して、通話終了にスワイプする。
 ため息をつくと、紅磨くん本人だよなあ、と改めて思った。すごく失礼だけれど、どうしても思い出せない。
 私の過去のどこに、あんな素敵な男の子がいたのだろう。よほど奈木野さんのことばかり想っていたのか──みじめだな、と思うものの、紅磨くんまで私をみじめだと言って嫌いになるとは、不思議と思わない。
 正直に訊こう。私と紅磨くんは、いつ出逢ったのか。そしてそのとき、紅磨くんはどうして、私をこんなにも好きになってくれたのか。知りたいから、ちゃんと訊いて、私はそれを思い出して宝石として心にしまいたい。

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