厄介なクレーム
二月になって試験が終わり、大学が春休みに入った紅磨くんは私と同じく週五の中番でシフトに入った。ランチもディナーも勤務時間帯になるからいそがしく、同じシフトでもそんなに話す機会はない。
それでも、休憩時間が一緒なのは嬉しかった。そばにストーブを置いてまかないを食べながら、「卒業したら就職したいから、ここも辞めなきゃなー」と紅磨くんは頬杖をつく。
「どういう仕事したいの?」
「いきなりは無理だけど、いつか心療内科のクリニック開きたい」
「けっこう具体的だね」
「だって、悠海さんも資格あるじゃん? 夫婦でやっていけるよ」
「あ、そっか。私も心理士の資格あったっけ」
「開業できるまでは、下積みで心療内科に雇ってもらえるように頑張る」
「私もそういう仕事興味あるけどなー。大学卒業してからのブランクがありすぎるかも」
「いきなりカウンセリングまわされるわけじゃないし、病院に面接とか行ってみたら」
「そうだね。いつまでもバイトじゃ情けないもんなあ」
「悠海さんがここで働きたいなら、それもいいと思うけど」
どうしたいかなあ、と思いながらまかないのサンドイッチを食べていると、がちゃっと背後でドアの開く音がした。
どきっとして振り返ると、入ってきた水津さんも私を見て、ばたんっとドアを閉める。
「お疲れ様で──」
す、と言い終わる前に水津さんはつかつかとこちらに歩み寄ってきて、「十番テーブルのお客様」と腰に手を当てて唐突に言い放った。
「は……い?」
「オーダー間違ってました」
「えっ」
「デザートのベリーパフェのサイズ、確認しました? レギュラーサイズじゃなくてミニサイズを頼んだっておっしゃってて」
「えっ、あ──すみませんっ。謝ってきま──」
「もうデザートはいらないってお帰りになりました」
「あ……、すみません」
やっちゃった、とばつが悪くて私がうつむくと、水津さんは大きなため息をつく。
「お客様の気分を害するようなミスはやめてもらえます?」
「すみません。気をつけます」
「オーダーミスなんて、店側の信頼に関わってくるんです。お皿を一枚割るのとは違うんですから、」
「あのー、ちょっとすみません、水津さん」
私が落ちこんでしまっていると、隣から紅磨くんが小さく手を挙げた。「何ですか?」と水津さんは眇目のまま紅磨くんを見る。
「十番テーブルのお客様って、主婦っぽい女の人の三人組でした?」
「……そうでしたが」
「あー、そのお客様なら悠海さんはレギュラーサイズかどうか確認取ってましたよ。俺、隣のテーブル片づけてて、確かにちょっと気になったんで聞こえてました」
「じゃあ、どうしてオーダー間違ってるんですか。お客様があとから勝手に注文を変えたと?」
「いや、そのお客様、『普通のサイズ』って言い方してたんです。それじゃはっきりしないからだと思いますけど、悠海さんは『レギュラーサイズでよろしいでしょうか』って確認してて。そしたら、お客様が『普通のサイズは普通のサイズでしょ』って」
その説明で、あのお客さんか、と私もやっといつの注文か思い当っていると、紅磨くんはさらに助けてくれる。
「セットのデザートはミニサイズのパフェだから、お客様は普通のサイズをそれだと思ってたんじゃないかと」
「………、」
「確かにはっきりしないなら何度も訊いて確認すべきでも、お客様も注文終わったらしゃべりだして悠海さんの確認とか訊いてなかったし、悠海さんのことはあんまり責めないであげてください」
「……そ、そう──ですか」
「お客様がこうだって言ったら、俺たちは何でも頭下げなきゃいけないですけどね。それは俺より悠海さんが知ってますから」
水津さんは紅磨くんの言葉に狼狽えて勢いを落とし、言葉をつまらせる。「悠海さんもあんまり気にしないで」と紅磨くんは私に微笑んだ。水津さんは何か言おうとして、でも結局こらえて、「まだホールいそがしいので」とくるりと身を返してバックを出ていってしまった。私がほっと息をついていると、「謝らないんだもんなー」と紅磨くんはあきれた声で言う。
「紅磨くん、ありがとう。よく憶えてたね」
「いや、あのおばちゃん軍団、悠海さんが確認したら『何度も言わせないでよ』とかも言ってたし。正直いらっとした」
「うん……それでしつこく訊けなくて。でも、訊くべきだったね」
「いいんだよ、そういう客は来なくなったほうがいいし。気にしないでいいよ」
「ん。というか、水津さんは私にそれを言いたくてホール抜けてきたのかな」
「だよね。それもどうかだよね」
「あの人、私に特に厳しい気がするなあ。紅磨くんが言ったら、わりと簡単に納得してたけど」
「男だからじゃない?」
「紅磨くんが好きなのかなあ」
「えっ、嫌だよ。やめてよ」
「紅磨くんが好きだから、紅磨くんと仲がいい私に強く当たるのかも」
「つきあいは隠してるよ」
「仲はいいでしょ。帰りも送ってもらってることはみんな知ってるし」
「………、正直、水津さんに好かれても……」
紅磨くんはそう言って首を捻って、それから「微妙だなー」とつぶやいた。
私は笑ってしまってから、水津さんも要注意なのか、とため息をついた。ほんとに紅磨くんはモテるなあ、と思って、名前を呼んでこちらを向いた紅磨くんの胸に額を当てた。
「悠海さん」
「いつか、ここ辞めてふたりで開業したいね」
「……そだね」
「そしたら、つきあってることも隠さなくていいよね」
「つきあってるというか、そのとき夫婦だと思うけど」
「ん……。やだなあ、紅磨くんのこと取られたくないなあ」
「誰のとこにも行かないよ」
「ほんと?」
「俺は悠海さんだけだよ」
私は顔を上げた。紅磨くんは私の前髪をかきあげて、心臓が伝わっていた額に柔らかくキスしてくれる。私は息を吐いて微笑むと、身を起こした。
「そろそろ休憩終わるね」
「ん、ほんとだ。待って、ジュースちょっと飲む」
紅磨くんは椅子を立ち、冷蔵庫の自分の名前を書いたペットボトルを取り出してジュースを飲んだ。私は空になったまかないのお皿を重ねて、紙コップに淹れた紅茶を飲み干す。
ストーブを消すと立ち上がり、紙コップを捨ててスマホをロッカーにしまいにいった。紅磨くんもスマホをロッカーに入れて、それから「じゃあ、今日も二十時まで頑張りますか」とまかないの皿を抱えてバックヤードを出る。
私もそれを追いかけて、ドアに鍵をかけると鍵束はいったん私が預かってエプロンのポケットに入れ、放課後の学生が増えていくホールへと飛び出した。
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