奪わないで
紅磨くんは、戸宮さんに何かしらの感情があることに気づいていないらしい。成人式の別れ際、戸宮さんは私に向けて確かに毒気の混ざった目を向けてきた。あれは何かあると思うなあ、と思っても、紅磨くんのそぶりからはそれを知っている様子は窺えない。
けど、治療が終わって帰り際によく話を振られて足を止められるという話を聞くと、戸宮さんは何かあるよなあと感じる。紅磨くんけっこう気づかない子だからな、とため息ももれる。茉莉紗さんだって、私と紅磨くんの事情を知って理解してくれたけど、それまではとげとげしかった。それは、やっぱり、紅磨くんに好意があったからなんじゃないかと思う。
戸宮さん自身紅磨くんに好意があるのか、茉莉紗さんや誰かを応援しているのか、それははっきり分からない。でも、とりあえず戸宮さんは紅磨くんの隣に私がいるのをよく思っていない。それを紅磨くんにぶつけることはしないようでも、会えた日にはなるべく会話を仕掛けている感じで、診察の日は紅磨くんも自然と戸宮さんを話題にする。紅磨くんにはそれに悪気がないから、私も戸宮さんの話は聞きたくないなんて言いづらい。
五月も下旬になって、いっそう日射しが強くなる中を歩いて出勤した。肌を蒸される感じがほとんどもう夏だ。ハンドタオルで汗を抑えながら涼しい店内を横切り、バックに向かう。
するとドアに鍵がかかっていて、鍵持ってるの誰かな、と思ったとき「綾川さん」と呼ばれてそちらを向いた。森名さんが指先に鍵をぶらさげて歩み寄ってきている。「どうも」と受け取ると、「何かぼんやりしてる?」といきなり言われてどきんとする。
「え、と──そう見えますか」
「鍵持ってるよって声かけようとしたけど、気づかなかったから」
「あ……すみません。仕事では切り替えます」
「そっ。じゃ、ランチ始まるから早くね」
「はい」
森名さんはしゃきっとした足取りでホールに戻って、私は鍵を開けてバックに入る。クーラーは切られていて、暑かった。早くホール出たほうが涼しいや、と私は制服に着替えて、エプロンを身にまとう。バックに入れていたペットボトルのお茶で、さっと水分補給しておく。そうしていると十二時前になり、私はバックをあとにしてホールに出た。
今日も、紅磨くんは大学の授業があってオフだ。大学が終わったら、歯医者に寄って実家に帰るのだと思う。また戸宮さんに会ってくるのかあ、とどうしてももやもやが募る。最近、紅磨くんも戸宮さんに気を許しつつある感じだ。私以外はなしって約束したのに、と憂鬱に睫毛を陰らせ、つい「いらっしゃいませ」という呼びかけの声に張りがなくなっていた。
空になった食器を回収して、ホールに戻ろうとしていたところ、不意に「綾川さん」と水津さんに声をかけられた。
「あ──はい」
「やる気がないなら、帰ってもいいんですよ?」
「えっ」
唐突な注意にどきりとして水津さんを見ると、水津さんは眼鏡の奥から鋭い眼つきをしている。
「気持ちよく『いらっしゃいませ』が言えないなら、飲食も接客も辞めたほうがいいと思います」
この人、裏を返せばスタッフをよく見ているのかもしれないけれど。何でそう、突き放すような忠告なのだろう。私はうつむき、返す言葉もなく「……すみません」と小さく謝る。
「このまま帰りますか? そうしてもいいですよ」
「い、いえっ。ちゃんと、頑張りますので」
「じゃあ、もっとお客様に接していることを意識してください」
冷たくそう言って水津さんはホールへと出ていき、帰ればよかったかな、と一瞬思ってしまった。
何だか、水津さんの下でいるのは本当にきつい。スタッフみんなの評判も良くないし、特に私に対して強く当たってくるのも気のせいではない。それが紅磨くんが私をかばうからという理由なら、人としてどうかと思う。
「きっつい……なあ」
壁にもたれて、声にしてつぶやいてみると、涙が滲んでほろほろと雫が落ちてきた。伏せた顔を手で覆い、ずるずるとしゃがみこむ。
最近、うまくいかないな。恋愛も、仕事も。些細なかけちがいだと分かっていても、放っておいたら歯車は軋んでばらばらになる。どこかで、この、今はまだ小さい痛みを摘み取らないと──
「綾川さん」
名前を呼ばれてびくんと顔を上げ、そこにいたのが森名さんだったので少しほっとする。私は急いで咲うと涙をはらって、「すみません」と立ち上がる。
「ちょっと不安定で」
「水津さんに何か言われたんですか」
「軽く注意されただけです」
「でも、泣いてるし」
「これは……まあ、今ちょうど打たれ弱く──」
て、と言い終わる前に、森名さんが私を腕を引っ張って抱き寄せてきた。え、と頭に混乱が生じて心臓が跳ねる。顔に当たる筋肉から森名さんの匂いがして、「少しこうしてますんで」と森名さんの声が耳元に響く。
「甘えてください」
「でも、」
「別に誰にも言いませんから」
「………、」
「泣きたいんですよね」
私は森名さんの胸に額を当てた。泣きたい。泣きたいよ。そばにいてくれる人の腕の中で泣きたい。けれど、やはり誰でもいいわけではない。
紅磨くんがいい。紅磨くんじゃないと、私の心は癒やされない。誰に優しくぎゅっとされても、心の傷みは何も変わらない──。
その夜、紅磨くんは私を部屋に送ると、「レポートやってるだけだけどお邪魔していい?」と遠慮してきた。「家のほうが集中できるんじゃない?」と鍵を取り出しながら言うと、「むしろ家は騒々しい……」と紅磨くんがつぶやいたので、私は苦笑して「じゃあどうぞ」と部屋に紅磨くんを招いた。
紅磨くんは消したテレビの前の座卓でレポートを始めて、私は夕ごはんにサーモンとマッシュポテトのグラタンを作った。チキンをほぐしたサラダもできあがると、「食べるとき言ってね」と紅磨くんの背中に声をかけて、ベランダに出た。
ポケットのスマホを取り出し、やや迷ったあとに通話ボタンをタップした。出るかな、とそわそわしていると、わりとすぐに『もしもーし』と南乃の声が返ってきた。「久しぶりー」とと手すりにもたれながら言うと、『ほんとだよ』と相変わらずざくざく言う親友に笑って、「ごめん」と私は肩を竦める。
『何かあった?』
「まあいろいろと」
『彼氏とはどうよ』
「うまくいってるんだと思うけど」
『と思うけど』
「やっぱ、紅磨くんは若いし、モテるよなあ……」
『浮気疑惑?』
「浮気はしてない。ただ、仲良くなってる女の子が、たぶん私のことよく思ってない」
『彼氏狙ってるってこと?』
「どうなんだろ。分かんないけど、とりあえず紅磨くんは彼女に危機感がなくて、私も強く言えない」
『危機感ないから強く言うもんじゃないの』
「紅磨くんは友達ぐらいには思ってるんだよ、その子を。その程度に口出ししたら、被害妄想の女でしょ」
『そうかなあ……。悠海が嫌だなって思うなら、素直に伝えてみていいと思うよ』
「……ん。ありがと。あと、仕事だー。店長に限界だー」
『店長変わってけっこう経つよね』
「無理。向こうに歩み寄る気配がない」
『前の店長はよかったんだよねー』
「真垣さんね。今、どうしてるのかなあ」
『連絡とかは』
「取ってない。スマホに連絡先は残ってるんだけど」
『今の店長のこと、相談したら?』
「陰口じゃん」
『相談だよ』
「……相談していいのかなあ。仕事大変だろうし」
そんなことを言いつつ、真垣さんに話せるならまだ気が楽になるんだけどなあ、とため息が出る。でもやっぱり、真垣さんには今の店舗のことがあると思うから、相談なんてしていいのか分からない。
いや、エリアマネージャーなのだから、頼っていいのだろうか。とはいえ、水津さんの態度がつらいですって、思いっきりメンタルな相談でうざったいよなあ──
電話が終わっても、ベランダの夜風の中でそんなことを考えていた。ふと背後のガラス戸が開いて、「悠海さん」と声がかかる。振り向くと、紅磨くんが室内の逆光の中にいる。
「レポートひと区切りついたんで、夕飯食べたい」
「あ、うん。分かった。あっためるね」
「電話してた?」
「あー、うん。南乃と」
「南乃さんって会ったことない」
「え、会いたい?」
「悠海さんの親友なんでしょ」
「まあ、そうだね」
「紹介は、してほしい」
私は少し咲って、「南乃に言っておく」と言って部屋に入った。紅磨くんは座卓に戻って、散らかした教科書や参考書を片づける。レンジでグラタンを温めなおすと、クリームソースの柔らかな匂いがふんわりとただよってきて、テーブルを片づけた紅磨くんもキッチンにやってくる。
「ねえ、悠海さん」
「うん?」
「俺、ちゃんと断ったから言うけど」
「うん」
「今日、戸宮に一緒にどこか行かないかって誘われた」
「えっ──」
「それはデートになるだろ、って言ったら、デートだよ、とか言ったから。ちゃんと断ったけど」
「う……ん」
「俺、悠海さんとつきあってるって言ったよなー。変なの」
「………、それは、」
「ん」
「……ううん。テーブル片づいた?」
「うん。何か取りに来た」
「じゃあ、サラダお願い」
「了解」
紅磨くんはドレッシングをかけたサラダの小鉢を座卓に持っていく。私はレンジを覗き、デート、と反芻した。
私がいるのに、それでも誘う。それは──勝てる、と思っているからだ。そうだ。私はアラサーのおばさんで。紅磨くんに相応しくないかもしれなくて。戸宮さんは、私より自分のほうが紅磨くんに似合うと思っている。
それでも、私は紅磨くんを取られたくない。私に安らぎをくれる腕を持っているのは紅磨くんだけだから。サラダを置いてきた紅磨くんが「いい匂い」と戻ってきて、私の背中を抱き寄せる。
「紅磨くん」
「んー?」
「早く虫歯全部治してね」
「うん。あと二回か三回で終わるから」
「ほんと?」
「治療する歯はもう一本だよ。あと、最後に歯石取ってくれるんだって」
「そっか。よかった」
「また悠海さんのお菓子食べれる」
「そうだね」とつい微笑んでしまう。あともう少し。そしたら、戸宮さんは紅磨くんの生活からいなくなる。それさえ乗り越えたら、私も少しは楽になれるはず。
そう思って心を鎮めていると、ベルが鳴り、「腹減ったー」と言う紅磨くんのために、私はまろやかな香りがこぼれるレンジの扉を開けた。
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