角砂糖をちょうだい-3

春の雨

 約束通り、紅磨くんと近所の公園でお花見をした翌日、空の雲行きが怪しくなってきた。
 仕事を終えた私が買い物のあと帰宅し、洗濯機をまわしていた夜には雨が降り出した。こういうとき、乾燥までできる洗濯機を買ったのは正解だったと思う。菜の花と小エビのパスタを醤油風味に仕上げながら、紅磨くん傘持ってたよね、とちょっと心配になる。洗濯が終わると、ほかほかの洗濯物をたたんでいつもの場所にしまっていく。
 そしてスマホをかたわらに置いて、今日もテレビを観ながら紅磨くんを待っていたら、「ただいまー」という声が玄関に聞こえた。
「おかえり、紅磨くん」
 そう言って私が出迎えた紅磨くんは、びしょ濡れの傘を置いたものの、それでも肩や足元が濡れてしまっていた。
「大丈夫? タオル持ってくるね」
「ありがと。雨強くなってきたよ」
 私はそばのバスルームにあるラックからバスタオルを一枚取り、玄関に戻る。そのタオルで紅磨くんの肩をぽんぽんとぬぐいつつ、「シャワー浴びたほうがいいかな」と私は首をかたむける。
「そっちのがあったまるし」
「そうだね。一緒に入ってくれる?」
「私は夕食を用意します」
「ちぇっ。今夜、何?」
「パスタだよ。あと、オニオンスープと新じゃがのサラダ」
「悠海さん、前はお菓子だけだったのに、料理も上達してくよね」
「そ、そうかな。紅磨くん食べてくれるから」
「へへ。うん、食べる。よしっ、じゃあシャワー浴びてくる」
 咲った紅磨くんは、私の手にあったタオルを取り、バスルームに入っていった。料理なんて、確かに以前は面倒だった気がする。けれど、今は紅磨くんが一緒に食べてくれるから、おいしいものを作りたいと自然と思うようになった。
 キッチンで料理を温めながら、紅磨くんが言ったとおり、雨脚が強くなっているのを窓をたたく雨粒で確認する。ダイニングのテーブルに料理を並べて、いつもの甘めのコーヒーを作る。よし、とできあがった夕食の支度にひとり納得していると、やがて紅磨くんが部屋着になって現れる。
 湿った髪がそのままで、「風邪ひくよ?」と心配すると、「腹減りも深刻だから」と紅磨くんはテーブルに着いた。
「雨、ほんとすごい降ってるな。昨日は晴れてたのに」
 菜の花の緑色が絡みつくパスタをくるくるとフォークに巻きつける紅磨くんに、「お花見行っておいてよかったね」と正面に腰を下ろした私は、サラダの半熟たまごをつぶして、ひと口大のじゃがいもを頬張る。
「あ、そっか。桜も散っちゃうんだよなあ」
「あっという間だね」
「もうちょい何回か見たかったー」
「いっぱい写真撮ってたのに」
「桜はいくら撮っても飽きないもん」
「ふふ、分かる。何か毎年撮っちゃうもんね」
「それに、花見行ったら悠海さんの弁当食えるからなー」
 私は笑ってしまい、「来年もありますから」と紅磨くんをなだめた。すると紅磨くんは私を見て、嬉しそうに微笑むと「そうだね」とうなずいた。
 食後、食器は紅磨くんが洗うと言ってくれたので、甘えることにした。そのあいだに私もシャワーを浴びて、リビングに戻ると紅磨くんは本を読んでいた。お世話になっている先生が書いた、心療と薬に関する本なのだそうだ。
 薬かあ、と私は何となく紅磨くんの幼なじみの茉莉紗さんを思い出す。
 茉莉紗さんは大学は薬学部に進み、現在薬剤師として働いている。その調剤薬局が、また私たちの駅前にある大きなところで、七重クリニックの処方箋もそこへ持ちこむ人がほとんどだ。
 近所なので、帰宅中の私と昼休みの茉莉紗さんは、ときおり顔を合わせていたりする。特に弾む話があるわけでもないので、すぐすれちがってしまうけれど。
「紅磨くん」
「んー?」
 本のページをめくって、目は文章をたどりながら紅磨くんが答える。
「最近、茉莉紗さんに会った?」
「茉莉紗? あー、ぜんぜん会ってねえな。生きてんのかな」
 私は小さく咲って、紅磨くんの肩にもたれた。同じボディソープの匂いがする。紅磨くんはやっとこちらを見て、私の肩を抱くと「よしよし」と頭をさすってくれた。それから私も本を覗きこみ、しばらく紅磨くんと一緒に、ふたりで一冊の本を読んだ。
 茉莉紗さんが薬学部に進んだ話を聞いたとき、思い出したのは紅磨くんが精神科の勉強もしていることだった。心の病気と薬物治療は切り離せない。その切り離せない位置を茉莉紗さんが志したことを、私は正直どう思ったらいいのか分からなかった。
 零時前、続く雨音の中で紅磨くんと私は同じベッドにもぐりこんだ。紅磨くんは私を抱きしめて、そのまま朝まで放さないのがうまい。冬場はもちろんだし、夏場もクーラーをつけて寝るから結局ちょうどいい。
 とくんとくんと響く紅磨くんの鼓動を聴きながら眠るのは心地よい。紅磨くんはあやすように私の髪を撫でてくれて、そのまま私が先に寝てしまうこともあれば、ふと手が止まって紅磨くんが寝てしまうときもある。
 今日は雨の中を帰宅して疲れたのか、紅磨くんが先に眠ってしまった。私は紅磨くんの胸から顔を上げ、無防備な寝顔を見つめてじわりと幸せを感じる。このままずっと、紅磨くんの寝顔が私だけのものだといいな。そんなことを思って、私もまぶたをおろして微睡んでいった。
 翌朝、雨はまだ降っていても小雨になっていた。「濡れて風邪ひかないようにね」と言った私に「ありがと」と短くキスをして紅磨くんは出勤していく。私も出勤なので、軽く家事を済ませて身支度を整えると、傘をさして駅前へと向かった。
「おはよう、悠海ちゃん。雨やまないねー」
 春とはいえ朝の雨は冷たく、病院に着くと軆が冷えてしまっていた。なので、準備の前に熱い紅茶を飲もうと更衣室につながる給湯室に行くと、七重先生がひとりでまったりコーヒーを飲んでいた。
 短めの髪、しっかりした眉、明るい瞳に快活な口。かっこいいというか、さわやかな少年みたいなイメージが強い。藤尾さんもそれは結婚で捕まえておきたいよなあ、と思う。
 私はにこにこと話しかけられても、七重先生の言葉は仕事のアドバイス以外は流すようにしている。今も「そうですねー」とか適当に合わせておいて、ティーバッグがしまってある棚を開ける。
「悠海ちゃんはいつも紅茶だよね。家でもそうなの?」
「家ではコーヒーも飲みますけど、ミックスが多いです」
「ミックス」
「粉の奴です。ミルクとか最初から混ざってる」
「甘いよね」
「彼氏が苦いのダメなので」
「子供っぽいなあ。年下だっけ?」
「そうですけど──別に、子供っぽくはないです」
「年上とちょっと遊んでみるとかどう?」
「遠慮します」
「冷たい女の子ってそそるなあ」
 女の子って歳でもないんだけど。私はため息をついて、ティーバッグと砂糖を入れたマグカップにポットからお湯をそそぐ。紅褐色の水面から香ばしい湯気がふわりとのぼる。七重先生はコーヒーをすすって、「彼氏はきっといいカウンセラーになるよ」と不意に言った。
「悠海ちゃんを、僕になびかないぐらい強くしたんだからね」
 私は先生を見つめ、何だか自画自賛が入っている気もしたけれど、「そうですね」と咲った。先生は空になったマグカップをゆすぐと、「よし、仕事だー」と言いながら給湯室を出ていく。静かに紅茶を飲むと、胃から軆が温まる。
 紅磨くんが私を強くしてくれた。それは確かかもしれない、と思った。
 開院して五年になるこのクリニックに通う患者さんはけっこう多い。基本的に予約制でも、今助けてほしいという飛びこみの患者さんもいるから、七重先生はひとりの患者さんを長くて二十分くらいしか見れない。私のほうは、ゆっくり三十分くらい話を聞いたり、心理検査のときはもっと時間をかけたりする。付き添いがあれば、親御さんとも話をする。
 だから、お昼を過ぎるのなんていつもすぐだ。その日も最後の診察が終わったのは十三時半が近くて、カルテを整理したり片づけをしていると、十四時を大きくまわった。診察室を覗いて七重先生に挨拶して、受付の遠藤さんと藤尾さんにも「お疲れ様です」と頭を下げると、私は病院をあとにした。

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