夏の星月夜
七月に入って、梅雨も紅磨くんの期末考査も終わった。
それからようやく、私と紅磨くんは二回目のデートをした。「ちなみに真垣さんとはどこ行ったんですか」と訊かれて、正直に「ドライブしてプラネタリウム」と答えると「大人かっ……」と紅磨くんは悔しそうにしていた。
でも、紅磨くんはちゃんと真垣さんに「応援するよ」と伝えられていて、そこまで本気で卑屈にはなっていない。「そのとき真垣さんには、紅磨くんとは本物の星を見に行っておいでって言われたから」と、二度目のデートでは、私は電車に乗ってたどりつける海まで紅磨くんを誘った。「悠海さんの水着が見れるんですか」と言われて「それはないよね」と返すと、紅磨くんは若干ふてくされていた。
電車を降りると、蝉の鳴き声が空に解放されていた。海開きはしていて人はちらほらいるけれど、まだ夏休みに入っていないせいか、海の家や露店は出ていない。
なので、とりあえず涼むために海辺沿いの古い純喫茶でお茶をした。紅磨くんは紅茶でも私よりもうひとつ砂糖を入れている。「絶対甘いよ」と言うと、「入れないと苦いんです」と紅磨くんは言い張って、かわいいなあと思った。
夕方になると喫茶店を出て、堤防沿いを歩いた。寄せる波の潤った音が鼓膜を癒す。地元らしい子供たちが駆けまわっていて、たまにすれちがう。
潮風の匂いが心地よくて、やがて海に夕陽が沈みはじめた。波がきらきら揺れて、空も海もオレンジに染まって、一瞬桃色に淡く透けると紺色が滲み出してくる。ふとつないだ手を引っ張られて、紅磨くんを見上げると、不意打ちでキスをされた。
あとからどきんとして、でも押し退けずにいると、顔を離した紅磨くんは「俺のはよけなかった」と嬉しそうに咲う。仕方なく咲い返していると、あたりは緩やかに暗くなってしまい、私たちは見つけたコンビニでお菓子と飲み物を買うと、砂浜に踏みこんだ。
さく、さく、と足音が名残る。蝉の声がなくなっても、透き通った虫の声は響いている。潮の匂いが満ちて、豊かに波が打ち寄せ、渚では砂が水を吸ってはさあっと色を変えている。並んで砂浜に座りこむと、私たちは暗くなった空を見上げた。
浮かんでいる月は満月に近く、光も澄んで明るかった。そしてそれを包むようにちかちかと星が散らばっている。プラネタリウムで少し星座を勉強したはずだけど、結局どれが星座なのか分からない。でも、それくらい星がいっぱい見える。「俺らの地元じゃ見れないですね」と紅磨くんは言って、「うん」と私は答えた。
ポテトチップスやチョコレートといったお菓子を開き、私はミルクティーを、紅磨くんはレモンウォーターを飲んだ。「酸っぱいのは平気なの?」と訊くと、「これ酸っぱくないですよ」とひと口勧められて、素直に飲んでみる。確かに、レモンの香りはするけど、味はさらっとした水だった。「おいしい」と言うと、紅磨くんは咲って「ちなみに、苦いよりは酸っぱいがいいです」と教えてくれた。
しばらく、私たちは夏の星月夜を見上げていた。そうしながら、私はひそかに心を決めていた。紅磨くんにあの頃の話をして、「あのとき」のことを訊く。
やっぱり、私は知りたい。紅磨くんと、いつどこで出逢っていたのか。南乃にああ言われたものの、思い出して泣かない保証はない。重い話になるのも分かっているから、逡巡もある。それでも、どんな話になっても紅磨くんなら受け入れてくれる気がするから、私は一歩踏みこみたい。
「ねえ、紅磨くん」
よし、と勇気が充填すると、ゆっくり沈黙を破き、「はい?」と紅磨くんは私に視線を向ける。
「今日もいつも通り、終電までに帰ればいいんだよね」
「そうですね。ここから帰るんで、少し時間気をつけないと」
「あ、そっか。じゃあ、あんまりゆっくり話とかできないか」
「話」
「紅磨くんにね、きちんと話して確かめたいことがあるの」
「何ですか」
「いや、えと……ゆっくり話せないなら」
「それなら帰らなきゃいいだけです」
「それは、その、ダメです」
「何でですか」
「紅磨くんが十八になるまでは、守るものは守りたい」
紅磨くんはチョコレートを含んで噛み砕くと、「じゃあ、あと四ヵ月」とむくれた声で言う。
「あ、三ヵ月……って、七、八……誕生日、十月?」
「はい」
「そっか。私は今月二十五になっちゃう」
「今月」
「そう。七月生まれだよ」
「えっ」と紅磨くんはぱちぱちとしばたく。
「ちょ、それ、もっと言いましょうよ。何日ですか? 過ぎてませんよね?」
「二十七日」
「あー、よかった。間に合った。マジで焦ったあ……教えてくださいよ、そういうの」
「プレゼントねだるみたいで」
「ねだってください。甘えてください。俺はそうされたいんです」
「………、じゃあ、うーん……なるべく短くするから、今、少し話を聞いてくれる?」
「はい。もちろん」
私は紅磨くんを見上げ、その左肩にとんとこめかみを当てた。そんなに、時間はない。紅磨くんを終電までには帰すのは守りたい。だから、早く口火を切らなきゃいけない。でも、どんな言葉で始めればいいのか──
紅磨くんはなかなか言い出さない私を見て、「つらい話ですか?」と察する。私は躊躇ったものの、こくんとして、それから慎重に口を開いた。
「紅磨くんは、私が初めて好きになった人?」
「えっ。いや──どうなのかな。行動するほど好きになったのは、悠海さんが初めてです」
「行動」
「話もしないのに好きになった子なら、います」
「そっ、か。私はね、初恋って高校のときだったの。部活のOBの人で、私もその人にはめずらしく積極的に頑張れた。連絡先交換して、メッセして、外で会って。つきあわなかったけど」
「つきあわなかったんですか」
「私も、男の子とつきあうっていうのは紅磨くんが初めてなの。その初恋の人に、けっこう好き勝手にあつかわれて、私、男の人っていうのが分かんなくなってた。遊ばれたんだか、どうでもよかったんだか。私は好きだったよ。でも、その人にはちゃんと彼女がいたの」
「えっ……」
「私のことなんて何でもなかった。キスしたのも、寝たのも、都合のいい処理だったみたい。私もバカだよね。何で気づかなかったのかな。さっさと気づいてれば……あんなこともしなかったのに」
紅磨くんが砂の上で私の右手を握った。私はそれを握り返して、深呼吸して胸をなだめる。それから、静かにつぶやいた。
「切ったの」
「……切った」
「あの人と会わなくなって、それでも好きで、泣いて、毎日泣いてて、つらかった」
「………、」
「もう死ぬしかないって思った。だから、手首を……切った」
声が、震える。泣いちゃダメだ。泣いたら鬱陶しい。
分かっているけど、話しているとあの頃のみぞおちが陥没するような孤独感がよみがえる。私は紅磨くんの手を強く握った。
「死ぬほど、あの人のこと好きだったんだ。あの人のことが好きなまま楽になれるなら、死んでもよかった」
紅磨くんはうつむき、けれど、私の手をぎゅっと握ってくれている。
「結局、死ねなかったからここにいるんだけどね。手首切るくらいじゃ死ねないんだね」
「……今でも、死にたいですか?」
私は首を横に振り、「でも」と言葉をつなぐ。
「死にたいって気持ちを振り切るのに、何年もかかった。大学時代なんだけどね、ちょうど。だから私、大学の記憶がほとんど残ってないの。勉強ばっかり頑張って、何も考えないことだけ考えて。別に、記憶喪失とかそんなんじゃないんだけど。ほんとに、憶えてなくて」
「……そうですか」
「だから……紅磨くんに、その頃会ってたかもしれなかったら、私きっと憶えてないの」
「はい」
「今の店でバイト始めて、しっかりしてきて。それからはまた記憶もちゃんとしてる。だから、出逢ったのはその頃じゃないよね?」
「そう、ですね」
「高校時代でもないと思う。失恋してるって知るまでは普通だったし」
紅磨くんははあっと大きく息をつき、しばし海を見やった。私は紅磨くんの横顔を月明かりを頼りに見つめる。
「会って、るんだよね。私たち」
「……はい」
「思い出せるか分からないけど、教えてくれないかな」
「でも──」
「思い出したいの。紅磨くんとの出逢いなら」
「………、」
「……憶えてなくて、ごめんね」
「それは、その……大丈夫です」
「ありがとう。教えて、くれる……かな」
紅磨くんは視線を下げて、思いつめた表情を見せる。そんなに、言いにくい出逢いなのだろうか。だとしたらちょっと知るの怖いかも、とちらりと思ったとき、紅磨くんは私を首のほうへ曲げた。
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