私は君だけだから
紅磨くんと穏やかにおつきあいしながら、職場では水津さんにときおりちくりと言われて、季節は春になっていった。通勤中や帰り道に通りがかる公園では桜があふれるように咲いて、花びらはくるくると空を舞って地面に散っていく。陽射しもゆったり暖まり、でも風はまだ涼しいから、気候は一番気持ちいい。
あっという間に三月から四月になって、紅磨くんの大学の春休みも終わる頃のある日、十二時前に出勤すると「お疲れ様ですっ」と元気な男の子の声がした。
紅磨くんは今日はオフだから、さっき実家に帰っていったし──ん? と顔を上げると、さらさらの黒髪に快活そうな笑顔、小柄だけど半袖の腕の筋肉はしっかりした、知らない男の子がワイシャツにスラックスのすがたで立っていた。
「え、……と。あ、新人さん? 面接?」
三月に学生バイトがふたり抜けたので、あんまり疑わずにそう問うと、「いえ」と男の子はさわやかな笑顔を見せる。
「来週からこの店舗に勤める者です。社員になって三年です」
「えっ、社員さん──あ、面接とか言ってすみません。綾川と申します」
「森名です。元はバイトで、そのまま社員になっただけですけどね」
「すごいですよ。私はちょうど五年ですけど、社員とかぜんぜん……」
「俺も就活で他の内定取れなかっただけです。ええと、今からなら中番の方ですか?」
「はい」
「中番の方が来たら、店長の水津さんが戻ってくるって言ってたんで、フロア出たら呼んでもらえますか」
「分かりました。じゃあ、もう着替えちゃいますね」
「十二時からですよね。大丈夫ですよ、急がなくても」
「そ、そうですか……? まあ、着替えはしておきます」
森名さんはまたにっこりして、私はその笑顔の強さにやや気圧されつつ、パーテーションの内側に入った。
男の子の社員さんが新しく入るということか。新人ではないなら、真垣さんが去って右肩下がりの売上の向上のためだろうか。水津さんがもっとバイトと対等に話して、心を開かないとむずかしい気がするけれど。森名さんがワンクッションになるってことかな、と制服に着替えてエプロンをまとった私は、ロッカーを閉めてパーテーションを出た。
十二時まであと十分くらいあるな、と時計を見上げてから、毎日の売上や連絡が記されている日誌をめくる森名さんを向く。
「何か気づくことあります?」
「え」
「いや、うちの売り上げのために派遣されたのかなあって」
「ああ。一年後に出る新店で、店長任されそうなんで、しばらく勉強しにきたんですよ」
「水津さんに教えてもらうんですか?」
「そうですね」
お手本になるのかな、と内心思っていると、「水津さん自身は、仕事できるはずなので」と森名さんは日誌をめくる。
「ただ、今はバイトが入れ替わり激しくて、ホールもキッチンもレベルが下がって売り上げ落ちてるのは聞いてます」
「前はそんなに辞める人いなかったんですけど」
「そうなんですか?」
「真垣さんって人が店長だったので」
「今、エリアマネージャーの?」
「確かそうだったと思います」
「……へえ。じゃあ、水津さんの統率力にも問題があるんですかね」
「真垣さんの頃からのバイトはそう言ってますね」
「なるほど。じゃあ、そこはさりげなく俺からも進言しておきます。たぶん、水津さん本人は気づいてないので」
「よろしくお願いします」
「いえいえ。一緒に巻き返していきましょう」
「そうですね。私も頑張ります」
森名さんはにこっとして、笑顔のまぶしさが接客業向きだなあと思った。
それから十二時になったので私はホールに出て、仕事中の水津さんに話しかけるより、私が入ったことを水津さんが下がったときに伝えてほしいとキッチンの子に頼んでおいた。
ランチタイムが始まって、お客さんが次々と入ってくる。注文を聞いたり、料理を運んだり、いそがしく店内を行き来しているうちに水津さんはバックに下がっていて、ちょっとほっとして仕事を続けた。十五時にランチタイムが終わると、長居しておしゃべりするお客さんのテーブルの空になったお皿を引き取ってまわる。十七時に夜番が入って、夕礼のあとに私は四十分間の休憩に入る。
もう森名さんのすがたはなかった。水津さんは私が休憩に入った代わりにホールに出て、私はバックでひとりでまかないを食べる。ここのところ、休憩はいつも紅磨くんが一緒だから、こういうときはふと寂しくなる。職場でそういう感情はダメだと分かっているけれど。
ロッカーからスマホを持ってくると、着信がついていた。画面を起こすと紅磨くんのメッセがあって、それを一番にタップする。
『今日も二十時に迎えに行くよ。
それまで頑張ってね。
夜は一緒にゆっくりしよ。』
私は頬杖をついてそのメッセを見つめ、癒しだなあ、なんて思ってしまう。私は来週からここに入る社員がいることを伝えた。すぐ既読がついて、『会ったの?』と返事が来る。
『うん。
私より若いと思う。』
『性格悪かったらやだなー。』
『元気はよかったよ。
はっきりしてる感じ。
あと、笑顔が強い。』
『強い笑顔って何w』
『接客業だなあって感じ。
水津さんとバイトのクッションになったらいいなあ。』
『なってくれそう?』
『進言とかはしてくれるみたい。』
『そっか。
本社が水津さん見兼ねたのかなー。』
『店長候補だから、その勉強っていうのが基本みたいだけどね。』
『店長候補っていくつだろ?』
『社員になって三年って言ってたし……四大出たとしたら、二十五歳くらいかな?』
『え、待って。
それ男?
女と思ってたけど。』
『男の子だよ。』
『うわ、やっぱあんまり仲良くしないで。』
『別に、ただの職場の人だよ。』
『悠海さんが俺以外の男と仲良くすんの嫌だもん。』
『やきもちですか。』
『やきもちで悪いですか。』
『分かった、挨拶くらいにしておく。』
『うん。
あー、早く悠海さんに会いたいなー。』
私はくすりと咲ってしまって、それから休憩時間ぎりぎりまで紅磨くんとメッセを交換していた。休憩時間があと五分になると、『じゃあ次は帰りに』とメッセを止めて、スマホをロッカーに入れた。紅茶の残りを飲んで、空になったまかないのお皿を抱えてバックを出た。キッチンにお皿を返すと、ディナーが始まっているホールに出て二十時まで働いた。
翌週の月曜日、大学は始まったものの授業がなくて、紅磨くんは私と出勤し、そこで初めて森名さんに遭遇した。朝から入っている森名さんは、この店舗一日目とは思えないてきぱきとした仕事ぶりで、「いらっしゃいませ」の声も通っているし、やっぱり笑顔が気持ちいいし、かなり有能な社員さんなのが分かった。
一年後には店長任されるんだもんな、と改めて実感していると、森名さんは夕礼のときに「こないだはどうも」と私ににっこりしてきた。「どうも」と私が答えていると、紅磨くんがちょっとむすっとしていたので、「笑顔」と私はささやく。
紅磨くんはむずむずと何か言いたそうにしても、押し殺して「初めまして」と森名さんに笑顔を作っていた。「うん、初めまして」と森名さんはそれに笑みを返し、それからまた私を見て「綾川さんはこの店でかなり長いほうなんですね」と話しかけてくる。「まあ、そうですね」とか答えつつ紅磨くんを盗み見ると、紅磨くんはふくれっ面にでもなりそうな無愛想な顔になっていた。
「森名さん、仕事すごかったね」
その日の帰り道は小雨が降っていて、紅磨くんとひとつの傘に入って私の部屋に向かった。濡れた地面の匂いがして、空気は生温かい。私がそう言うと、紅磨くんはむくれながら「そうだね」と答え、私は笑ってしまう。
「妬きもち妬かなくても、森名さんとは何にもないよ」
「でも、何か悠海さんとよく話してた」
「そんなことないよ。まあ、先週会って、面識あったからっていうのはあるかもしれなくても」
「……俺、すぐ抜かれそう」
「向こうは社員さんなんだから。気にすることないよ」
紅磨くんは私を見て、立ち止まって傘をかたむけると、その陰でキスをした。唇が離れて、至近距離で見つめあうと、「紅磨くんは」と私はつぶやく。
「水津さんに、何か言われたりしてない?」
「俺はそんなに嫌味言われないから」
「……そっか」
「悠海さんはやっぱ言われる?」
「ときどきね」
「悠海さんは、仕事ちゃんとやってるよ」
「うん──。私が気に入らないんだろうね」
「無視しておけばいいよ」
「……うん」
紅磨くんは私の髪を撫でてくれる。水津さんが私をよく思っていないのは分かっているし、それはもうあきらめた。ただ、私を厭う理由が気になる。
紅磨くんの言う通り、仕事で迷惑をかけているとは思わない。何で水津さんは私に強く当たるのだろう。バイトのくせに年上だから? 初めは、そう思っていたけど──
私は再びアパートへと並んで歩き出す紅磨くんを見て、考えすぎなのかなあ、と小さくため息をつく。
「紅磨くん」
「うん?」
「私は、どんな男の人と出逢っても、紅磨くんだけだから」
「……うん」
「紅磨くんも、私以外の人のところに行かないでね」
「もちろん。俺も悠海さんだけだよ」
私たちは笑みを絡め合い、「早く帰ろ」と雨音の中を急いだ。紅磨くんが好きで、その魅力をよく知っているぶん、不安にもなるけれど。紅磨くんの中の自分を信じるしかない。紅磨くんは揺らいだりしない。私だって、紅磨くんから揺らぐことはないのだから。
大丈夫、と自分に言い聞かせて、私は雨をよけるふりで紅磨くんにくっついた。
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