角砂糖をちょうだい-2

君に癒やされていく

 お昼はラーメンでも湯がいて食べるかなあ、と五階でエレベーターを降りると、私と紅磨くんの部屋の前に座りこむ学ランすがたの男の子に気づく。
「蒼磨くん」
 私が声をかけると、男の子はぱっと顔を上げて、「悠海さんっ」と笑顔になった。そして身軽に立ち上がると、私に駆け寄ってくる。
「わ、また背伸びた?」
「毎晩骨が痛いよ」
「ふふ、でも紅磨くんのほうがまだ目線高いかな」
「えー、やっぱ女の人は背が高いほうがいい?」
「私は気にしないよ。部屋、上がっていく?」
「うんっ」
 元気にうなずいた蒼磨くんを連れて、私は鍵を開けて部屋に入った。「お邪魔しまーす」とついてくる、この蒼磨くんという男の子は、紅磨くんの弟だ。ちょっとくせっぽい髪、大きな瞳やまだ荒削りな頬から顎の線が幼い。
 軆は会うたび成長して、三年目の学ランは新一年生のときはぶかぶかだったのに、今は丈が心許ないくらいになりつつある。私の存在は小学生のときに知って、懐いてくれている。
「新学期って始まってたっけ」
「んーん。今日は入学式で、三年生は雑用で登校」
「あー、何かそんなしきたりあったね」
 私も紅磨くんも、蒼磨くんが通う中学校の卒業生だ。私はもはや、十年以上前の話だけれど。
「昼まで働くんだから弁当くらい支給されてもいいのに、オレンジジュース一本だよ」
「え、私のときはジュースもなかったよ」
「マジで。入学式なんか、先生だけでちゃちゃっとやってくれたらいいのにー」
 そう言いながら蒼磨くんはスニーカーを脱ぎ、エコバッグを提げる私を追いかけてダイニングルームまでやってくる。私はテーブルにエコバッグを置いて、「じゃあ、お昼食べてないの?」と蒼磨くんに首をかたむける。
「うん。腹減った」
「私もまだだから、ラーメン食べようかなって思ってたけど」
「ラーメン! 俺も食べたい」
「分かった。用意する」
 言いながら、私はエコバッグの中身を冷蔵庫や戸棚に片づけていく。蒼磨くんは紅磨くんの椅子に腰かけて、「にいちゃんは、病院の先生頑張ってる?」とまばたきをした。
「頑張ってるよ。まだまだ修行みたいだけど」
「ふうん。にいちゃんが病院で働いてるのって想像つかないなー。しかもカウンセリングしてるとか」
「紅磨くんは優しい先生だと思うなあ」
「悠海さんは優しい先生っぽい」
「私はぜんぜん頼りないよー。すぐ医院長先生にヘルプ出しちゃうし」
「医院長先生はかっこいいの?」
「仕事はできるかな」
「仕事は」
「いろいろあるの、大人は」
「むー」と蒼磨くんはふくれて、私はグラスにペットボトルの烏龍茶をそそいで蒼磨くんの前に置いた。蒼磨くんはそれをごくんと飲むと、「悠海さん」と少しまじめな声になる。
「うん?」
「今日、絵梨紗も入学式だったんだ」
「絵梨紗ちゃん」
「あいつ、高校生になっちゃった」
 絵梨紗ちゃん、というのは蒼磨くんの幼なじみの女の子だ。紅磨くんの幼なじみ、茉莉紗さんの妹でもある。
 蒼磨くんと絵梨紗ちゃんは、思春期に入るあたりから微妙な関係だ。蒼磨くんは何度か絵梨紗ちゃんに想いを告白しているそうだけど、絵梨紗ちゃんがまともに受け取ってくれないらしい。
「年下の男って、そんなに子供なのかなあ」
「そんなこと言ってたら、私と紅磨くんどうなるの」
「だよねえ。でも、絵梨紗は俺が『好き』って言っても、『はいはい』とかって笑い飛ばすんだよー」
「絵梨紗ちゃん、ちゃんと話したことはないけど。うーん、蒼磨くんをかわいがってはいるよね」
「かわいがるとかやだもん! 俺が絵梨紗を守りたいの」
 私はくすりと咲い、紅磨くんの弟だなあ、なんて思う。紅磨くんも私を守ることに昔から使命を感じている。
「絵梨紗、やっぱ好きな奴いるのかなあ。誰かとつきあってたらどうしよう」
「そういう気配あるの?」
「分かんない。何か、普通に俺のこと見てくれると思ってきたのに。こんなに振られると自信なくなる」
「振られてはないと思うよ」
「そうなの?」
「ごまかされてるだけかも」
「何でごまかすの? もし俺のこと好きなら『好き』って答えたらいいじゃん」
「うーん、そうなんだけど……蒼磨くんの年頃だと、一歳でも大きかったりするから」
「やっぱり、年下だから相手にしてもらえないの?」
「それもあるのかなと。まだあきらめることはないよ。私は蒼磨くんの気持ち応援してる」
「うう、悠海さんー」
 蒼磨くんは大きな瞳をうるうるさせて、「にいちゃんが悠海さんで癒やされてるのすっげえ分かる」と言った。私はまた笑ってしまいつつ、湯がくだけの塩ラーメンをふたふくろキッチンの引き出しから取り出す。「これでいい?」と確認すると、蒼磨くんはこくんとした。
 盛りつけるコーンを用意しておき、買ってきた春キャベツのほかに、ちょっと海鮮ぽくほぐした鮭やボイルしたホタテも入れて塩スープで麺を湯がく。できあがるとどんぶりに盛りつけて、「はい」とまず蒼磨くんの前にラーメンを置いた。「かあさんなら麺しか湯がいてくれないよ」と蒼磨くんはラーメンをすすり、「うまいー」と言ってくれる。
 私も自分のぶんをどんぶりによそって、蒼磨くんの正面の席で海鮮風の塩ラーメンを食べた。ちょうど冷凍庫にあったホタテの味が、スープにコクを出していて思っていた以上においしい。
 食事が終わると、私と蒼磨くんはリビングでテレビを観ながら、絵梨紗ちゃんのことや蒼磨くんが受験生になることを話した。志望校は決まっているのかと訊いたら、絵梨紗ちゃんが進んだ共学の高校一択なのだそうだ。
 絵梨紗ちゃん愛されてるのになあ、と思うけれど、私も紅磨くんに想いを打ち明けられ、アプローチされていたときはずいぶんとまどった。一見、七歳差と一歳差じゃまったく違うのかもしれないけども、十代同士の一歳差は大きい。しかも、高校と中学に別れたら、焦りはよりいっそうだろう。
 十八時を大きくまわって、「にいちゃん、ほんと遅っそいなあ」とつぶやいた蒼磨くんは、テレビの前を立ち上がって「ひとりにするけど、気をつけてね」と私のことを気にかけてくれてから、家に帰っていった。私はきちんと鍵とチェーンをかけ、まだお腹空かないなあ、と思ったものの、紅磨くんは空腹で帰ってくるはずなので、夕食の支度を始めた。
 昼食にも使った春キャベツが残っていたので、それを塩胡椒で炒めて、分けて炒めた鶏モモ肉とタレで絡める。香ばしいその料理をメインに、ひじきの煮つけやわかめのスープ、それから白いごはんも炊く。紅磨くんが毎晩楽しみにしているデザートは、私が作るときもあるけれど、今日はスーパーでおいしそうだった桜もちがある。だいたい一時間で夕食が仕上がって、使った調理器具を洗って水切りに並べる。
 スマホを手にしてみると、いつのまにか紅磨くんのメッセが着信していた。今電車に乗ったところ──というメッセが、二十分くらい前。じゃあ帰ってくるのは三十分後くらいかな、と推して、リビングでゆったり待つことにした。テレビはケーブルに加入しているので、いろいろチャンネルがあるのが助かる。
 私はアニマルチャンネルでひたすら癒やされるのが好きだ。紅磨くんと映画を観たり、ライヴ映像を観たりするのも好きだけれど。私が動物を見ているのが好きなのも、紅磨くんと初めてのデートで観た映画が動物ものだったからかもしれない。
 紅磨くんの前でぼろぼろ泣いちゃったんだよなあ、といまだに思い出すとちょっと恥ずかしい。映画の前にはクレーンゲームでぬいぐるみを取ってもらって、そのぬいぐるみは今は寝室の窓際に飾っている。同棲を始めるとき、私がいそいそとそのぬいぐるみを取り出したときは、紅磨くんも初デートを思い出して喜んでくれたっけ。
 野生のワラビーのすがたを追った番組を観ていると、かちゃかちゃ、と鍵をまわす音に続いて、「ただいまー」という紅磨くんの声がした。私ははたと振り返り、立ち上がって玄関に向かう。
「おかえり」と声をかけると、靴を脱いでいた紅磨くんが私を見て笑顔になる。「悠海さん」と呼ばれて、見上げる紅磨くんはやっぱり蒼磨くんより背が高い。紅磨くんは荷物をドアマットにおろすと、私をぎゅっと抱き寄せる。
「はあ、癒される」
 紅磨くんがそんなことを言うので、昼間の蒼磨くんの台詞を思い出して笑ってしまう。「癒やせてるなら何よりです」と私も紅磨くんの背中に腕をまわし、広い背中をさすった。
「おいしそうな匂いがする」
「あ、キャベツと鶏肉をタレで和えた奴かな。食べる?」
「もちろん。腹減ったー」
「用意するね。紅磨くんは着替えでもしてて」
「了解。ごめんね、いつもこんな遅くて」
「私は大丈夫だけど、紅磨くんは無理してない?」
「俺はたくさん勉強させてもらってる身だから、遅くまで先輩につきあってもらってるの助かってるけど」
 紅磨くんの面倒を見ているのが男の先生らしい、というのは聞いているので、正直、それでほっとしているところはある。女の人だったら──紅磨くんは昔からモテるので、よこしまな不安もあったかもしれない。それに、『大丈夫』なんて言いつつ、やはり平日の共に過ごせる時間がずいぶん減って、少し寂しい。
 すっかり私のほうが紅磨くんに入れこんでるなあ、と苦笑しつつ、軆を離して料理を温めるためにキッチンに向かおうとしたとき、「悠海さん」と紅磨くんが私を呼び止める。
「うん?」
「あのさ、今は──もしかして、悠海さんに寂しい想いさせてるかもしれないけど」
 どきりとして紅磨くんを見ると、紅磨くんは私に近づいて頬に触れると微笑む。
「俺、悠海さんとクリニック開くの、ほんとに夢だから。頑張らせてね」
「……うん。分かってる。私もそのときのために、今、あの病院で経験積んでるんだもん」
「医院長に口説かれてない?」
「口説かれても流すから」
「うー、口説かれるんだ」
「先生、女はとりあえず口説くみたいなとこあるから」
「患者は口説いてないよね?」
「そこは境界線あるみたい」
「何かなー。俺はその医院長だけはすっげえ心配……」
「そこはほんとに安心して。私が紅磨くん以外の人に揺れるわけないよ」
「……へへ、そだね。ありがとう、悠海さんが俺のことだけ想ってくれて嬉しい」
「私も、紅磨くんに大切にしてもらえて幸せだよ」
 紅磨くんは瞳に愛おしさをこめると、身をかがめて、私に軽くキスをした。すぐ唇は離れても、微笑が絡みあって、私たちなら大丈夫だよね、と思い直した。不安も寂しさも必要ない。私と紅磨くんは、こんなに強くつながっている。
 そして願わくば、落ち着かない七重先生や想いが届かない蒼磨くんも、好きな人とこんな関係を築けるようになったらいいな、と思った。

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