痛くて苦いとき
五月になって初夏の陽射しが夏に近づくと、温かい飲み物より冷たい飲み物を飲むようになる。私の部屋でも、水出しの緑茶をボトルに入れて常備するようになった。
連休明けの蒸した夜、ベッドの上で紅磨くんと絡みあって、終わっても同じブランケットに包まっていると、「喉乾いたね」と紅磨くんが身を起こした。緑茶が冷えているのを言うと、「持ってくる」と紅磨くんはジーンズを穿いてベッドを降りていった。
私もブランケットを胸に引き上げながら身を起こし、今度のオフが晴れたら洗わなきゃ、とよれたシーツに触れた。
紅磨くんは透明色の緑茶がそそがれたグラスをふたつ持ってきて、「はい」と手渡してくる。「ありがと」と受け取った私は、ひと口飲んでひやりと喉を滑った心地よさに息をつく。紅磨くんもグラスを傾け、けれど眉を顰めて急いで飲みこむ。「おいしくなかった?」と心配すると、紅磨くんは首を横に振って、ベッドサイドに腰かける。
「虫歯かもしれない」
「虫歯」
「最近、冷たいのがすげー沁みる」
「歯医者行かないの?」
「行ったほうがいいかな」
「普段から痛むの?」
「普段は平気」
「じゃあ、表面削るだけの今のうちに行ったほうがいいよ。穴になったら大変だよ?」
「穴は怖い」
「じゃあ、今度のオフは歯医者さん行ってきなさい」
「んー、分かった。これ、常温になるのちょっと待つ」
紅磨くんはグラスをベッドスタンドに置いて、緑茶に口をつける私の背中をぎゅっと抱いてきた。肩幅がしっかりあって、年下だなんて忘れそうになる。「キスしたら虫歯うつるかなあ」の紅磨くんは私の肩に顎を乗せ、「虫歯はうつらないかと」と私は紅磨くんのこめかみにこめかみを当てる。
「じゃあキスしていい?」と紅磨くんは身を乗り出し、「うん」と私が振り向いて答えると、唇が重なった。舌が柔らかく溶け合って、唾液がこぼれそうになるとすする。紅磨くんは私の手のグラスを取り上げると、ベッドスタンドに並べて、向かい合って深く口づけてきた。舌を食べあうみたいにもつれさせ、上顎をなぞられてびくんと震えてしまう。
「悠海さん、口の中が弱いっていうのがエロい」
紅磨くんはそうささやいて、私の口の中をたどりながら肌に触れて優しく愛撫する。「まだするの?」と訊くと、紅磨くんは「もう一回」と私をベッドに押し倒してブランケットをするりと奪った。
紅磨くんに軆を見られるのは、いまだに少し恥ずかしい。もう若い子の弾けるような軆ではないから。でも紅磨くんは「悠海さんの軆はしっとりしてる」と惜しみなく口づけてくれる。私も紅磨くんの軆に触れてみて、弾力のある筋肉がついた若い肉体にしがみつく。
濡れた脚のあいだを指ですくわれて、吐息が震える。入口のぬめりを指に絡めとった紅磨くんは、その指で私の核を繊細にさする。以前は不器用だった指も、私のその日の位置や角度をすぐ感知するようになって、きゅっと軆の奥が引き締まるような快感を与えてくる。紅磨くんは私の中に指をさしこみ、入れるようにやわらげると、ベッドスタンドのコンドームをつけて私に軆を重ねてきた。
声がもれるのをこらえていると、紅磨くんが私の口元に手を持ってくるから、私はそれに咬みつく。深くまで紅磨くんが届いて、お腹の中が温かく満たされる。紅磨くんのかたちが手を添えるように分かって、その脈打ちに合わせて私の中も痙攣する。紅磨くんは私の脚を抱えて、ぐっと奥を突いて、抜き差しするより深く探って子宮をつつく。
私は紅磨くんの手を噛んで、どれだけ感じているかを痛みで伝える。紅磨くんは私の名前を呼びながら、少しずつ腰の動きを速めて、その動きが核にも響いて私は頭の中が蕩けてしまう。
やがてその瞬間が来て、私は紅磨くんにしがみついて電流のまま大きく反り返る。同時に紅磨くんも爆ぜて、部屋の中に息遣いがこだまする。お互いベッドに脱力するけれど、紅磨くんが先に動いて、「大丈夫?」と私の頭を撫でてくれる。私はこくんとして、咬みついてしまった紅磨くんの手を包んで、「ごめん」とつぶやく。「アパートじゃ声出せないもんね」と紅磨くんは笑って私を抱き寄せ、シーツに転がる。
「緑茶、ぬるくなったかな」
「たぶん。私も少し飲む」
ベッドに腹這いになって、私と紅磨くんは緑茶に口をつける。もう冷たくなかったけど、紅磨くんは変な顔で頬を抑える。「ちゃんと歯医者行って治ったら、またお菓子作ってあげる」と私が言うと、「そう言われると行くしかないなあ」と紅磨くんは私を抱きしめて、私は笑ってしまった。
そんなわけで、翌週のオフ、大学から帰宅した紅磨くんは近所の歯医者に行ったようだった。休憩のときスマホを見ると、『二十時の迎えには行くよ。』とメッセが来ていて、『待ってる。』と返信を送っておく。あんまりひどくないといいけど、と思っていると、「綾川さん」と呼ばれて私ははたと顔を上げた。森名さんがにっこりして隣に立っていて、「あ、」と私は無意識にスマホをテーブルに伏せる。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。すみません、誰かとメッセしてましたか」
「いえ、来てたメッセに返事してただけです。森名さんも休憩ですか」
「はい。昼休み、ランチでいそがしいからって、二十分しか休めなくて」
「そういえば、戻ってくるの早かったですね」
「社員はこういうときこき使われますね。時給じゃなくて日給ですから」
「水津さん、店長としての仕事教えてくれてます?」
「一応、PC作業なんかを今教えてもらってます。メールの優先順位とか」
「やっぱり、私以外の人には普通ですよね」
「はは。水津さん、綾川さんには厳しいですね」
「そう思いますか」
「はい。何だろうな、そんなに目の敵にするようなとこないのになあと思うんですけど」
そのときスマホに着信音がついて、森名さんに「どうぞ」と言われたので、私はスマホを手に取る。紅磨くんのメッセだ。
『沁みる歯は治してもらったけど、検診で小さい虫歯見つかって、全部治すから通わなきゃ……』
久々に歯医者行くとたいていそうなるよな、と苦笑してしまって、『今治しておいてもらったほうがいいよ。』と返しておいた。紅磨くんはベッドに伏せる「疲れた……」というスタンプを押して、私は少し考えてから、『今日は私、ひとりで帰ろうか?』と気にしてみた。
すると、すぐに『ダメ、絶対ダメ、迎えにいく!』と返信がついて、そこは譲らないんだなあ、とか思っていたけれど、ふと隣の森名さんがにこにこしながらこちらを窺っているのに気づく。
「あ、すみません。話してたのに」
「いえいえ。もしかして彼氏?」
「えっ。……と、どうなんですかね」
いや、メッセの相手は紅磨くんだと知られていないのだから、別に肯定していいのか。そう気づいたものの、「綾川さんってわりとモテます?」と森名さんが言ってきてぎょっとする。
「いや、私なんかぜんぜん」
「そう? 木ノ村くんとか、綾川さんによく懐いてますよね」
どきっとしたものの、「そうですかね……?」と平静を装う。
「だって、毎日バイト終わったら部屋まで送ってくれてるんですよね?」
「まあ、はい」
「仕事ない日でも来てくれてるし」
「心配してくれるので」
「それでも、なかなかできないと思うなあ」
そこはさらっと流してほしい、と思っても、「綾川さんは木ノ村くんどう思ってる?」とか突っこんで訊かれる。それでもやっぱり、本当のことを言うわけにはいかない。店内恋愛は、店の空気をぎすぎすさせる。「紅磨くんは弟みたいなものです」と言うと、森名さんはまばたきをしたあと、「弟かあ」とつぶやいて意味深にくすりとした。
そのあとホールに出て、二十時に上がると紅磨くんがバックで私を待ってくれていた。「紅磨くん」とその背中に声をかけると、椅子に座ってスマホを眺めていた紅磨くんはぱっと振り返る。「お疲れ様」とにっこりされて、「紅磨くんもお疲れ様」と私は後ろ手にドアを閉め、紅磨くんの背後に歩み寄ってその肩に手を置く。
「俺も?」
「歯医者さん、行ってきたんでしょ」
「ああ、うん。思ったより激痛の治療じゃなくてよかった」
「はは」
「でも、小さい虫歯がけっこうあるってやだなあ。歯磨きしてるのに」
「紅磨くん、甘いの好きだからね」
「しばらく通わなきゃいけないや。あ、そういえば、その歯医者の受付が同級生だったよ」
「友達?」
「友達ってほどでもないけど。成人式のとき悠海さんも会ってるよ。戸宮って女子」
「………、え、私のことアラサーって言った子?」
「あ、そう。そうだ、そのことを今度謝らせないと」
「受付にいたの?」
「短大卒業して、医療事務の資格取れたから春から働いてるんだって」
「……そう、なんだ」
「同級生が就職して働いてるって変な感じ。俺まだ学生なのになー」
私は紅磨くんを見つめ、何となくその背中に抱きついた。「悠海さん?」と紅磨くんが私をかえりみて、私は何も言わずに紅磨くんの肩に顔を伏せる。
「どうしたの、悠海さん」
言いたいけど。言えない。ほかの歯医者じゃダメなの、なんて。たぶん、いつも行っている歯医者がそこなのだろうし。戸宮さんが働きはじめたのは偶然だろうし。治療さえ終われば、また紅磨くんと戸宮さんに接点はなくなるし。けれど──もし、連絡先とか、交換したら……
「悠海さん、」
「早く、治療終わるといいね」
「う、うん。というか、」
「虫歯治るまで、お菓子作ってあげるのはお預けだね」
私が顔を上げると、「えーっ」と紅磨くんは軆ごと振り向いてくる。
「今度ティラミス作ってくれるって」
「お預けです」
「歯磨きするから」
「ちゃんと治したら作ってあげる」
「うー」
私は咲って紅磨くんの頭をぽんぽんとすると、しがみついていた腕をほどいて「着替えてくる」と離れた。
「あ、悠海さん」
「うん?」
「今日、森名さん入ってんの?」
「森名さん? うん。ホールに出てるよ」
「……そっか」
「用事?」
「いや──。も、森名さんにはお菓子作っちゃダメだよ」
「えっ」
「その、何というか、悠海さんのお菓子は、俺しか食べちゃダメなのっ」
私は紅磨くんを目をしばたかせてから、思わず笑ってしまうと、「紅磨くんだけだよ」と言った。紅磨くんは頬を染めてうつむきながらも、「絶対だからね」と釘を刺す。
「紅磨くんも、私以外のお菓子はなしだよ」と私が言うと、紅磨くんはこちらを見て「うん」と咲ってくれる。その笑顔を見て、私も紅磨くんを信じなきゃ、と思った。戸宮さんとしばらくときどき会うとしても、何かあるはずがない。
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